先日、滋賀県大津市の近江神宮を紹介したところ、早速、女性の方たち(歴女、聖地巡礼の方たちと思われる)から「もっと詳しく流鏑馬について教えて欲しい」「流鏑馬に流派があるなんて知らなかったので、武田流について知りたい」「流鏑馬はいつ、どこで観れるのですか?」「どこの神社でも流鏑馬をやっているのか?」等々のご質問やご要望のメールが多々届きましたので、近江神宮が6月に開催を予定されておられる「流鏑馬神事」を主に紹介いたします。初めてサイトをご覧になられる方のためにまず「近江神宮」について紹介します。
近江神宮は、滋賀県西部の大津市中心部にほど近い、琵琶湖西岸の山裾にあります。
近江神宮
第38代天智天皇をまつる近江神宮は、天智天皇の古都、近江大津宮(大津京)跡に鎮座する神社です。
御祭神・御神徳
御祭神 天智天皇(てんじてんのう)
またの御名 天命開別大神(あめみことひらかすわけのおおかみ)
御神徳 時の祖神 開運・導きの大神
文化・学芸・産業の守護神
天智天皇座像
御由緒
近江神宮は第38代天智天皇をお祀りし、琵琶湖西岸の天智天皇の古都・近江大津宮跡に鎮座しています。全国16社の勅祭社の一社であり、4月20日の例祭(近江大津宮遷都記念日)には、天皇陛下の御名代として毎年宮中より御勅使を御差遣いただいています。
ご鎮座は昭和15年11月7日であり、神社としての歴史は新しいのですが、滋賀県・近江国の発展は大津宮に都をおかれたことに始まるとして、古くから湖国では天智天皇に対する崇敬が厚く、天智天皇に関係する伝説や神社など、県内各地に残されています。大津市が古都保存法によりこととして指定されているのも大津宮遷都にもとづくものであり、1350年の歴史に立脚する神社といえます。明治30年ころより滋賀県民の間から天智天皇を祀る神宮の創建運動が高まり、昭和に入って昭和天皇の御勅許を賜わり、滋賀県民を始め全国崇敬者の真心の奉賛により創建されました。
境内地は約6万坪。社殿は近江造りあるいは昭和造りと呼ばれ、山麓の斜面に本殿・内外拝殿を回廊が取り囲み、近代神社建築の代表的なものとして、平成10年より国の登録文化財として登録されています。(さらに詳しく知りたい方は5月16日、17日の紹介ページをご覧下さい)
近江神宮流鏑馬神事
1350年の昔、天智天皇の時代「天皇、蒲生野に狩りしたまふ。…近江国、武を講ふ。また多に牧を置きて馬を放つ」と『日本書紀』に記された故事に想いを馳せて、近江朝・大津宮の御事績を顕彰し、御鎮座記念祭の奉納行事として平成2年より毎年開催されてきました。
27年より、時の記念日の祝賀奉納行事としてその直前である6月第1日曜日に行われることになりました。29年は6月4日(日)の開催となります。
6月4日(日) 12:30 鏑矢奉献の儀 近江神宮拝殿 13:00 騎射 近江神宮参道 小雨決行 観覧無料 (晴雨微妙な場合は当日午前10時に 決定、お知らせ欄で告知します)
6月4日 10:15 流鏑馬教養講座
会場 近江神宮境内 近江勧学館
流鏑馬有料観覧席 500円(全350席)
申込先 077-522-3725
近江神宮やぶさめ事務局
流鏑馬・行事次第
12:30 出陣
12:40 鏑矢奉献の儀
天長地久の式
行進
騎射
凱陣の式
武田流鎌倉派流鏑馬神事の概説
流鏑馬の起源は、第29代欽明天皇の御世、国の内外が戦乱のため、心を痛められた天皇は、これを平定するに先立ち、豊前の国、宇佐の地(宇佐八幡宮の鎮座地)に神功皇后・応神天皇を祀られ、神前で、天下平定・五穀成就を祈られて、馬上で三つの矢を射られたのが起源であるという。後、第59代宇多天皇の勅命により源能有公が弓馬の礼を制定され、以来、源家を経て、武田・小笠原に分かれ相伝された。
室町時代には、武田氏は甲州、芸州、若州の国主になり、弓馬の礼は芸州の武田氏が司っていた。
徳川時代には、両家(小笠原は備前家)とも肥後細川家に寄頼し、武田氏は細川家の縁類により保護され、その家臣竹原惟成(これしげ)に伝授され、以後竹原家によって今日に至った。
鎌倉の武田流は昭和9年10月、細川公の允許により熊本において第14代竹原惟路の高弟で代見格旧細川藩士・井上平太の系統を、その直弟子・熊本出身の金子有鄰が継承し、主に東京・鎌倉の地においてこの道統の興隆に一大足跡を残したが、現在は、その直弟子等を中心として正統が継承されている。
流鏑馬神事式次第
奉行は武田菱の定紋のある綾檜笠(あやひがさ)、紫地に金糸の揚羽向蝶(あげむかいちょう)を散らした鎧直垂(よろいしたたれ)に太刀を帯び、二十四本の征矢(そや)を差した箙(えびら)を負い、重籐(しげとう)の弓を持ち、行縢(むかばき)を付け射沓(いぐつ)をはくのである。
射手(いて)は赤地、又は、青地に各々家紋を金糸で表した鎧直
垂(中袖)に射小手(いこて)を指し、綾檜笠(鬼笠)を戴き、右腰には矢三本(他の一本は弓にそえて持つ)、前差及び尻鞘をかけた太刀を帯び行縢に射沓をはく。的目付(まとめつけ)、幣方(へいかた)、矢取(やとり)、旗手(はたて)、扇方(おおぎかた)、陣太鼓の諸役は直垂(大袖)に後三年形の烏帽子(えぼし)を頭にし太刀を帯び鼻高沓をはき、出陣に備える。
的目付、幣方、矢取、旗手、扇方、陣太鼓の諸役は、直垂に後三年形の烏帽子を頭にし太刀を帯び、鼻高沓(はなたかぐつ)をはき、出陣に備える。
一、出 陣 奉行の打つ「寄せの太鼓」を合図に、射手、諸役、一同広場に集合する。
二、鏑矢奉献の儀(かぶらやほうけんのぎ)
奉行、射手、諸役は行列により拝殿へ進み向拝に一列横隊に跪座(きざ)する。奉行は、天長地久に用いる鏑矢を奉献し、天下泰平五穀豊穣の願文を奏上、鏑矢を拝受し、一同退出する。
三、天長地久の式(てんちょうちきゅうのしき)
広場に戻り、射手、諸役は天長地久の式の形に並ぶと、奉行は「五行の乗法(ごぎょうのじょうほう)」を行う。即ち乗馬し左廻り三回右廻り二回、中央の位置で馬を止め正面に目礼して、鏑矢を弓につがえて天と地に対し満月に引き国家の天壌無窮、五穀豊穣を祈念する。これより馬場本に向かって行進を開始するのである。
行進中は「序の太鼓」を打ちながら馬場本に至り、諸役は馬場左側を通り各部署に就く。
射手は乗馬のまま馬場本に残り、奉行は下馬し櫓に組んだ記録所にのぼり、諸役が部署についたのを確かめ『破(は)の太鼓」を打つ馬場本・末の扇方は、扇で合図し準備が完了したことを知らせる。これより射手は順番に「素馳(すばせ)」を開始する。
四、騎 射
(一)式の的
的は一尺八寸四方で、檜板を網代(あじろ)にあみ、その上に白紙を張り黒・白・赤・黄・青の五色で星的を表し、的の後には亀足(きそく)の花を添える。式の的の射射に移り,射手は一番手、二番手の二組に分かれて、それぞれ三回奉射する。即ち重藤の弓に矢をつがえ一の的を射る。更に腰に差した矢を抜き二の的を射ぬき、更に三の的へと全速力でかけ抜け、各々三回九本の矢を射る。
(二)競射
的は、土器二枚を合わせ中に五色の切紙を入れた三寸の小的で、命中すると土器は砕け、中の五色は吹雪の如く飛び散る。尚、競射の出場資格は式の的を七本以上命中した者である。
競射が終ると奉行は記録所において「止めの太鼓」を打ち鳴らし、諸役は各々手持具を持ち、奉行、射手は乗馬のまま広場に帰り凱旋の式を行う。
五、凱陣の式(がいじんのしき)
競射の最多的中者は、式の的を持ち、奉行前に進みて跪座する。奉行は扇を開き骨間より的を検分する。扇を戻し、太刀の鯉口を切った時、太鼓は「・・・」三打する。奉行の「エイ・エイ・エイ」の声に続いて射手諸役一同「オー」と唱和する。これを三回繰返し勝鬨を揚げる。(これは首実検の意を表現している。)
鎌倉の武田流は昭和9年10月、細川公の允許により熊本において第14代竹原惟路の高弟で代見格旧細川藩士・井上平太の系統を、その直弟子・熊本出身の金子有鄰が継承し、主に東京・鎌倉の地においてこの道統の興隆に一大足跡を残したが、現在は、その直弟子等を中心として正統が継承されている。
「江州音頭フェスタinしが」開催のお知らせ
流鏑馬の行われる6月4日(日)、流鏑馬の行事の前と後に、近江神宮楼門内(神楽殿前)で、滋賀県江州音頭普及会の主催により、「江州音頭フェスタinしが2017」が開催されます。夕刻フィナーレには三井寺の皆様による声明も行われます。
江州音頭の発祥(江州音頭とは)
滋賀県犬上郡豊郷町の、中山道沿いに永源寺派の寺千樹寺がある。もともと奈良時代に行基によって創建され江州四十九院の一つであった。古くは比叡山延暦寺に属し日吉山王社を祀ったところから、日吉山千樹寺と称し、当地を「日枝の荘・千枝の里」と呼ばれていた。この寺は中世以来、たびたび焼失したが、そのたびに近在の人の努力で再建が進められた。その落慶供養の余興の中で「江州音頭」の原形ができ上がったのである。永録元亀の頃、織田信長と観音寺城主、佐々木義賢父子・天台宗派との内紛にまきこまれ、千樹寺も、戦火にあった。
天正十四年(1586)、当地の藤野太郎右ェ門が浄財を投じて再建した。その落慶供養の余興として、当時の住職根誉上人が境内に人形を多数並べ参拝の老若男女を集めて手踊りをし、自ら「ギャティ ギャティ ハラギャティ ハラソウギャティ ボウチソワカ」等の経文の二、三句を節おもしろく繰返し、音頭の調子をとり円陣をつくって手ぶり、足ぶみ踊ると見物人が我も我もと参加し、ついに夜のふけるのも忘れて踊りあかしたという。
それ以来、毎年7月17日(旧暦)にこの行事は続けられた。後、天明年間にも村の大火にあい、またもや焼失してしまった。時に北前船で活躍した近江商人、又十・藤野四郎兵衛が亡き父の意思を継ぎ再建。弘化三年(1846)7月17日、古例により遷仏供養を行った。その際、八日市に「歌寅」こと西沢寅吉という祭文作りの名人がいることを聞き、私邸に招き経文祭文をとりいれた一般民衆向きの音頭を作らせ、それに節をつけて歌わせ、さらに絵日傘や扇を与えるなど工夫を凝らして躍らせた。当日集まった人々は”踊らにゃ損”と音頭にのって踊りとおしたという。
江州音頭は、現在でも人々の心の中に受け継がれ、滋賀県をはじめ周辺都市では八月の盆踊りとして定着している。発祥の地豊郷でも地区ごとに、また、千樹寺境内に設けられた広場では、観音盆として、まちをあげての盆踊り大会が開かれるなど、町民の生活に根づいた文化としていきづいている。また、江州音頭は、豊郷町民の後世に伝えるべき無形文化財として、「絵日傘踊り」、「扇踊り」の形で保存・継承されている。
近江神宮からのお知らせ
近江神宮オリジナル御朱印帳の授与始めました
このたび、従来からの御朱印帳に加え、オリジナルデザインの御朱印帳を作成し、授与を開始しました。錦織物により桜さざ波の社紋をあしらい、裏表紙には印面と同じ図案が金襴で縫い込んであります。
ビニールカバーが付き、御朱印料込みで1800円です。(従来品は御朱印料込み1300円)
キモノ体験レンタル
競技かるた名人戦・クイーン戦、また漫画・映画「ちはやふる」にちなんだ近江神宮衣裳部の企画として、和装の正装、着物・袴の体験レンタルを行っています。 初めての方でも誰でも一人で簡単に着付けられるようにしてありますが、着付けに不安な方は衣裳部スタッフがお手伝いします。 1時間以内にお返しいただき、レンタル料500円。境内散策・写真撮影などご自由にお楽しみいただきます。近江神宮境内でのご利用に限らせていただきます。 袴を着て大津市内観光をご希望の方は1時間以上3時間までレンタル料1000円でご利用できます。 受付は近江神宮衣裳部で行っています。楼門前の道を北(本殿に向って右)の方へ歩いていただくと、左手に「衣裳部」の大きな文字が見えてきます。 受付時間 10:00~16:00(土日祝日は9:30~16:00) 祝日以外の月曜日はお休みです。 10名以上の団体のご利用については予約制とさせていただきます。
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
石川県 いしかわ観光特使
協力(順不同・敬称略)
近江神宮 〒520-0015 滋賀県大津市神宮町1番1号 TEL:077-522-3725
豊郷町役場 〒529-1169 滋賀県犬上郡豊郷町石畑375番地 電話:0749-35-8111
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