ZIPANG TOKIO 2020「 世界遺産・国宝  【法相宗大本山 薬師寺】は、奈良西ノ京町に建立された南都七大寺」

奈良大本山「薬師寺」薬師寺式伽藍 金堂(左)、西塔(真中)、東塔(右)

薬師寺の伽藍は独特のスタイルから「薬師寺式伽藍」と呼ばれております。

中門(左下)、中門の正面(北)に金堂。さらに北には大講堂がある。中門から右(東)に東塔、中門から左(西)には西塔が建つ。


薬師寺

お寺の紹介

薬師寺は「法相宗[ほっそうしゅう]」の大本山です。 天武天皇により発願(680)、持統天皇によって本尊開眼(697)、更に文武天皇の御代に至り、飛鳥の地において堂宇の完成を見ました。その後、平城遷都(710)に伴い現在地に移されたものです。(718) 現在は平成10年よりユネスコ世界遺産に登録されています。


薬師寺式伽藍

薬師寺の伽藍は独特のスタイルから「薬師寺式伽藍」と呼ばれております。

金堂

 金堂は享禄元年(1528)この地域の豪族の戦火に巻きこまれ、西塔などと共に焼け落ちてしまいました。その後、豊臣家が金堂の仮堂を建て、その後本格的な金堂の再建に取りかかる筈でしたが、豊臣家滅亡などの事情で400年近く仮堂のままの状態でした。

金堂の再建は歴代の薬師寺住職にとって悲願中の悲願でした。昭和42年(1967)高田好胤師が晋山し、百万巻写経勧進による金堂再建を提唱、全国に写経勧進に歩かれ、その結果昭和46年(1971)金堂の起工式を行い、そして昭和51年(1976)4月に白鳳時代様式の本格的な金堂として復興しました。 

 
金堂の仏様

薬師三尊像 【国宝】 白鳳時代 

 薬師如来のまたの名を医王如来ともいい、医薬兼備の仏様です。人間にとって死という一番恐ろしいものを招くのが病気です。体が動かなくなるのも病気なら、身の不幸、心の病も病気です。欲が深くて、不正直で、疑い深くて、腹が立ち、不平不満の愚痴ばかり、これ皆病気です。応病与薬[おうびょうよやく]の法薬で、苦を抜き楽を与えて下さる抜苦与楽[ばっくよらく]の仏様。だから人々に仰がれ、親しまれ、頼られていらっしゃるのです。

極楽は西にもあれば東にも     来た[きた](北)道さがせ       皆身[みなみ](南)にぞある

西に阿弥陀様の極楽世界、東にお薬師様の浄瑠璃世界[じょうるりせかい]があります。けれども薬師如来は東方浄瑠璃世界だけが願うべき世界ではなく、西方極楽世界[さいほうごくらくせかい]へ往生したいと願う人には、薬師の名号を聞くことによって極楽世界へ導いてあげますよとおっしゃっています。その人その人にふさわしい浄土を願わし引導して下さいます。

金堂内の白大理石須弥檀[しゅみだん]上に、中央に薬師瑠璃光如来、向かって右に日光菩薩[にっこうぼさつ]、向かって左に月光菩薩[がっこうぼさつ]がお祀りされています。薬師三尊のおわします内陣は長和4年(1015)に撰述された薬師寺縁起で「瑪瑙[めのう]を以て鬘石となし、瑠璃[るり]を以て地となし之を敷く、黄金を以て縄となし、道を堺し蘇芳[すおう]を以て高欄[こうらん]をつくり紫檀[したん]を以て内陣天井障子となす」とあり、まばゆいばかりの様相でした。まさに浄瑠璃浄土の世界です。

薬師如来台座 【国宝】 白鳳時代

薬師如来が座っておられる台座には、奈良時代における世界の文様が集約されています。一番上の框[かまち]にはギリシャの葡萄唐草文様[ぶどうからくさもんよう]、その下にはペルシャの蓮華文様[れんげもんよう]が見られます。各面の中央には、インドから伝わった力神(蕃人[ばんじん])の裸像が浮彫りされています。さらに、下框には、中国の四方四神(東に青龍[せいりゅう]、南に朱雀[しゅじゃく]、西に白虎[びゃっこ]、北に玄武[げんぶ])の彫刻がなされています。正にシルクロードが奈良まで続いていたのです。 

 
大講堂

 昭和51年に金堂、同56年に西塔が落慶し、以後中門・回廊の再建工事と平行して大講堂の復元設計に着手。基本設計は西岡常一棟梁で金堂以来一貫した裳階付の薬師寺独自の様式です。大講堂は正面41m、奥行20m、高さは約17mあり伽藍最大の建造物です。大講堂が金堂より大きいのは古代伽藍の通則で、これは南都仏教が教学を重んじ講堂に大勢の学僧が参集して経典を講讃したためです。特に薬師寺では平安時代に入ると南京三会[なんきょうさんえ]の一つ最勝会[さいしょうえ]の道場となって、勅使[ちょくし]を迎えた法会が毎年盛大に営まれました。最勝会では持統天皇が持統6年(692)に天武天皇の菩提を弔うために奉安した高さ3丈(8,9m)、広さ2丈1尺8寸(6,5m)の阿弥陀浄土を写した大繍仏像が正面に祀られました。金堂の本尊薬師如来像が持統天皇の病気平癒の願いを込め天武天皇が発願されたのはよく知られるところで、いわば薬師寺白鳳伽藍は、天武・持統二代の天皇の夫婦愛が、それぞれ金堂と大講堂にこめられているのです。大講堂は現在の建築基準法に合わせ現代の技法を取り入れながら伝統工法による復元建築で、最大級の建物です。薬師寺白鳳伽藍の雄大さを象徴しています。


大講堂の仏様

弥勒三尊像 【重要文化財】 白鳳~天平時代

薬師寺は法相宗[ほっそうしゅう]の大本山です。その法相宗の唯識教義[ゆいしききょうぎ]を説かれた弥勒仏[みろくぶつ]をお祀りするのが本来の在り方です。

天平時代には西院正堂[さいいんしょうどう]のご本尊は弥勒浄土[みろくじょうど]相の障子絵でした。またその北側には玉華寺[ぎょっかじ]の玄奘三蔵の御影像も安置されていました。玉華寺とは玉華宮殿を玄奘三蔵の経典翻訳所として改めたもので、地上の兜率天宮[とそつてんぐう]とも呼ばれました。大講堂に安置されている弥勒三尊は、近世の早い頃から西院弥勒堂の仏様でした。向かって右は法苑林菩薩[ほうおんりんぼさつ](左脇侍)で、左は大妙相菩薩[だいみょうそうぼさつ](右脇侍)です。ところが江戸時代になって講堂を再建するために、もとの講堂本尊の阿弥陀繍帳にちなんで阿弥陀三尊と名称を変えてお迎えし、さらに明治以降は、本薬師寺旧仏とのからみから薬師三尊と名称を変えてお祀りしてきました。しかし、平成15年(2003)に大講堂が復興されるに当たって、法相宗の薬師寺にふさわしく、もとの西院弥勒堂のご本尊の由緒を継いで頂くとともに、本来の正しい尊名にお戻り頂くことになりました。

今後は、大講堂ご本尊を「弥勒三尊」として親しんでお参り頂き、また大講堂を唯識教学の真の研鑚道場[けんさんどうじょう]として活用していきたいと願っております。

仏足石・仏足跡歌碑 【国宝】 天平時代

お釈迦さまがお亡くなりになって、約3~400年間はインドには仏像がありませんでした。これは仏さまを形に現わすのは勿体ないことであるとの考えからで、そのかわりに、仏さまの足跡を石に彫ったり、菩提樹[ぼだいじゅ]や法輪に祈りを捧げてきました。この仏足石は側面に記される銘文により、インドの鹿野苑[ろくやおん](お釈迦さまが初めて法を説かれた所)の仏足石をもとに、天平勝宝5年(753)に刻まれたことがわかる日本最古の仏足石です。

仏足跡歌碑は、仏足に対する礼讃[らいさん]と生と死の歌が刻まれています。歌の調べは「五七五七七七」で、一首が三十八文字の仏足跡歌体です。一字一音の万葉仮名を使って二十一首の歌が刻まれ、仏足石に対する天平人の感動が素朴に詠まれています。

釈迦十大弟子

 2500年程前インドでお釈迦さまやその多くのお弟子さまが、日々厳しい修行をされていました。中でも優れた十人が釈迦十大弟子です。苦行の末に羅漢となられたその心や人格、精神性等を具象の像とし、お姿は原初形態で制作し奉納されました。平成の世に十大弟子の存在や魂が甦ったのです。仏足石を中心にお釈迦さまと語らうが如くに安置されたこの像を拝む時、十人の様々な生き方が時空をこえて良き先達[せんだつ]として私たちに示そうとされる、そんな慈悲心が伝わるように思われます。平成14年(2002)に彫刻家中村晋也師よりご奉納。 

 

東塔【国宝】(解体修理中)

塔は本来お釈迦様のお墓を意味します。インドで梵語のストゥーパが音訳されて卒塔婆[そとうば]となり、それが塔婆、更には塔と表現されるようになりました。お釈迦様のご遺骨(仏舎利[ぶっしゃり])を埋葬して盛り土をしたものが原型です。その塔婆を遠くからでも拝めるように、また尊敬の気持ちから、より高い台の上にお祀りするようになったのです。

薬師寺東塔は一見六重に見えますが、実は三重の塔です。これは各層に裳階[もこし]と言われる小さい屋根があるためで、この大小の屋根の重なりが律動的な美しさをかもし出し「凍れる音楽」という愛称で親しまれています。

塔の上層部を相輪[そうりん]といいます。その更に上部に尊い塔が火災にあわぬようにとの願いをこめて、水煙が祀られています。水煙に透かし彫りされた24人の飛天は笛を奏で、花を蒔き、衣を翻し、祈りを捧げる姿で、晴れ渡った大空に御仏を讃えています。

薬師寺で唯一創建当時より現存している建物で、1300年の悠久の時を重ねてきた歴史をその姿から感じられます。

 平成21年より解体修理に着手しており、現在は覆屋に覆われておりその姿を拝むことは出来ません。修理の概要として、瓦、木部、基壇などを全て解体し、地下の発掘調査が行われます。その後、傷んだ部分の修繕を行いながら再び組み上げ、平成32年の6月頃に修理が完了する予定です。


東塔の仏様

釈迦苦行像・四天王像

東塔初重内にはお釈迦さまの生涯を八つの場面で表した釈迦八相[しゃかはっそう]のうち、前半の四相(因相)にあたる塑像群像を安置されていましたが、破損した為に室町時代に取り払われその後木造の仏壇を構えられました。

現在は、仏壇四方に江戸時代の四仏をお祀りし、四隅には平安時代の四天王像が安置されています。また、平成4年(1992)に大川逞一仏師による「釈迦苦行像」が奉安されました。

                  釈迦苦行像

            左より持国天、増長天、広目天、多聞天

 

 西塔

西塔は昭和56年(1981)に復興されました。東塔と比較すると、まずその鮮やかな色に目を奪われますが、またそれは奈良を表わす色使いでもあると言えます。塔の連子窓[れんじまど]に使われている色を「青[あお]」色、扉や柱に使われている色を「丹[に]」色と呼び、万葉集の一節に

あおによし ならのみやこは さくはなの におうがごとく いまさかりなり

と歌われている事からも当時の平城京の華やかさを表現する意味もあったのではないかと思われます。「青丹良し」とは奈良の枕ことばを意味するのです。色はもちろん連子窓の有無や屋根の反り、基檀の高さ等、東塔との違いが多く見られまが、(例えば、東塔の連子窓は、度重なる修復時に白壁に変えられています。)まさにその違いこそが1300年という歴史の流れを表しているのです。


西塔の仏様

成道・転法輪・涅槃・分舎利

昭和56年(1981)に再建された西塔には、東塔と同じく釈迦八相のうち後半の四相(果相)にあたる諸像が安置されています。もともとは、塑像の形でお祀りされていましたが、享禄の兵火で西塔と供に焼失してしまいました。
現在は彫刻家で文化勲章受章者の中村晋也氏によって、平成27年6月に新たに奉納された群像形式の釈迦八相像が祀られています。

成道

苦行を終えた後、菩提樹の下で草刈人から捧げられた草を敷き瞑想に入られたお釈迦様は、マーラ(悪魔)の遣わした三人の美女の誘惑や、猿、猪、象など動物の頭を持つ醜い化け物の姿に武器を携えた魔衆の脅迫に動じずに瞑想を続け、右手を地に触れて大地の女神を召還し、遂に成道を果たします。

転法輪

お悟りの後、鹿野苑にて苦行仲間であった五人の比丘に最初の説法をします。以降、マガダ国のビンビサーラ王に迎えられ、霊鷲山で瞑想されるお姿が表現されています。中央左には精舎を寄進する為金貨を敷き詰めるスダッタ長者が、左側には、死後三十三天に昇られた実母マヤ夫人への説法からお戻りになる際の金・銀・瑠璃でできた階段が見られます。

涅槃

クシナガラで病に倒れたお釈迦様は、沙羅双樹の間に身を横たえて涅槃に入られます。満月の中、マヤ夫人がお迎えに来られています。周りには最後の施しをしたチュンダや水を運ぶ者、疲れ果てて眠る者など沢山の弟子達がお釈迦様の涅槃を悲しんでおり、そして足元では身の回りのお世話をしていたアーナンダがひと際嘆いている姿が描かれています。

分舎利

お釈迦様の涅槃に駆けつけるマハーカッサバ。その後お釈迦様は荼毘に付されたと言われています。象に乗った各国の使者たちは仏舎利をもらおうと諍いを始めます。それを諌めたバラモンのドローナが仏舎利を八つに分け、代表となる八ヵ国に分配します。各国の使者たちは仏舎利の納められた容器を象に乗せて帰国し、各地に仏塔を建ててお釈迦様を拝したとされています。 


東院堂の仏様

聖観世音菩薩像 【国宝】 白鳳時代

心の目で見ることを「観[かん]」といいます。色なき色を見、音なき音を聴く、これが「観」です。この観の働きをもって私たちの悩みや苦しみや悶えをお救い下さるのが観音菩薩です。聖観世音菩薩は日本屈指のお美しいお姿の観音さまといわれ、薄い衣を召し、その衣の美しい襞の流れの下からおみ足が透けて見える彫刻法は、インドのグプタ王朝の影響を受けたものです。


四天王像 鎌倉時代

四天王は、古代インドの神を仏教に取り入れたもので、護法神として須弥山[しゅみせん]の四方に配されたことから、須弥檀の四方に安置されています。この神が中国に入って、古代中国の四方四神(青龍・朱雀・白虎・玄武)の信仰と融合して、顔の色に青・赤・白・黒の色彩をほどこすようになりました。聖観世音菩薩の四方には、持国天[じこくてん](東)、増長天[ぞうちょうてん](南)、広目天[こうもくてん](西)、多聞天[たもんてん](北)の四天王像が安置されています。多聞天台座銘より、正応2年(1289)に像造、ついで永仁4年(1296)に彩色が完成したことがわかります。檜の寄木造りで玉眼が嵌[は]め込まれ、大形で誇張的な衣の翻りや邪気の形態の表現、盛り上げ手法をまじえる彩色など、鎌倉時代の特色を示しています。 

                 四天王像 持国天


玄奘三蔵院伽藍

玄奘三蔵[げんじょうさんぞう](600または602~664)は、『西遊記』で有名な中国唐時代の歴史上の僧侶です。17年間にわたりインドでの勉学を終え、帰国後は持ち帰られた経典の翻訳に専念、その数1335巻に及びます。玄奘三蔵の最も究めたかった事は、「瑜伽唯識[ゆがゆいしき]」の教えでした。その教えの流れを継承している宗派が法相宗[ほっそうしゅう]です。現在、薬師寺と興福寺が法相宗の大本山で、玄奘三蔵は法相宗の鼻祖に当たります。昭和17年(1942)に南京に駐屯していた日本軍が土中から玄奘三蔵のご頂骨を発見しました。その一部が昭和19年(1944)に全日本仏教会にも分骨されましたが、戦時中でもあり、埼玉県岩槻市の慈恩寺に奉安され、その後ご頂骨を祀る石塔が建てられました。薬師寺も玄奘三蔵と深いご縁のある事から、遺徳を顕彰するため全日本仏教会より昭和56年(1981)にご分骨を拝受し、平成3年(1991)玄奘三蔵院伽藍を建立しました。平成12年(2000)12月31日に平山郁夫画伯が入魂された、玄奘三蔵求法の旅をたどる「大唐西域壁画」は、玄奘塔北側にある大唐西域壁画殿にお祀りしています。

公開期間

1月1日~1月15日 3月1日~6月30日 8月13日~8月15日 9月16日~11月30日


玄奘三蔵院の仏様

玄奘三蔵像

玄奘三蔵院の玄奘塔に祀られている玄奘三蔵像は、大川逞一仏師の手によって作成されたものです。右手には筆を、左手には貝葉(インドのお経)を手にしており、天竺からの帰国後、経典の翻訳作業中の玄奘三蔵の姿をモデルにしたものとしています。

              玄奘三蔵座像(大川逞一仏師作)

玄奘三蔵の生涯

玄奘三蔵(600または602~664)は中国・隋の時代に生まれ、唐の時代に盛名を馳せた仏法僧です。いまでは、三蔵法師といえば玄奘三蔵のことを指すようになっていますが、もともとは釈迦の教えの「経」、仏教者の守るべき戒律の「律」、経と律を研究した「論」の三つを究めた僧を三蔵といい、普通名詞なのです。したがって大勢の三蔵法師がいましたが、なかでも玄奘はきわめて優れていたので、三蔵法師といえば玄奘のこととなりました。 

 玄奘三蔵取経図

玄奘は陳家の四人兄弟の末子で、彼が10歳のときに父が亡くなり、翌年洛陽に出て出家していた次兄のもとに引き取られました。13歳のときに僧に選ばれ、法名を玄奘と呼ばれることになります。玄奘は25、6歳ころまで、仏法と高僧の教えを求めて、中国各地を巡歴しました。しかし修行が深まるにつれて教えに疑念を懐くようになりました。漢訳経典にその答えを求めますが、各地の高僧名僧も異なる自説をふりまわして、玄奘の疑問を解くにはいたりませんでした。このうえは、天竺(インド)におもむき、教義の原典に接し、かの地の高僧論師に直接の解義を得るしかほかに途はないと思い立ちました。

その中心となる目的は、瑜伽師地論と唯識論の奥義をきわめることです。当時、唐の国は鎖国政策をとっており、国の出入りを禁止していました。玄奘はなんども嘆願書を出して出国の許可を求めますが許されませんでした。

 玄奘は決心して、貞観3年(629)27歳のとき、国禁を犯して密出国します。玄奘の旅は、草木一本もなく水もない灼熱のなか、砂嵐が吹きつけるタクラマカン砂漠を歩き、また、雪と氷にとざされた厳寒の天山山脈を越え、時に盗賊にも襲われる苛酷な道のりでした。三年後に、ようやくインドにたどり着き、中インドのナーランダー寺院で戒賢論師に師事して唯識教学を学び、インド各地の仏跡を訪ね歩きました。

帰路も往路と同じような辛苦を重ねながら、仏像・仏舎利のほかサンスクリット(梵語)の仏経原典657部を携えて、貞観19年(645)に長安の都に帰ってきました。この年は、日本では、中大兄皇子(天智天皇)が中臣鎌足らと謀って、蘇我蝦夷・入鹿親子を滅ぼした「大化の改新」の年にあたります。

 玄奘のインド・西域求法の旅は、通過した国が128国、実に3万キロに及んでいました。すでに、唐を発って17年の歳月がすぎ、玄奘はこのとき44歳になっていました。密出国の出発時と違って、彼の帰還は時の唐の帝・太宗の大歓迎を受けます。太宗は、国境近くまで出迎えの使者を出すほどでした。

玄奘は帰国後、持ち帰った仏典の翻訳に残りの生涯を賭けます。皇帝からは政事に参画することを求められましたが、仏典漢訳に余生を集中することの理解をえて、翻訳事業に対して帝の全面的な支援を受けています。麟徳元年(664)に、玄奘三蔵は62歳で没しますが、訳業19年、死の間際まで漢訳への翻訳に打ちこみました。それでも、持ち帰った経典の約3分の1しか訳せなかったといいます。玄奘三蔵が翻訳した経典の数は、大般若経600巻をはじめ74部1335巻にのぼります。

今、日本で最も読誦される「般若心経」の基となったのは、この大般若経です。

大変画期的な翻訳とされ、玄奘より前の翻訳は「旧訳[くやく]」といわれ、玄奘以後の翻訳を「新訳」と称して区別され、この彼の仏典翻訳によって唐代の仏教興隆の基礎が築かれました。

玄奘は帰国後、このように訳経に専念したため、唯識学の教学の研究と伝道は、一番弟子の慈恩大師に任せました。慈恩大師は姓を窺[き]、名を基[き]といい、17歳のときに玄奘に見出されてその弟子となりますが、豪放磊落[ごうほうらいらく]な性格の人物であったといわれています。彼は玄奘から諸国の言語を学び、玄奘の訳経の手助けもしながら、唯識教学を研究して、その奥義をきわめました。

<寺沢龍 「薬師寺再興」草思社より転載したものを加筆、修正しています>


その他の仏様

吉祥天女画像 【国宝】 奈良時代

吉祥天女[きちじょうてんにょ]は福徳豊穣の守護神として崇敬され、この吉祥天女の前で年中の罪業[ざいごう]を懺悔[さんげ]し、除災招福を祈る、いわゆる吉祥悔過[きちじょうけか]の本尊として祀られています。

薬師寺では正月に行う法要 修正会[しゅしょうえ]が吉祥悔過法要にあたり、宝亀2年(771)以降行なわれています。毎年1月1日~3日まで国宝・吉祥天画像を、4日~15日まで平成の吉祥天を修正会のご本尊として金堂薬師三尊像の御宝前にお祀りします。

 この吉祥天像のお姿は光明皇后[こうみょうこうごう]を写したと伝えられ、麻布に描かれた独立画像としては、日本最古の彩色画です。

慈恩大師 【国宝】 平安時代

 慈恩大師[じおんだいし](631~682)は、名を大乗基または単に基と呼び、17歳で玄奘三蔵の弟子となり、瑜伽唯識の法を究め、『成唯識論[じょうゆいしきろん]』という書物を完成させて法相教学を集大成し、法相宗を開かれた宗祖です。後世「百本の疏主、百本の論師」と呼ばれ崇敬されました。慈恩大師の命日にあたる11月13日には慈恩大師のご遺徳を讃嘆し、伝統的な講問論議を行なう慈恩会[じおんね]が厳修[ごんしゅう]されています。


中門・回廊

中門は昭和59年(1984)に西塔に引き続き復興されました。その年、10月8日の落慶法要の時にはお扉だけを開きました。そして、その後昭和天皇さまが奈良で開催された「わかくさ国体」の開会式(10月10日)にお出ましになられ、その翌日に初通りを願える事が出来ました。また、平成3年(1991)には二天王像も復元されました。 回廊は、藤原京薬師寺では単廊であったとされていますが、平城京薬師寺では複廊と呼ばれる2重構造になっているのが特徴です。現在すでに第三期までが復興工事を完了しています。


二天王像

平成3年(1991)に復元復興された二天王像は、享禄元年(1582)の兵火により中門とともに焼失しました。その後約400年復興をみることがありませんでしたが、昭和59年(1984)お写経勧進により中門が復興され、それに伴う発掘調査により裸形の仁王像ではなく武装した二天王像ということが判明しました。二天王像の形式は、中国西安大雁塔の門垣にある線彫の仁王像や、法隆寺の橘夫人厨子の扉絵等を参考に致しました。


休ケ岡八幡宮

南大門を出た南に薬師寺を守護する休ケ岡八幡宮があります。寛平年間(889~898)に大分県宇佐から現在地に勧請[かんじょう]されました。現在の社殿は慶長8年(1603)の建物です。社殿は全体に西面し、本殿・脇殿とも小高い石積みの壇上に建っています。社殿の西、前庭の西側にある座小屋は修復が多いものの、社殿とほぼ同じ時期の建物で、中世に始まった宮座が受け継がれている貴重な歴史文化遺産とされています。

休ケ岡八幡宮の神様

三神像 【国宝】 平安時代

平安時代前期の寛平年間(889~898)に薬師寺別当栄紹[えいしょう]によって勧請祭祀[かんじょうさいし]された薬師寺鎮守八幡宮の三柱の神像で、ひとまわり大ぶりに造られた僧形八幡神[そうぎょうはちまんしん]を中心にし、向かって右に神功皇后[じんぐうこうごう]、向かって左に仲津姫命[なかつひめのみこと]を配した三神一具の像として安置されています。木彫神像として最古の作例に属し、小像とは思えないほどの堂々とした姿で、三体それぞれが形・彫り・彩色の面で相互に変化と対照を考えた入念な表現が行なわれています。


薬師寺 食堂(じきどう)

薬師寺は昭和43年以来、「お写経勧進による白鳳伽藍復興」を続けております。昭和51年の金堂復興を皮切りに、西塔・中門・大講堂・回廊の復興を行ってまいりました。 この度、薬師寺白鳳伽藍の主要堂塔のひとつである食堂(じきどう)の復興が成就します。

お写経

薬師寺では白鳳伽藍を復興させ、そのたたずまいを子孫へ残すためにお写経勧進を行っております。

お経を見る事には非常に大きな功徳があり、また、声に出して読むと更に大きな功徳があり、更には書き写す事で非常に大きな功徳があるといいます。お経を一文字一文字心をこめて書き写すのは仏像一体一体を刻む事と同じ事なのです。どんな人々にも本来清浄な心があり、自らの手でお経を書写することにより発菩提心を発見することがお写経の最大の功徳であります。

現在、皆様にお納め頂きましたお写経納経供養料によって、金堂、西塔、中門、回廊の一部や僧坊が既に復興し、玄奘三蔵院伽藍が建立されました。また平成15年(2003)には大講堂も落慶致しました。しかし、薬師寺ではまだまだ復興が続きます。お写経をとおして、書写された方に心の安らぎを頂戴していただき、更に皆様の御結縁を頂きますよう宜しくお願いを申し上げます。

お写経行事のご案内

お写経道場はいつお越しいただいてもお写経ができます。道場では椅子席もございます。 (午前8時半~午後5時)

薬師寺のお写経の特徴

宗派を問いません。
1人で何巻でもお写経をして頂けます。また、1巻を複数の方でお書き頂けます。
毛筆でなくても、鉛筆などでもお写経して頂けます。
お手本に写経用紙を重ね、気軽にお写経して頂けます。
お納め頂いたお写経は永代にわたって供養させて頂きます。

               薬師寺でのお写経の様子


青年衆

全国より集った高校生から大学院生までの方々に、様々なお手伝いをして頂いております。青年衆にとっては伝統的な悔過の法要に参加し、奉仕活動を通して人生の生き方を学び、自己を見つめる機会となっています。

青年衆とは?

薬師寺青年衆は、日本の未来を担う青少年の育成の為に昭和40年頃から実施しています。奈良時代から続く寺院の伝統行事に実際に参加していただき、日本の伝統や歴史を学びます。また、全国から集まる同世代の仲間との集団生活の中で「他者を思いやる心」を育んでいただくことを目的としています。  今日も地域や性別を問わず高校生・大学生を中心として多くの方にご参加いただき、若い力で薬師寺の伝統行事を支えていただいております。 お寺という非日常の生活のなかで自分磨きをしてみませんか。

青年衆についてのお問合せ

〒630-8563 奈良県奈良市西ノ京町457 薬師寺 『青年衆』係 
 担当 根来 穆道[ねごろ ぼくどう]
 メール:bokudo.n@nara-yakushiji.com 電話 0742-33-6001  FAX 0742-33-6004


玄奘三蔵会大祭

2月5日は法相宗の鼻祖にあたる玄奘三蔵のご命日です。薬師寺では毎年5月5日に玄奘三蔵を顕彰する『玄奘三蔵会大祭』の法要を厳修しております。


玄奘三蔵会大祭(げんじょうさんぞうえたいさい)とは

薬師寺は法相宗の大本山であります。その法相宗の鼻祖とされる方が西遊記でよく知られる玄奘三蔵法師です。その玄奘三蔵のご頂骨の請来をご縁として、玄奘三蔵のご遺徳を顕彰する為平成3年(1991)に建立されたのが、薬師寺玄奘三蔵院伽藍です。

薬師寺縁起によると薬師寺にはかつて西院伽藍があり、その中には弥勒浄土の画像を中心におき、北面には翻訳のために住まわれた長安の玉華殿における玄奘三蔵の肖像画がお祀りされていました。おそらく玄奘会も修せられていたと思われます。 そこで、玄奘三蔵院伽藍建立を機に、翌、平成4年より法要を復興する事が決定しました。しかし、現存する資料に乏しいため法要形式の完全な復興は難しく、平素からの年中行事を基本としながら玄奘三蔵にふさわしい行事を加味し、顕彰する事となったのです。その行事の一つが毎年恒例となりました伎楽[ぎがく]です。近年は、伎楽隊に天理大学雅楽部、作曲 芝祐靖(国立音楽大学客員教授)、衣裳・小道具 吉岡幸雄(染司よしおか主宰)、構成 堀田謹吾(伎楽研究家)、演出 佐藤浩司(天理大学教授・雅楽部顧問)、声明は薬師寺僧侶が務めさせて頂いております。そして玄奘三蔵法師役のみ毎年配役が変わります。

万燈供養会

毎年玄奘三蔵会大祭の日の日没後は玄奘三蔵院伽藍一面に設置された灯篭に火が灯され万燈供養が行なわれています。 お釈迦さまは涅槃に入られる前に、嘆き悲しむ弟子達に向かって「自らを燈明とし、法を燈明とせよ」と最後の法を説かれました。燈明は法を求める人によって点ぜられます。玄奘三蔵は法燈を求め、また自らの燈明をも灯し続けられました。そして、その法燈は中国から日本にまで伝えられました。 5月5日の夕刻6時頃に皆様の心の燈明を一斉に献じて頂き、玄奘三蔵の法燈を広めたいと存じます。※万燈供養会は拝観無料です。(置燈籠・献燈は有料)

                  万燈供養会

伎楽のご案内

三蔵法師が求法の目的を果たし、インドから唐の都長安へ帰られ、 太宗皇帝が法師を出迎えている場面。

法相宗とは(教義について)

法相宗、または唯識宗、応理円実宗[おうりえんじつしゅう]、慈恩宗[じおんしゅう]とも呼ばれて、南都六宗[なんとりくしゅう]の一つです。

この宗の宗旨としては、唐でできたものですが、そのもとは印度の弥勒菩薩[みろくぼさつ]、無着菩薩[むちゃくぼさつ]、世親菩薩[せしんぼさつ]によって大成され、護法菩薩[ごほうぼさつ]等によって発展した唯識教学です。紀元七世紀の初め、玄奘三蔵が印度で17年の間仏教教義の修得に勤められました。その間特に唯識教義の研鑚に勤められました。しかし帰朝後は翻訳に全勢力をそそがれ、教義の発揮は門下第一の逸足といわれた慈恩大師[じおんだいし]に託されました。大師は師より伝授の法統を巧みに整理し法相宗を開創されました。

                   瑜伽師地論


その後、淄州大師[ししゅうだいし]、撲揚大師[ぼくようだいし]の法相ニ祖・三祖より日本の留学僧、道昭[どうしょう]、智通[ちつう]、智達[ちたつ]、智鳳[ちほう]、智鸞[ちらん]、玄昉[げんぼう]によって日本に伝えられ、行基[ぎょうき]、徳一[とくいつ]、真興[しんごう]、貞慶[じょうけい]、良偏[りょうへん]、光胤[こういん]等から現在に伝わっています。

この宗の特徴は阿頼耶識[あらやしき]、末那識[まなしき]という深層意識を心の奥にあるということを認めているところにあります。その阿頼耶識を根本識[こんぽんじき]とし、一切法は阿頼耶識に蔵する種子[しゅうじ]より転変せらる(唯識所変[ゆいしきしょへん])としています。つまり私達の認めている世界は総て自分が作り出したものであるということで、十人の人間がいれば十の世界がある(人人唯識[にんにんゆいしき])ということです。みんな共通の世界に住んでいると思っていますし、同じものを見ていると思っています。しかしそれは別々のものである。例えば、『手を打てば はいと答える 鳥逃げる 鯉は集まる 猿沢の池』という歌があります。旅行客が猿沢の池(奈良にある池)の旅館で手を打ったなら、旅館の人はお客が呼んでいると思い、鳥は鉄砲で撃たれたと思い、池の鯉は餌がもらえると思って集まってくる、ひとつの音でもこのように受け取り方が違ってくる。一人一人別々の世界があるということです。

 それを主張するのですから複雑難解です。しかしそれをいとも巧みに論理の筋道を立てて、最も学的秩序を保った説明がなされているところに、この宗の教理の特徴があります。



鎹八咫烏 記
伊勢(斎宮)明和町観光大使


協力(順不同・敬称略)

奈良大本山 薬師寺 〒630-8563 奈良県奈良市西ノ京町457 電話 0742-33-6001

文化庁 〒100-8959 東京都千代田区霞が関3丁目2番2号 電話番号(代表)03(5253)4111

日原もとこ 東北芸術工科大学名誉教授 アジア文化造形学会会長 まんだら塾塾長 

ZIPANG TOKIO 2020

2020年、東京でオリンピック・パラリンピックが開催されます。 この機会に、世界の人々にあまり知られていない日本の精神文化と国土の美しさについて再発見へのお手伝いができればと思います。 風土、四季折々の自然、衣食住文化の美、伝統芸能、行事、風習、ものづくりの技の美等、 サイトを通じて、平和な国、不思議な国、ZIPANG 日本への関心がより深かまるならば、私が密かに望むところです

もしもこのサイトに同じ思いをお持ちの皆様から、素敵な情報や画像をお寄せ戴ければこの上ない喜びです。以下のEメールアドレスへご連絡下さい。

E-mail aromajinja@gmail.com ( ZIPANG 2020 編集部 )。

2020, will be held the Olympic Games and Paralympic in Tokyo.

On this occasion, for the little-known beauty of the spiritual culture and national land of Japan to the people of the world I think that if we help to re-discover.

Climate, nature of the four seasons, of food, clothing and shelter cultural beauty, traditional arts, events, customs, beauty, etc. of the work of making things,

Through the site, peaceful country, a strange country, if the interest is more depth or round to ZIPANG Japan, is where I want secretly.


写真ご協力:高山祭(高山市)/ 富士山(富士市)

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