祈る皇女斎王
【大淀】倭姫命が天照大神の鎮座場所を探し求めこの地にたどり着いたとされる。
古代の多くの歌に「枕詞」としても使われた景勝地。
【カケチカラ発祥の地】斎王・倭姫命と真名鶴伝説が由来。神嘗祭に初穂の稲束を伊勢神宮の内玉垣に懸け、国の永遠 の繁栄を祈る懸税(カケチカラ) 行事の発祥の地。
【竹川の花園】『源氏物語』の竹河の段の歌 に登場し、伝承では、ここに 四季の花が植えられていたとされ、斎王も花園に来て花を 楽しまれていた景勝地。
平安時代の斎王
斎宮正殿
さいくう平安の杜
明和町の歴史
明和町は、古い時代から伊勢神宮にゆかりのあった土地で、町内からは数多くの遺跡や古墳が発見されている。7世紀末には伊勢神宮に仕える斎王が住む斎宮ができ、その規模や出土品から、中世に至るまでの長い間、三重県南部の産業・文化の中心地であったことがうかがえる。
江戸時代には、農業を中心に伊勢参宮街道の宿場町として発展し、今日も一部にその面影を残している。
明治22年の市町村制の施行により、大淀村(大正13年に大淀町)、上御糸村、下御糸村、斎宮村、明星村ができました。昭和30年には大淀町、上御糸村、下御糸村が合併して三和町に、斎宮村と明星村が合併して斎明村となりました。続く昭和33年には三和町と斎明村が合併して明和町が誕生し、現在に至っている。
このような歴史的背景があり、明和町には歴史・文化を大切にする雰囲気が感じられる。また、合併による影響から、町には中心市街地がなく、集落が分散して存在し、それぞれの地域コミュニティーが形成されている。
明和町の空撮。田園が広がり集落が分散しているのがよくわかる。
明和町の地理
明和町は、伊勢平野の南部に位置し、東は大堀川を境として伊勢市に、西は松阪市、南は小俣町、玉城町、多気町に接し、北は伊勢湾に面し延長7.5km海岸線を有している。
地形は、南部の玉城町、多気町との境界近くは標高40〜50mの丘陵地帯、中央部から北部にかけては平坦な平野であり、西から櫛田川の右派川である祓川、中央部を笹笛川、伊勢市との境を大堀川が南北に貫流し、伊勢湾に流れている。この河川に沿う地域は、代表的な水田地域であり、良質米の生産地域である。
気候は温暖な東海型の気候に属し、冬でもほとんど降雪がありません。
町北部は海岸線を有することから、河川の汚れは漁業や観光業(キャンプ場、海水浴場)に直接影響を与えるため常に、町は地域の環境に大変気を使っている。
なお、明和町は比較的過ごしやすい気候であるため、冷暖房等によるエネルギー消費を工夫次第で低く抑えることが可能な地域であると考えられる。
明和町には商業核が形成されておらず、伊勢市や松阪市への利便性の良さから、地元購買力の町外流出の傾向が見える。商店数や従業者数、年間商品販売額は減少の傾向が見られたが、伊勢市、松阪市と隣接し両市のベッドタウン的要素があり、また温暖で過ごしやすい気候であるため人口の増加にともない再び増加している。観光においては、観光振興のまちづくりを進めるため、平成12年に「明和町観光振興基本構想」を策定し、北部海岸、国史跡「斎宮跡」、南部丘陵地の拠点づくり、時代に応じた高度な情報発信システムの確立などを進めている。
それでは本題の斎王についてご紹介いたしましょう。
斎王とは?
斎王(さいおう)…それは、天皇に代わって伊勢神宮の天照大神に仕えるために選ばれた、未婚の皇族女性のことである。歴史に見られる斎王制度は、天武二年(674)、壬申(じんしん)の乱に勝利した天武天皇が、勝利を祈願した天照大神に感謝し、大来皇女(おおくのひめみこ)を神に仕える御杖代(みつえしろ)として伊勢に遣わしたことに始まる。
以来、斎王制度は660年以上にわたって続き、60人以上の斎王が存在した。伝説は、伊勢に天照大神を祀った倭姫命(やまとひめのみこと)など、さらに多くの斎王の物語を伝えている。
制度が確立して以降の斎王は、卜定(ぼくじょう)という占いで選ばれ、斎王群行と呼ばれる五泊六日の旅を経て伊勢へと赴いた。その任が解かれるのは、主に天皇が代わったときのみ。年に三度、伊勢神宮に赴く以外は、一年のほとんどを斎宮で過ごし、神々を祀る日々を送っていた。また、神に仕える身ゆえに恋をすることも許されず、伝説に語られる斎王の中には己の命を絶って身の潔白を証明した哀しい斎王や、恋ゆえに斎王を解任されたり、恋人と引き裂かれたりした斎王もいたのである…。
斎王の群行と退下
天皇は未婚の内親王、あるいは女王の中から占いで斎王を決めます。斎王に任命されると宮中の初斎院と都の郊外にある野宮で精進潔斎したのち、3年目の秋、伊勢の斎宮へ5泊6日をかけて群行しました。
斎王の解任(退下)は天皇の譲位、死去、近親者の喪などによるとされ、帰路は、天皇の譲位の時は群行路をたどり、その他凶事の時は図のように同じ路をたどることはできないとされている。
斎王ゆかりの地
今も残る、斎王ゆかりの史跡や神社
その場所に立てば、遙か時の彼方の物語がかいま見えるかもしれません
【斎王の森】 斎王の宮殿があったと語り継がれ、地元の人たちに大切に守られてきた。シンボル的な存在である。
竹神社
明治44年(1911年)旧斎宮村にあった25社の神を合祀し、野々宮が祀られていた現在地(牛葉)が境内となりました。周辺からは平安時代の大規模な塀列や掘立柱建物の跡が発掘され、斎宮の中枢である内院があった場所ではないかといわれている。
惇子内親王の墓
後白河天皇の第五皇女惇子内親王は嘉応二年(1170年)9月、高倉天皇のとき第六十四代斎王として伊勢にこられ、承安二年(1172年)病気のため16才で亡くなり、堀川斎王と呼ばれました。このお方のことを堀川斎宮とも申し上げます。
お墓は有爾中の共同墓地につづいた小高いところに残っている。
惇子内親王の墓
旧竹神社
明治48年(1908年)まで、斎宮歴史博物館南の森の中に位置していた旧竹神社の跡地です、当時を偲ぶ、荘厳な石碑が建てられている。
旧竹神社の跡地。背景に竹林が広がっている。
粟須美神社跡
弘仁年間(820年ごろ)嵯峨天皇が斎王に大巳貴命(オオアナムチノミコト)を祀り鎮守の神社とするよう命ぜられたので鎮守台ともいいました。天正十一年(1583年)1月10日兵乱の後、里人がこれを産土神として敬いました。
現在、氏神のあった所に石碑を建て伊勢神宮の遥拝所としている。
伊勢神宮の遥拝所「粟須美神社跡」
明和町伝統行事「馬の上の獅子舞」衣装を着け、屋台、獅子頭、天狗面、太鼓、笛等の道具を整え早朝陽が昇前に、まず先に氏神跡(旧粟須美神社)で舞い、その後カドマワシと言って全戸を廻わる。獅子に頭をなででもらった子供は、元気で頭の良い子に育つとの言い伝えあり。御祝儀のはずんだ家にはさらに大きな獅子舞のサービスあり。
佐々夫江行宮跡
天照大神の御霊をお祀りする場所をさがして各地をおまわりになった倭姫命は、伊勢の地に入られてから飯野の高宮に落ちつかれました。4年ののち櫛田川を下って海に出られ、大淀に御船をおとどめになって佐々夫江にお宮をつくり、しばらくこの地におとどまりになりました。「倭姫命世記」という本に書いてある真名鶴が飛んできて八握穂の稲をささげたという言いつたえはこの頃のことで、今から約1700年の昔、第十一代垂仁天皇の御代のことです。
現在山大淀の西、笹笛橋の近くの田の中に1メートルほどの高さの碑が立っていて「竹佐々夫江旧跡」ときざんであります。
尾野湊御禊場跡
業平松の東200メートルのところに「斎王尾野湊御楔場阯」と書いた大きな花崗岩の碑が建てられていますが、尾野湊というのは大淀海岸の古名である。
斎王は毎年6月と9月と12月には伊勢神宮へ直接お出かけになってお祭を行われることになっていましたが、そのうち9月の神嘗祭(かんなめさい)のときは8月の終わりに大淀の浜でみそぎ(川や海で身を洗い清める)を行いました。
「斎王尾野湊御楔場阯」尾野湊というのは大淀海岸の古名である。
隆子女王の墓
醍醐天皇の孫女、隆子女王(たかこじょおう)の墓。隆子女王は第四十三代斎王として伊勢に遣わされたが、天延二年(974年)にわずか3年の在位で病死、この地に葬られた。算所にある墓は宮内庁が管理、清楚なたたずまいをみせています。
隆子女王の墓
業平松
その昔斎王が、伊勢へ狩りの使いに来た在原業平(ありわらのなりひら)との決別を惜しみ、歌を詠み交わしたという故事により、大淀にあるこの松を業平松というようになりました。現在の松は三代目で、周囲は業平公園となっています。
斎王ゆかりの地(町外編その1)
今も残る、斎王ゆかりの史跡や神社
その場所に立てば、遙か時の彼方の物語がかいま見えるかもしれません
このコーナーでは、『日本書紀』等のほかに、中世の伊勢伝承である『倭姫命世記』等も参考にしています。そのため、歴史的事実である根拠に乏しい内容も含まれているかもしれません。 文中の年数等は、『倭姫命世記』などの中世の伝承によるものである。
倭姫命(やまとひめのみこと)が訪れた市守宮の比定地
倭姫命は、天照大神(あまてらすおおみかみ)を奉じて、大神が鎮まる地を求めて各地をめぐった。この時、大神を一時的に祀った所は、元伊勢と呼ばれて、今でも神社として残っているところがある。
三重県名張市の蛭子神社(えびすじんじゃ)もそのひとつである。名張の市街地の一角、名張川沿いに鎮座するこの神社は、垂仁天皇64年に倭姫命が訪れ、2年間天照大神を祀った伊賀国の市守宮(いちもりのみや)であるといわれている。
また、この蛭子神社はもとは、南1キロメートルほどの中村という地区から移されたといい、毎年2月には「えびす祭」でにぎわう。
そのほかにも、倭姫命が休まれたという名張川の中の岩や、足を洗われたという池など、名張市全域ににいくつもの伝承が残る。また、名張は壬申の乱の際、大海人皇子が通り、川の上にかかる黒雲を見て勝利を占ったという地であり、白い鹿に助けられて川を渡ったという伝説もある。
大来皇女(おおくのひめみこ)が建立した昌福寺(しょうふくじ)といわれる夏見廃寺跡(なつみはいじあと)も、蛭子神社から北東3キロメートルほどの所である。
都美恵神社(つみえじんじゃ/伊賀市)
倭姫命が訪れた敢都美恵宮(あえとみえのみや)の比定地
崇神天皇の58年、垂仁天皇の皇女・倭姫命は、叔母の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)より、天照大神の御杖代(みつえしろ)の役目を受け継ぎ、大神の鎮座される地を求めて旅立った。大和国を出て伊賀国・近江国・尾張国そして伊勢国と至る長い旅の始まりである。(尾張国は『倭姫命世記』にのみ記され、『日本書紀』には記されていない)
伊賀市にある都美恵神社は、伊勢へと至る旅の途中、倭姫命が立ち寄られ、垂仁天皇の2年から2年間大神をお祀りした「敢都美恵宮」といわれている。
伊賀市には、大和地方から伊賀を越え、東海道に合流して江戸へと続く大和街道が通っている。壬申の乱の折、大海人皇子はこの街道の原型にあたる道を通ったといわれている。現在、神社は街道のの近くにあるが、神社から出て街道に沿って少し離れたところに「敢都美恵宮跡」と記された石碑がある。かつての敢都美恵宮は、その石碑からもう少し離れた古宮というところにあり、ある時、土地が陥没したため場所が移され、穴石神社と合祀されたという。
社殿は、高い石垣の上にあり、どことなく城塞のような雰囲気。
斎王の伝説や、街道の歴史が残るこの場所を、ゆっくり旅してみてはいかがだろう。
皇女の森(こじょのもり/伊勢市)
悲劇の斎王・稚足姫皇女(わかたらしひめのひめみこ)ゆかりの場所
伊勢自動車道伊勢インターチェンジからも近い、伊勢市楠部町の国道23号と近鉄鳥羽線が交差するあたりの水田に、小さな森がある。
直径は数メートルほど。「宇治乃奴鬼神社跡』の標示があるほかは、社も何もない。
水田の中に島のように残るこの森は、地元の人に「皇女の森」と呼ばれ、斎王・稚足姫皇女が鏡を埋めて命を絶った場所であるとも、(伊勢参宮名所図会)、倭姫命が天照大神を祀る地を探して訪れた際、猿田彦命が大神を祀るのに良い場所があると申し上げた場所であるとも伝えられている。(伊勢名勝志)
また、伊勢神宮から直線距離にして約12キロメートルとやや遠いが、現在の玉城町積良(つむら)、あるいは隣接する矢野地区(式内社田乃家神社がある)も稚足姫皇女の最期の場所であるとする説がある。
一方、盧城部連武彦(いおきべのむらじたけひこ)が殺された盧城河場は、現在の雲出川といわれ、津市白山町には、飛落首(ひひくび)という地名が残り、近くには斎王ゆかりと伝えられる「こぶ湯」がある。
神山神社(こうやまじんじゃ/松阪市)
飯野高宮(いいののたかみや)の比定地
豊鍬入姫命から御杖代の役目を引き継いだ倭姫命は、伊賀、近江、尾張等を巡り、最後に伊勢国へと至る。この長い御巡幸の旅を記した『倭姫命世記』には、垂仁天皇の22年に「飯野ノ高宮」で4年間天照大神をお祀りしたと記されている。
この飯野高宮ではないかと考えられているのが、松阪市の櫛田川に近い山添町にある神山神社である。現在は山麓にあるが、もともと社は山の上にあったといわれている。
この他にも櫛田川ぞいには、神戸神館神社(下村町)、牛庭神社(下蛸路町)など、飯野高宮にかかわる神社や飯野高宮ではないかと考えられている神社がいくつも点在している。
おそらく、飯野高宮に滞在した4年間の間にも、倭姫命は、大神の鎮座するにふさわしい土地を探してまわったことだろう。その伝説が今も櫛田川沿いの神社に残っている。
斎王ゆかりの地(町外編その2)
今も残る、斎王ゆかりの史跡や神社
その場所に立てば、遙か時の彼方の物語がかいま見えるかもしれません。
このコーナーでは、『日本書紀』等のほかに、中世の伊勢伝承である『倭姫命世記』等も参考にしている。そのため、歴史的事実である根拠に乏しい内容も含まれているかもしれません。
文中の年数等は、『倭姫命世記』などの中世の伝承によるものである。
神戸神館神社・城南神社(かんべこうだつじんじゃ・じょうなんじんじゃ/桑名市)
桑名野代宮(くわなののしろのみや)の比定地のひとつ
豊鍬入姫から御杖代の役目を引き継ぎ、伊賀国、近江国、尾張国等を巡った倭姫命は、最後の伊勢国へと至る。この伊勢国で最初に天照大神をお祀りした場所が桑名野代宮である。(桑名野代宮の最古の史料は『皇太神宮儀式帳』)
桑名野代宮は、現在の三重県多度町の野志里神社(のじりじんじゃ)とされるが、一説では桑名市江場の神戸神館神社であるとも言われ、倭姫命がこの地に休憩所として館を建て神宮が伊勢に定まった後、神領土の神明社として館跡に神館神社が創建されたという伝説が残る。
神館神社
神館神社
また、東海道沿いで、神館神社から約500メートルほどはなれた城南神社にも倭姫命御停座の伝説があり、古来より伊勢神宮の式年遷宮ごとに内宮一の鳥居がおくられて改築する慣例になっているという。各地に残る倭姫命の伝説は、今も生き続けている。
城南神社
五百野(いおの/美里村)
倭姫命の後を継ぎ、天照大神に仕えた五百野皇女(いおののひめみこ)は別名を久須姫命(くすひめのみこと)といい、記録も少なくいくぶん影の薄い斎王である。(別名の久須姫は『日本書紀』には見えず、『斎宮記』や『倭姫命世記』等、後世の史料にのみ記されている)
彼女が伊勢にいた頃、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征に赴く途中で伊勢神宮に立ち寄り、倭姫命に草薙剣(くさなぎのつるぎ)を手渡されている。日本武尊は、この旅の帰途で病にかかり、現在の亀山市の能褒野(のぼの)で没する。危険な旅に向かう弟を、五百野皇女はどのような思いで見送ったのだろうか。
五百野皇女の退下の時期は不明だが、都へ帰る帰途で病に倒れた皇女が亡くなったと言う伝説が残るのが美里村五百野である。
この場所は、斎王群行のルートのひとつと言われる伊賀街道沿いにあり、「景行天皇皇女久須姫命之古墳」と刻まれた石碑が立っており、ほど近くの高宮神社には久須姫命が祀られている。古くはここに伊勢神宮の御厨(みくりや)があり、神宮と関係の深い土地でもあった。
加良比乃神社(からひのじんじゃ/津市)
倭姫命が天照大神を祀った阿佐加乃藤方片樋宮(あさかのふじかたのかたひのみや)の比定地
『倭姫命世記』に垂仁天皇の18年から4年間天照大神を祀ったと記される「阿佐加ノ片樋宮」の比定地のひとつとされているのが現在の津市にある加良比乃神社である。
江戸時代、多くの旅人が伊勢を目指した伊勢街道沿いに立つ「式内加良比乃神社」の碑を目印に参道を行くと、深い木立に囲まれた社殿が現れ、境内には「片樋宮」と刻んだ石柱もたてられている。
「加良比」は「片樋」のなまったものだと言われ、この神社のある場所の片側が急な斜面になっているため、樋を用いて泉の水を引いたことに由来すると言われている。
このほか「阿佐加ノ片樋宮」の比定地としては、松阪の阿射加(あざか)神社や雲出川ぞいにある久居市の川併(かわい)神社とする説もある。
ここまで来れば伊勢まではあと少し。
その道のりを、倭姫命は各地で天照大神を祀りながら旅していったのである。
忘井跡(わすれいあと/嬉野町・三雲町)
都を想う和歌が残る史跡
天永元年(1110年)、第56代斎王・恬子内親王(やすこないしんのう)につき従ってきた女官・斎宮甲斐(かい)が、斎宮へと向かう群行の最後の宿泊地である「一志頓宮」(いちしとんぐう)で詠んだ和歌が残る。
別れゆく
都のかたの 恋しきに
いざむすび見む 忘井のみず
斎宮甲斐 『千載和歌集』(せんざいわかしゅう)
……斎王の群行(ぐんこう)に加わり、京の都に別れていきますが、都の方が恋しくてなりません。「忘井の水(わすれいのみず)」を飲めばきっと都のことを忘れるかもしれません。さあ、「忘井の水」を手で掬って(すくって)飲みましょう・・・・
一見、華やかな群行ではあっても、斎王の胸中には、神に仕えることの晴れがましさよりも、住み慣れた都や親しい人々との別れの悲しさが強かったかもしれない。斎王だけでなく、それに従う女官ともなれば、その想いはいっそう募ったことだろう。
別れの切々たる情をつづったこの和歌が詠まれた「一志頓宮」は、現在の嬉野町宮古であるとも三雲町市場庄近くであるともいわれ、それぞれ石碑や井戸跡が残る。
ひっそりと静まる小さな史跡。しかしそこには斎王にまつわる悲しい記憶が、そっと息づいているのである。
伊勢参宮名所図会「忘れ井」嬉野町・三雲町 (早稲田大学 所蔵)
離宮院(りきゅういん/小俣町)
神宮へとおもむく斎王の休息の宿
離宮院址(りきゅういんあと)は、現在の三重県小俣町に存在する。JR宮川駅を下りてすぐの森…ここがかつて斎王が神宮へと向かう途中に立ち寄って宿泊したという場所である。しかも天長元年(824年)には、斎宮が神宮から遠いという理由で離宮院そのものが斎宮となる。しかし、その15年後の大火事により、再び現在の明和町へと斎宮が移されるという経過をたどっている。その後14世紀に斎王群行制度が廃止されるにいたって、離宮院も徐々に衰退していったという。
離宮院には、現在の役所にあたる「大神宮司」と駅馬を常備した「度会の駅」が併設され、いわば地方における政治・文化・経済の中心として機能した一大官庁群であったことが推察されている。現在は国の史跡指定を受け、院址内には官舎神社と離宮院公園があり、憩いの庭として親しまれている。芝生広場などもあり、シーズンには桜やツツジの鮮やかな彩りが楽しめる。
参考文献
『伊勢の神宮 ヤマトヒメノミコト御巡幸のすべて』大阪府神社庁編・和泉書房
『斎王』津田由伎子著 學生社
『斎宮志』山中智恵子著 大和書房
『続斎宮志』山中智恵子著・砂子屋書房
『斎宮女御徽子女王・歌と生涯』山中智恵子著・大和書房
『伊勢神宮と日本の神々』 朝日新聞社
『朝日百科 日本の歴史 2』 朝日新聞社
『図説資料日本史』 浜島書店
『斎王物語』中野イツ著 明和町・明和町教育委員会
『斎宮歴史博物館総合案内』
斎宮とは?
竹の都 斎宮(さいくう)。それは、天皇に代わり、伊勢神宮の天照大神に仕える斎王の住まう所であった。そこは碁盤の目状に道路が走り、木々が植えられ、伊勢神宮の社殿と同じく清楚な建物が100棟以上も建ち並ぶ整然とした都市で、そこには斎宮寮を運営する官人や斎王に仕える女官、雑用係などあわせて500人以上もの人々が起居し、当時の地方都市としては『遠の朝廷(とおのみかど)』と呼ばれた九州の太宰府に次ぐ規模を持っていたのである。また、斎王を中心とした都市であることから、斎宮では貝合や和歌など都ぶりな遊びが催された。また、都との往来もあり、近隣の国からさまざまな物資が集まるこの地方の文化の拠点でもあったと考えられる。
斎宮跡の規模は東西およそ2キロメートル、南北およそ700メートル。これを、日本の都であった平城京・平安京や、斎宮が栄えた時代とほぼ同時代の地方都市である大宰府と比べると上図のようになります。平城京や平安京はもちろん日本の『首都』であり『遠の朝廷』と呼ばれた太宰府は、都から遠い九州を統治し、大陸に対する防衛の役目を持つ『小政府』のようなものです。一方、斎宮は伊勢神宮の天照大神に仕える斎王のためだけの都。斎王の在任中のみ構成される斎宮寮には13の司があり、120人以上の役人をはじめ、斎王の世話をする女官、雑用係を会わせて500人を越える人々がいました。これは、当時の諸国を治める国府よりも遙かに大きな規模でした。
斎王の代が代わるごとに新しく造営された斎宮は「延喜式」等の記録や発掘の結果によると、碁盤の目状に道路が走り、大垣や溝、植樹が整備された整然とした都市であったことがわかってきました。そしてその内部は、斎王とその世話をする人々が暮らす内院、斎王に関する事務を処理する役所である斎宮寮の庁舎がある中院、官舎や官人の居宅が並ぶ下院に別れ、総数100棟以上の建物が建ち並んでいたと考えられています。
斎宮跡 史跡公園 さいくう平安の森
さいくう平安の杜(柳原区画広場)
日本遺産認定「祈る皇女斎王のみやこ 斎宮」
文化庁が新たに創設した制度「日本遺産」に明和町が申請した「祈る皇女斎王のみやこ 斎宮」が平成27年4月24日に認定されました。
日本遺産とは、地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリーを認定するとともに、ストーリーを語る上で不可欠な魅力ある有形・無形の文化財群を地域が主体となって総合的に整備・活用し、国内外に発信することにより、地域の活性化を図る制度です。
ストーリー
斎王―それは、およそ660年という長きに亘り、国の平安と繁栄のため、都を離れ、伊勢神宮の天照大神に仕えた特別な皇族女性のこと。そんな斎王が暮らした地、斎宮。伊勢神宮でもなく都でもない。慎ましやかであり雅やか。
斎宮という独特で特別な世界は日本で唯一ココだけ。ココは三重県多気郡明和町。
斎王の始まり
斎王の歴史は日本神話の時代まで遡る。語り継がれる伝説の初代斎王は、天照大神の御杖代であった豊鍬入姫命。そのあとを継ぎ、天照大神の鎮座される場所を探し諸国を旅し、伊勢の地にたどり着いた倭姫命。倭姫命は、伊勢の地(現在の明和町大淀)に入り、佐々夫江行宮を造り、カケチカラ行事の発祥となる伝説をつくった。これが斎王と明和町との縁となったのか、斎王制度が確立し、斎王が天照大神に仕えた場所・斎宮は、伊勢神宮からおよそ15キロメートル離れた伊勢神宮領の入口につくられた。
都から斎宮へ
斎王は飛鳥時代に制度が確立して以降、天皇の即位に伴って、未婚の内親王または女王から占いにより選ばれた。選ばれた斎王は、家族と離れ、慣れ親しんだ都での生活とも別れを告げ、200人余りともいわれる従者に伴われて、斎王群行と呼ばれる5泊6日の旅により、斎宮へ向かう。この旅は斎王にとって神に近づく禊祓の旅である。聖なる神領の入り口に流れる川、祓川で斎王は最後の禊を行い、斎宮に入る。
祈る斎王
斎宮に住まいを移した斎王が伊勢神宮に赴くのは、9月の神嘗祭、6月、12月の月次祭の年3回のみ。9月の神嘗祭に奉仕するため、8月に身を清めたと言われている尾野湊御禊場跡が大淀の海岸に残っている。それ以外の日々は斎宮で厳重な慎みを保ち、祈りの日々を過ごしながら、神と人との架け橋となっていた。
斎王と王朝文学
神に仕える身であるがために、恋愛を禁じられていた斎王。恋ゆえに斎王を解任されたり、恋人と引き裂かれたりという悲話も多く伝えられている。そんな斎王の悲恋をテーマにした物語が『伊勢物語』である。69段「狩の使」には、在原業平と斎王の一夜の出会いが描かれており、斎王が在原業平との別れを惜しみ、歌を詠み交わしたという故事にあやかって、大淀にある松を業平松と呼んでいる。斎王の儚き恋物語の世界が舞い降りる美風景が今も広がっている。また、『源氏物語』には斎王をモデルとした人物が登場する。光源氏をめぐる葵の上と六条御息所の攻防は『源氏物語』の中でも有名なシーンであるが、この六条御息所は最終的に斎王に選ばれた娘と一緒に伊勢に向かう。つまり斎宮で暮らすことになる。これは、実際に娘に付き添って斎宮に赴いた徽子女王、規子内親王親子がモデルとなっている。他にも「竹河の段」には、今も残る斎宮の地名、「竹川」が登場する。「竹川」にあった花園には、四季の花が植えられ、斎王も楽しまれていたと伝えられている。他にも、『大和物語』『更級日記』『栄華物語』『大鏡』などの作品に斎王・斎宮が登場している。
斎宮での暮らし
斎王の斎宮での暮らしは、祈りを捧げる慎ましやかな生活の一方で、十二単を纏い、貝合わせや盤すごろくを楽しみ、歌を詠むといった都のような雅やかな生活をしていた。斎王の身の回りの世話、庶務などを50人近くの女官が行っていたことは、斎王の地位の高さをしめしている。また、斎宮寮と呼ばれる役所に勤める官人を中心に総勢500人以上の人々が斎宮で執務をしており、天皇の代理である斎王が暮らす斎宮は、都から訪れる人も多く、近隣の国からもさまざまな物資が集まるなど、この地方の文化の中心地の一つだった。
斎王の解任
斎王制度が続いたおよそ660年の間に、60人以上の斎王が斎宮に赴いた。天皇の崩御や譲位によって新たな天皇に代わる時と、肉親が死ぬなどの不幸があった時、斎王自身の病などにより斎王は交代となった。赴任を終え、無事に都に帰った斎王もいれば、斎宮で亡くなった斎王もいる。彼女らのお墓は「隆子女王の墓」「惇子内親王の墓」として伝承され、今も大切に管理されている。
幻の宮
さまざまな史実や逸話・伝説を生みながらおよそ660年間続けられてきた斎王制度も、南北朝の時代以降、国内の兵乱のために廃絶してしまう。古の制度は歴史の中に埋もれ、地名として姿を残すも、斎宮は「幻の宮」となってしまった。幻の宮になりながらも、斎宮に住む人々は、先祖代々語り継がれてきた斎王・斎宮の存在を信じ、斎王の御殿があったとされる場所を「斎王の森」、斎宮の人々に親しまれている竹神社を「野々宮」と呼び、神聖な土地として大切に護り後世に伝え残してきた。
国重要文化財
蘇る斎宮
そんな幻の宮・斎宮が蘇ったのは昭和の時代に入ってから。発掘調査により、斎宮の存在が確認され、昭和54年に国の史跡「斎宮跡」として指定された。発掘調査によって都のような「方格地割」という碁盤の目状の区画道路を備え、伊勢神宮の社殿にも類する100棟もの建物が整然と並んでいたことが明らかになった。他にも緑釉陶器や蹄脚硯、墨書土器、祭祀用具の出土により、斎宮では都のような雅やかな生活が営まれていたことや、常に清浄を求め、禊を行っていたことが裏付けられた。今も続く、斎宮究明の発掘調査。すべて調査し終えるまであと200年以上かかるとされている。斎宮―そこには、古から現在までたくさんの人々のたくさんの祈りが込められている。ココ「斎宮」は、未来に続く人々の想いが溢れている。
ストーリーの構成文化財一覧表
文化庁が新たに創設した制度「日本遺産」に明和町が申請した「祈る皇女斎王のみやこ 斎宮」が平成27年4月24日に認定されました。
日本遺産とは、地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリーを認定するとともに、ストーリーを語る上で不可欠な魅力ある有形・無形の文化財群を地域が主体となって総合的に整備・活用し、国内外に発信することにより、地域の活性化を図る制度である。
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【明和町の伝統行事と逸品】について
日本の技体験フェアをご覧になられたら是非、明和町の歴史と伝統、そしてさまざまな農水産物に恵まれた逸品をご堪能ください。
鎹八咫烏 記
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
協力(順不同)
明和町役場 〒515-0332 三重県多気郡明和町大字馬之上945 電話番号:0596-52-7111
文化庁 〒100-8959 東京都千代田区霞が関3丁目2番2号 電話番号(代表)03(5253)4111
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