2月14日に青峯山(あおみねさん)正福寺で行なわれる『御船祭』には全国から奉納された大漁旗が参道から本堂まで所狭しと掲げられ各地から参詣の漁業関係者で賑わう
写真の中央やや左の白いアーチ型の橋の向こう側が鳥羽市です
「波 の谷間に 命の花が ふたつ並んで 咲いている 兄弟船は 親父のかたみ 型は古いが しけ にはつよい おれと兄貴のヨ 夢の揺り籠さ・・・」潮風に乗って、鳥羽一郎さんの「兄弟船」が聞こえてきそうな懐かしい鳥羽・・・
今回紹介するのは、幾つかある私のふるさとのひとつ三重県、そして港町鳥羽です。
鳥羽の国崎は約2000年前に天照大神が海女の差し出した鮑(アワビ)を召し上がり気に入られ、それ以降毎年伊勢神宮に鮑を献上することとなる舞台となった所であり、戦国時代には九鬼水軍の本拠地として全国にその名前を轟かせた地でもあります。
毎年、伊勢神宮の天照大神に献上されるという鮑です
海女さんたちのご苦労に感謝いたします
海女小屋で体験
昔々のお話です。50年近く前の事なので、あまり記憶も定かではありませんが、何とか思い出しながら書いています。
確か昭和40年代のはじめの頃だったと記憶しています、週末になると必ず車で名古屋から鳥羽を経由して、最奥にある「大王崎」の製材工場まで建築材料を届ける名古屋で一番の老舗建材問屋があり、私もどうせ翌日は休みなのでよく観光客気分で同乗させてもらい行ったものです。
それまでにも鳥羽までは、谷本第二代鳥羽市長とご子息に会うため時々通っておりました。
当時はバイパスも高速道路もなく、四日市を過ぎると東海道は鈴鹿峠を越え滋賀県の水口、更には中山道と東海道と北国海道など、主要な街道が縦横に通る「街道の町」草津(そういえば近江草津にもよく足を運びましたが、草津宿の当時の宿帳「大福帳」には、忠臣蔵の吉良上野介や浅野内匠頭、皇女和宮、新撰組の土方歳三などの名も記されているそうですよ。)を抜け、
瀬田の唐橋(昭和33年までは国道1号線は瀬田の唐橋を通っていた。織田信長の時代には瀬田の唐橋を握る者が天下を取るとまで言われた重要な橋だったんですね。
紫式部も石山寺で書いた源氏物語、船で瀬田の唐橋をくぐりその岸に降り立ったからこそ、源氏物語を残すことが出来たのだと、近江の人たちから耳にタコが出来るくらい、何度も何度も聞かされました・・・)を渡り京都三条大橋へ向かう街道と津、松阪、伊勢、鳥羽、志摩へ向かう街道の分岐点「追分」の交差点に差し掛かる辺りで必ず大渋滞となり、その後伊勢までたどり着くのに、少し動いては止まり、止まっては少し動くの繰り返しで、現在の2倍以上の時間を費やしたものです。更に大王崎はその先の先にあります。
大王崎灯台 志摩半島の東南端にあり、遠州灘と熊野灘の荒波を二分するように突出した海の難所として知られていたところです。昔訪ねた製材工場はこの町の中にあるはずです
大王埼灯台からの美しい初日の出、各地から大勢の人たちが訪れる。是非、日の出を観に出かけてみて下さい!
それでも「伊勢の神前、国崎の鎧、波切大王がなけりゃよい」と船乗りたちに恐れられた大王崎は私にとっては乙姫様こそいませんがまさに、竜宮城でした。と言うのも大王崎の製材工場にたどり着くのは、名古屋を夕方に出るので夜中です。辺りは真っ暗で灯台の灯りだけを頼りに製材工場に着き、建築材料は車に乗せたまま、木造の大きな工場の2階に上がると、夜食と寝具が用意してあり、あとは夜食をとり寝るだけでした。
今はせいぜい2~3時間位しか寝れませんが、その時はいつも目が覚めると正午近く、すでに車から荷物は降ろされて、昼食が用意されていました。
それがなんと、漁師鍋と言うのか、直径1㍍位の年季の入った茶色くなった鉄鍋が火にかけられていてバチバチと薪の音と共に火の粉が宙に舞い、錆びた鍋の中の味噌汁をかき混ぜると、蟹、伊勢海老、アワビ、サザエがこれでもかと言うくらい入っていてグツグツと煮だち、さらに製材工場が海に面して建っていることもあり何とも言えない心地よい潮の香りが漂っていました。男二人で直径1㍍の鍋の漁師料理(?)をたいらげ、お礼を言って帰ろうとすると、獲れたばかりの魚介類を毎回お土産に頂き、良い思いをして帰った記憶が甦ってきましたが、その後のことをよくよく振り返ってみると、私は、どうも人生において4~5回有るか無いかの幸運を全てそこで使い果たしたようです。(笑)
あの頃は20代でしたから喰い盛り。飽くなき棚ボタグルメの追求!
教訓「過ぎたるは及ばざるがごとし」・・・・
さて、それでは本題に入りたいと思います。
この「青峯山正福寺」には、日本全国の大漁旗が集まります。漁業関係者は大漁旗を新しいものに変える時、それまで使っていた大漁旗をお礼に奉納するそうです。
2月14日の「御船祭」には奉納された大漁旗がお寺の参道から境内まで数え切れないほど飾られて一日中大漁まつりで盛り上がります。
「御船祭」は、旧暦1月18日(今年は太陽暦2月14日)におこなわれます。
鎹八咫烏記
一斉に大漁旗を掲げて帰港する漁船
青峯山正福寺金堂「御船祭」
青峯山正福寺金堂 的矢の大工棟梁、中村九造が長い歳月をかけて造り上げた彫刻
青峯山正福寺
標高336mの青峯山(あおのみねさん)山頂にあり、広大な寺域を誇る正福寺の本尊は「鯨にのった観音様」の伝説に登場する黄金の十一面観音菩薩である。
毎年旧歴の1月18日に行われる御船(おふな)祭には、大漁旗が立ち並び、海上安全の祈願所として、志摩一円の船員、漁師、海女の参詣で賑わう。
真言宗高野山派の寺。青峯山は、地元では「青峰さん」の愛称で親しまれ、海上守護の霊山として、関東・関西を中心に、北海道から九州まで全国的な信者をもつ。
正福寺は天平年間(729~748)に聖武天皇の勅願によって僧行基が開いたと伝えられ、本尊は鯨に乗って来たと言われる十一面観音菩薩。境内には、本堂、鐘楼堂、聖天堂、庫裡、休憩所等17棟の建物があって、寺域も広大で志摩一の巨刹である。
正福寺の山門は昭和47年に鳥羽市の指定文化財に指定される。
青峯山正福寺大門 入口の大門には鳳凰や龍,伊勢海老など様々な彫刻が施され、江戸時代に「鳥羽藩に過ぎたるもの」と俗謡に唄われたほどで一見の価値があります。
青峯山正福寺大門
この山門は、文政13年(1830年)に落成したのが通説とされているが、天保5年(1834年)の道中日誌「磯部参り」(神宮庫蔵)によれば、このころの山門はまだ、「小屋の柵一面に彫物の柱おびただしく積みかさね」という状態であったことから、これより数年後の落成と思われる。建築は、的矢の大工棟梁、中村九造長い歳月をかけて造り上げたものである。入母屋造り、本瓦葺、三間一戸の楼門で、柱の各部に多用された彫刻をよく見てみるとイセエビも隠れている。
各部に多用された彫刻はそれぞれ繊細を極め、江戸時代末期の特色をよくあらわしている。当時、その彫刻の見事さから、「鳥羽藩には過ぎたるもの」として評判であったと言われる。昭和47年に市の文化財に指定された。
青峯山正福寺 三重県鳥羽市松尾町519 TEL 0599-55-0061
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鎹八咫烏
石川県 いしかわ観光特使
伊勢「斎宮」明和町観光大使
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