山門
山門の天井には、狩野派絵師による天女と迦陵頻伽が描かれ現在も色あせる事無く当時のまま残されています。
山門の扉の彫刻が素晴らしい
本堂須弥壇 本尊の阿弥陀如来は行基の作と伝えられています
今号では、一昨日紹介した富山県南砺市のユネスコ文化遺産『城端曳山祭』にご来場者の方たちの交流の場所を提供されて側面支援をされておられる真宗大谷派 城端別院 善德寺を紹介いたします。
永禄2年(1559)城ヶ端城主荒木大膳の招きにより、浄土真宗の善德寺が福満の里から来往すると、門前を中心に市場も開かれ、寺内町が形成された。また、人口も増加して絹織物などの生産も盛んになった。城端の町の繁栄のきっかけとなりました。
本堂
親鸞聖人像
城端の町を見守られてこられた善德寺は、開基から530余年を経た真宗大谷派の大刹で、本尊の阿弥陀如来は行基の作と伝えられています。親鸞聖人御真筆「唯信鈔」や蓮如上人御親筆など1万点以上の宝物を所有しており、それらの一部は7月22日から1週間にわたって公開されています。その「虫干法会」では、宝物の展示をはじめ、それらの解説や絵解きが行われます。また、県指定文化財の山門・本堂・太鼓堂(楼)も必見。
蓮如上人像
善德寺の歴史
城端別院は真宗大谷派の寺院で寺号を善德寺、山号を廓龍山と号す。蓮如上人が吉崎に於いて精力的な布教をされていた頃、本願寺第五代綽如上人の孫である蓮真は蓮如上人の願いにより現在の石川県と富山県の県境にある砂子坂に文明年間(1470年頃)に一寺を建立し、蓮如上人を開基、自身を第2世とした。その後、布教活動とともに寺所を移転し、第5世祐勝の時代に現在の城端町に移転してきた。
第6世空勝は本願寺と織田信長との石山合戦に参戦し、あくまで本願寺を死守しようとする教如上人(東派1代目)に協力し尽力を尽くした。この事が後の東西分派で善德寺が東派になる事や、江戸時代に於いて越中東方の最有力寺院としての地位や役割を果たす事になった。
また江戸時代には加賀藩前田家の庇護のもと、越中の触頭役(頭寺)を勤め隆盛し、時には加賀藩主の子を住職として迎えることもあった。
以来、聞法の場として地域の方々に慕われ支えられて今日に至っている。
屋根瓦部分を銅葺きに全面改修、ほぼ完成。銅葺き屋根の緑青の自然の色合いが楽しみです
ご高齢や脚のご不十分な方たちに配慮して脚の低い椅子をご用意
本堂の丸柱=直径約40㎝ 外陣(参詣席側)は檜ひのき 内陣は杉に金箔が貼られています。
富山県では伝統的に構造材は杉を使用し上に漆 、柿の渋、べんがら等をかけていました。
⑴本堂 【県指定文化財】(現在は修復中ですが、本堂にてお勤めを行っております。)
本堂は宝暦9(1759)年に上棟し再建され、約250年間1 度も火災で焼失することなく現存しております。再建当初は資金が不足し細部まで仕上ることが出来ず無念の未完成となりましたが、この地域を生きた先人達は約250年の刻をかけて少しずつ細部を仕上げ、仏法の場を守り伝えて下さいました。お勤めと法話は365日欠かすことなく行われ、現在でも昔と変わらず午前6 時と午後2 時には地元の方が足を運ばれ法話に耳を傾けております。毎日法話がある寺院は今となっては数少なくなりましたが、皆様にはいつでも仏法の御法縁にふれて頂けるよう勤めている次第で御座います。そして法話は本堂だけではなく富山県西部全域、石川県にまで足を運び勤められております。その御縁があり各地域の方々からの心ある御懇志によって城端別院善徳寺の護持運営がなされ本堂が守られております。本堂はどなたでも自由に参拝することができます。
⑵山門 【県指定文化財】
現在の山門は文化12(1815)年に再建され、午前5時から午後5時まで開門しております。楼上には釈迦三尊(左:阿難尊者、中心:釈迦如来、右:弥勒菩薩)が安置され、天井には狩野派絵師による天女と迦陵頻伽が描かれ現在も色あせる事無く当時のまま残されています。明治時代に町を焼いた大火の際は目前まで火の手が迫り危うく山門が焼失するところでありましたが、町民は我が家に炎が迫り来ているにもかかわらず防火道具であった火消うちわを手に取り山門に集まり大工は山門屋根に登りました。そして炎に臆することなく向き合い降りかかる火の粉をはらい城端別院を守ったそうです。町の人々は仏法の教えを聴聞し悩み、辛さ、苦しさを乗り越え心豊かに強く優しく生きて来られました。当時の人々にとって次の世代に残す財産とは金品等ではなく人間性を育てる心の場であったと云うことではないでしょうか。
山門楼上は涅槃会(2月14日)と虫干法会(7月22日~28日)には開放され、涅槃会では門信徒の皆様と楼上に上がり勤行と法話を勤めております。
⑶鐘楼堂 【県指定文化財】
天明元(1781)年に上棟され、旧鐘楼は小矢部市にある乗永寺へ移築され現在も使用されております。梵鐘はもともと時刻を知らせる為に使用されており、今でも午前6時の晨朝勤行30分前に打ち鳴らされ、町中にこの鐘の音が鳴り響きます。
この鐘楼造営では棟梁を決めるにあたりある難問が出されました。それは加賀藩大工頭である山上善五郎より出された図面が実物の何分の一になるかを正解せし者に棟梁を仰せつけると云うものでありました。その図面には実寸が割り出せる寸法が巧妙に隠されており、この難問を解くことが出来たのは弱冠18歳の地元大工である山村与四郎だけでありました。山村与四郎は約束通り棟梁を仰せつかり見事にこの大鐘楼を完成させましたがそれは血の滲むような苦労の結果でありました。山村与四郎は不可解な点があると日没後に金沢城下まで走り加賀藩大工頭山上善五郎の教えをうけ翌朝までには必ず仕事場に戻って来られたそうです。大工頭山上善五郎は深夜でも門を開け明かりを灯し快く山村与四郎を受け入れ、この情ある師の思いやりに一層奮起を覚え山村与四郎は金沢へ走ることを苦にしなかったと伝えられております。
⑷善德寺境内
善德寺は山門楼上に釈迦如来、本堂に阿弥陀如来が安置され、境内自体が二河白道を現しています。二河白道とは阿弥陀如来の救いを説く比喩であり、火の河と水の河を人の貪欲と怒りにたとえ、その二河にはさまれたひとすじの白い道を浄土に 至る信心にたとえたものであります。
参拝時には釈迦如来に導きと阿弥陀如来の招きをうけ白い石畳の道を渡り浄土を現す本堂へお入り下さい。
⑸式台門
嘉永2(1849)年に加賀藩主の御子息である亮麿が第16代目の住職として入寺した際に加賀藩の援助で建てられ門であり、通常は開かずの門となっております。開門は4月上旬に城端町で開催されるしだれ桜祭と、11月の報恩講において本山より御門首または御鍵役をお迎えする際の年2 回となっております。それ以外では仏前結婚式を挙げられる新郎新婦の入堂の際には式台門を特別開門しております。
⑹対面所
対面所は加賀藩主の御子息である亮麿が住職として入寺された際、上段の間の増設や天井等の改築が行われ以前より格式の高いものになりました。向って右手には城と同じく武者隠しの扉があり、手前の欄間は加賀藩が梅鉢紋という事で梅の彫刻が施されております。
⑺大納言の間
城端別院の中で最も古く500年以上前のものではないかと云う説もあります。過去には加賀藩2 代目藩主前田利長公が鷹狩の際この部屋に宿泊されたという古文書の記録が残っております。
別院各所には牡丹や菊等の釘隠しが見られますが、大納言の間にはウサギの形の釘隠しが使われております。ウサギ型は前田家が江戸中期から後期にかけてよく使用したものであることから加賀藩の援助で修復が行われた可能性があります。釘隠し一つでも建てられた年代や、改修工事があった年代、どのような権力者や大名との関係があったかという事がわかり、歴史に触れがなら建物の細部を見ていくのも面白いのではないでしょうか。
加賀藩主の御子息である亮麿が住職として入寺された際に日常使用する御殿として建築されました。
この御殿の天井は板ではなく紙を貼った吊り天井になっており、床下にはしじみの貝殻が敷き詰められております。これは賊の侵入対策ではないかと言われており、亮麿が藩主の御子息ということで、後々前田家に戻られる可能性を考えたのか、または約60年ぶりに迎え入れることが出来た待望の住職の身の安全には特に気を配ったのかは今となっては知る由もありませんが、当時の文化や習慣、人々の気持ちを思い描きながら歴史に触れるのもひとつの楽しみではないでしょうか。
⑼太鼓堂【県指定文化財】
太鼓堂は城端城主荒木大膳の居城の遺構であると伝えられ、元亀3(1572)年に善德寺の式台の前に建てられたとされています。嘉永2(1849)年頃の式台門建築の際、現在の台所門横に移築されました。
太平洋戦争が勃発するまでは、階上に太鼓を備え毎朝夕に叩いて時を知らせ、町民に親しまれてきた建物です。
善德寺大谷廟
加賀藩前田家より藩主の御子息である善德寺第16世住職亮麿の墓所として一周忌に現在の地所を寄進され、嘉永5 (1852)年に造立されました。その証として門には加賀藩の梅鉢紋があります。
現在に至るまで多くの方が大谷廟へ納骨(分骨を含む)をされましたが、これは同嘉永5 年に善德寺が町の墓調査を行い、無縁仏を大谷廟へ納骨したのが始まりとなっております。
交通アクセス
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
協力(順不同)
真宗大谷派城端別院 善德寺〒939-1863 富山県南砺市城端405 TEL 0763-62-0026
(一社)南砺市観光協会 〒939-1842南砺市野田1058-1 TEL 0763-62-1201
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