ZIPANG TOKIO 2020「戦国時代の陰の主役 日本遺産 伊賀忍者の史跡 そのⅡ(最終話 四の巻)」

「伊賀流忍者博物館」玄関で忍術の巻物を銜えた伊賀流忍者のお出向かへ。

「伊賀流忍者博物館」忍者武器、道具、装束、資料等の展示

伊賀忍者が崇拝する「役行者」像が祀られる自然石のお堂

静けさの中に、今も忍者の影が漂う伊賀の町を望む

伊賀上野の城下町を歩いて散策

「俳聖殿」
俳句を芸術にまで高めた俳聖 松尾芭蕉は 伊賀で生まれ、29歳までこの地で暮らしました。

城下町を散策 歴史的な町並みや、武家屋敷などが残る 伊賀上野の城下町

「ユネスコ無形文化遺産」に登録された『上野天神祭』は10月20(金)~22日(日)


日本遺産とは

主旨と目的

我が国の文化財や伝統文化を通じた地域の活性化を図るためには, その歴史的経緯や, 地域の風土に根ざした世代を超えて受け継がれている伝承, 風習などを踏まえたストーリーの下に有形・無形の文化財をパッケージ化し, これらの活用を図る中で, 情報発信や人材育成・伝承, 環境整備などの取組を効果的に進めていくことが必要です。

文化庁では, 地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリーを「日本遺産(Japan Heritage)」として認定し, ストーリーを語る上で不可欠な魅力ある有形・無形の様々な文化財群を総合的に活用する取組を支援します。

世界遺産登録や文化財指定は, いずれも登録・指定される文化財(文化遺産)の価値付けを行い, 保護を担保することを目的とするものです。一方で日本遺産は, 既存の文化財の価値付けや保全のための新たな規制を図ることを目的としたものではなく, 地域に点在する遺産を「面」として活用し, 発信することで, 地域活性化を図ることを目的としている点に違いがあります。


日本遺産事業の方向性

日本遺産事業の方向性は次の3つに集約される。

1 地域に点在する文化財の把握とストーリーによるパッケージ化

2 地域全体としての一体的な整備・活用

3 国内外への積極的かつ戦略的・効果的な発信


日本遺産「伊賀忍者」

忍者の呼び方

今は「忍者(NINJA)」の呼び方で統一されていますが、昔は忍者と呼ばなかったのをご存じですか?時代によっても、地域によっても違う呼び方がたくさんありました。 その一部を紹介しましょう。 時代別 飛鳥時代—志能便(しのび) 奈良時代—伺見(うかみ) 戦国時代—間者(かんじゃ)・乱破(らっぱ) 江戸時代—隠密(おんみつ) 大正時代—忍術者・忍者(にんしゃ) 地域別 京都・奈良—水破(すっぱ)・伺見(うかみ)・奪口(だっこう) 山梨—透破(すっぱ)・透波(すっぱ)・三ツの者・出抜(すっぱ) 新潟・富山—軒猿・間士・聞者役(ききものやく) 宮城—黒はばき 青森—早道の者・陰術(しのび) 神奈川—草・物見・乱破(らっぱ) 福井—隠忍術(しのび) 他にも地域によって様々な呼び名がありますが、代表的なものを紹介しました。 当て字ですが「しのび(忍)」に関係するもの、仕事に関係する呼び方(聞者役など)、見たままの呼び方(早道の者など)色々あります。 


さて、それでは前回の続き「伊賀忍者の史跡」を紹介いたしましょう。


史跡  

極楽寺

鎌倉時代に道観という長者が一ノ井に住んでいた。道観は赤目の九か村を支配し栄華を極める。しかし、没落し奥山里香落渓に移り住む。 やがて、自分の不徳を悔い改め、東大寺二月堂の再建に寄与。道観遺言により松明調進が始まった。 この頃に悪党が出現する。中でも南伊賀の悪党、黒田の悪党と呼ばれ有名だ。伊賀忍者の原形になる。ゲリラ的戦術が巧妙で、いくら弾圧されても次々に現れる。活動期間も長く、対処に東大寺は手をやいた。 しかし、赤目の悪党たちも、松明調進ついては、荘園時代から続く行事で、強制されたもでなく、松明調進には従ったという。まともに戦えば明らかに不利である。 悪党は最低限の生きるためのとき、東大寺と戦う。それ以上は望まなった。だからこそ、東大寺という最大の寺院に、しぶとく数百年にもわたり対峙できたのだろう。生きるための忍者的哲学だと思う。


北畠城

奈垣と神屋の境界にあたる、通称城山と呼ばれる中世城館跡。伊勢国司滅亡の際に、北畠一族の再興を計って築かれた北畠具親の城跡である。 山の丘頂には本丸と思われる大地、北には館があったと思われる二の丸、空堀を隔てた南には土塁が取り巻き、山全体が城として利用されている。 『三国地志』や『勢陽雑記』に、次のような記述が記されている。天正4年(1576)に、北畠具親の弟具教が、北畠(織田)信雄の家臣が具親を謀殺し、さらには一族や旧臣も殺害する悲報を知る。具教は奈垣吉原氏を頼った。そこで、北畠家再興を目指す。 北畠家旧臣や恩顧の土豪は、呼応して伊勢各地で兵を挙げるが、所詮は多勢無勢で悉く敗れてしましう。戦国時代、南伊賀の勢力のほとんどは北畠氏に属していたと考えられる。


伊賀延寿院

役行者が開いたとされる寺。天正伊賀の乱の際、織田勢に焼かれましたが、今から約400年前に復興されました。その際に植えられたシダレザクラが毎年きれいな花を咲かせます。


霧生城

「きりゅう」と読む。伊賀は霧がよく発生する。忍者と霧は切り離すことは出来ない。「遁甲」には霧は欠かせないのだ。 霧生は伊勢国との境にあり特に霧がよく発生したのでこう呼ばれた。 初見は東大寺が朝廷に黒田悪党追捕を訴えた弘安5(1282)年『東大寺衆徒等申状案』に「・・伊賀国黒田坂山賊、当国霧生之夜討等・・」とある。 戦国期には伊勢北畠諸侍城館が霧生、諸木、種生、高尾の山間部に集中していた。 『伊勢国司諸侍役付』に、霧生城主伊賀口之鎮の福山出雲守。同城代伊賀国加番の福山越後守。同加番従騎の刈谷左衛門亮、伝五郎、丸山城主丸山半蔵とある。 天正伊賀乱では伊勢地口で戦った南伊賀衆は北畠氏残存勢力である福山氏、結城氏等の歴戦の郷士達が信長軍に果敢に立ち向った。


島ヶ原行者堂

役行者を大峯山から勧請して作られた堂。自然石の窟の中に石刻の役行者と不動明王が祀られています。行者堂から小山川を挟んだ東側には、南北朝時代から室町時代に制作されたと推定される阿弥陀崖仏がある。


観菩提寺正月堂

東大寺の別院として建立されたといわれ、源頼政の家来・渡辺競の末裔を称した島ヶ原党の象徴。島ヶ原党は、第二次天正伊賀の乱の際、伊賀衆の一員として参戦しますが、正月堂を守るために降伏しました。


永井城

写真は出後公園より見える永井城跡

出後には比較的大きい規模の城跡が多く残っている。永井城跡は出後から喰代へ通じる道左手の丘の頂にある。 『三国地志』には城主は永井内膳とあり、城には見張り台が残る。 『伊乱記』によると、天正7年(1579)の阿波口の合戦に内膳は参戦している。また内膳は喰代の三大上忍の一人百地氏に属する忍者で、同じく喰代の田中民部と共に名うての忍者と云われた。 『統集懐録』には藤堂藩伊賀者として子孫の永井又兵衛と田中安丞は仕え、さらに鳥目付としても安政5年(1858)『庁事類編』には、伊賀者の永井又兵衛と田中逸八郎の名が見える。


阿波館

写真は阿波館

 寛永13年の奥書がある、『伊賀付差出帳』という文書がある。この文書は藤堂藩初期の伊賀付分限帳である。その末尾に「忍衆二十人名寄」がある。 これは伊賀上野城代と伊賀奉行の連署にて江戸家老に差しだしたものである。藤堂藩の最初の忍者名簿である。この筆頭に、阿波庄右衛門が記される。 藤堂髙虎が伊賀入国して、伊賀の土豪より、大坂夏の陣の戦争要員として50名が間諜として選ばれた。元和偃武以降は、伊賀者として、20名が選ばれたようだ。 庄右衛門は切り米「三拾石十人扶持」、江戸家老藤堂四郎右衛門が取り次ぎによる召し抱えだ。他の伊賀者は伊賀奉行の召し抱えだから、特別の事情があったのだろう。 阿波氏の城跡は永田の丘陵上にあるが、須原に土塁に囲まれた東西60m南北70mの居館を有し、地元では「堀」と呼ばれ西側は服部川に面している。  


手力神社

天手力雄命(アメノテヂカラオノミコト)を御祭神とする藤林長門守一族の氏神。藤林長門森は、火術・火筒・狼煙などの火の忍術を得意としていたことから、毎年10月17日に伊賀で一番遅い花火祭りがおこなわれています。


春日神社(川東)

写真は相撲絵馬

祭神は武甕槌武命など六柱。一般に相撲、勝負の神。古来は壬生野周辺の伊賀衆の守護神であった。天正伊賀乱では兵火を免れたのは春日大社神職や興福寺僧が滝川一益に訴え聞き入られたと伝わる。 また春日神社には長屋座という宮座制度があり、今なお、澤村家など壬生野一円の豪士だけが祭祠権を維持している。長屋座には伊賀者や無足人の名が多く見られる。 『春日神社申祭由来書』には、神護景雲3年(769)に常陸の国鹿島社より大和春日神社への勧請途中に川東に寄りその由縁で創建。 なお、春日神社には、雨乞祈願成就で奉納された、素晴らしい絵馬が13枚飾られる。勝負の神ゆえに、相撲の絵馬が多くあるが、他にも、荒木又右衛門、鍵屋の辻の決闘絵馬などもある。


柏野城跡

第二次天正伊賀の乱の際に北東部の伊賀衆が立てこもり、丹羽長秀・滝川一益が率いる織田勢に抗戦した城。


壬生野城跡

第二次天正伊賀の乱の際に近隣の伊賀衆が立てこもり、織田勢と戦った城。この戦いで命を落とした伊賀衆の墓石群が残されています。


徳永寺

徳川家康が、伊賀越えの際、休憩に立ち寄ったとされる浄土宗の寺。この時のお礼として、後日、徳川家の家紋である葵の紋の使用が許されたといわれています。


鈴降稲荷神社

鈴降稲荷神社は、港区赤坂にある稲荷神社です。鈴降稲荷神社は、本能寺の変に際して徳川家康が大阪から三河へ逃れる際、伊賀山中で観音堂の堂主山名孝倫から厨子に納められていた三箇の鈴を受領、無事浜松に戻れたことから、江戸開府後に伊賀の領民を四谷に住まわせて伊賀町(伊賀組)の鎮守社として創建したといいます。元禄8年社地が御用地となり当地へ遷座、大正14年に赤坂氷川神社境内の四合稲荷神社へ合祀されたといいます。


服部家住宅

愛知県海部郡弥富町

服部家は、伊賀国服部郷の出身で、南北朝以来、上服部家の統領は、伊賀守(いがのかみ)を名乗っていました。


笹寺

東京都新宿区

徳川家康の艱難辛苦に満ちた生涯を表から裏から支え続けた服部半蔵正成は、関ヶ原の合戦を4年後に控えた慶長元(1596)年、55歳でこの世を去りました。 正成亡き後、嫡男の正就<まさなり>が半蔵の名と、父の遺領8,000石のうち5,000石、それに与力7騎、伊賀組同心200人を受け継ぎました。 ところが苦労人の父と違って、生まれながらの大身旗本であった正就はわがままで粗暴でした。家康の異父弟で伊勢桑名(三重県桑名市)11万石の城主だった松平(久松)定勝<さだかつ>の娘、つまり家康の姪を妻に迎えたことも、彼をいっそう増長させたのかもしれません。 正就は自分の屋敷の普請をするのに、伊賀組同心たちをまるで下僕のように扱い、労力ばかりか材料まで提供させました。従わない者には、給料に当たる糧米<かてまい>を減らしたり、払わなかったりしたのである。 もともと同心たちは徳川家に召し抱えられたのであって、服部家の私的な家来ではありません。当然、彼らは反発しました。正就と折衝することも試みましたが、一向に埒<らち>があきません。正就は話を聞くどころか、反抗する者には私刑をもって臨むといった有様でした。 慶長10(1605)年秋、彼らの怒りがついに爆発しました。弓・鉄砲を揃え、200人が四谷の笹寺(ささ寺)に立て籠りました。ストライキを敢行したのである。 彼らの要求は、正就の罷免と与力への昇格、それに扶持米のアップでした。もし訴えが容れられなければ、斬り死にする覚悟だったという。 もちろん、彼らの要求がたやすく通るわけがありません。幕府は旗本に命じて笹寺を包囲させました。ところが、そこはさすが忍者です。寺を抜け出しては食料を調達するために市中を荒らし回ったので、江戸の治安は大いに乱れました。 ようやく幕府は重い腰を上げ、事実調査に乗り出しました。その結果、伊賀組同心の言う通りであることがわかりました。そこで正就を罷免し、同心たちを大久保忠直ら4人の旗本に分けて所管させました。 一方的に処罰されて、憤懣やる方ないのは正就です。彼は首謀者10人の処刑を要求しました。 確かに徒党を組むことは幕府の規則に違反しますし、市中を荒し回った盗賊まがいの行為は許されることではありません。8人はあえなく打首となりましたが、2人が逃亡してしまいました。 執念深い正就は彼らを探し回り、そのうちの1人らしき人物を見かけて後を追い、斬り殺してしまいました。 ところが・・・、なんとこれが、人違いだったのである。 しかも悪いことに、正就が斬ったのは、関東代官頭を務め、徳川幕府による地方支配の基礎を築いた功労者伊奈忠次<いなただつぐ>の家士でした! ことここに至って、ついに服部家は分家だけを残して改易となってしまいました。 同心たちが立て籠った笹寺は、正しくは四谷山長善寺(東京都新宿区四谷4-4)という。 笹寺という呼び名は、2代将軍徳川秀忠が鷹狩の途中に立ち寄った時、境内に笹が繁っているのを見てつけたのだそうで、こちらの方が正式名称よりも浸透している。 地下鉄丸ノ内線の四谷三丁目駅を出て、甲州街道を4丁目方向に進むと間もなく、左手に寺への入り口を示す門柱がありますが、そこにも「曹洞宗四谷山 笹寺」と彫られている。


服部半蔵奉納の仁王像

御嶽神社

宝永3年(1706)銘。伊賀衆の服部半蔵が、付近にあった高松寺(廃寺となっている)に寄進したものです。  徳川家康より伊賀衆に橋戸村・白子村の一部(現在の大泉周辺地域)を給地されたことに関する資料としてばかりでなく、区内にある仁王像の中でも優れた出来映えの石造物です。  平成4年(1992)3月 練馬区教育委員会


伊賀八幡宮

愛知県岡崎市

伊賀八幡宮は、松平四代・親忠が松平家の氏神として三重県の伊賀から迎え、武運長久・子孫繁栄を祈願するための八幡宮を祀ったものです。  伊賀にちなんで伊賀八幡宮と名付けるともに、鎮座した土地の名も伊賀と変えました。この伊賀八幡宮も重要文化財が多くあり、本殿・幣殿・拝殿・透塀・御供所・随身門・石橋などが国の重要文化財に指定されています。  本殿は、慶長16年(1611)徳川家康によって造営されました。  権現造りの本殿は入母屋造が普通ですが、伊賀八幡宮は流造りになっている珍しい建物です。  幣殿、拝殿は、寛永13年(1636)家光によって本殿に増設して造営されました。


氷川神社

江戸時代から明治の中ごろまで橋戸村といった。ほとんどが幕府直轄の村ばかりあった練馬区内としては、数少ない私領で、忍者服部半蔵率いる伊賀組の給地であった。その伊賀衆奉納の御手洗(みたらし)が氷川神社(大泉町5-15)境内にある。地名の起こりは、村の開発者が八戸あったからとする説もあるが、白子川の地形がつくる「端の瀬戸」と解した方が妥当のようだ。  明治22年小榑村(こぐれむら)と合併、埼玉県榑橋村(くれはしむら)となり、同24年東京府へ編入、大泉村大字橋戸といった。昭和7年市郡合併で板橋区になったとき、大泉村は東・西・南・北大泉町と大泉学園町の五つに分かれた。旧橋戸村は北大泉町と呼ばれた。昭和22年練馬区成立後も町名はそのままだったが、55年住居表示が実施され北をとって今の町名になった。北端(きたはし)のイメージをぬぐい去って、町発展の期待がこめられているのだろう。  清水山憩いの森(大泉町1-6)のカタクリ、八坂神社(同1-44)の富士山、大泉第一小学校(同3-16)正門脇の御鷹場の碑、人頭石で有名な教学院(同6-24)など、町内には史跡が多い。


赤目不動尊

南谷寺(なんこくじ)

この不動尊は、もとは赤目不動尊と言われていた。元和年間(1615~24)万行和尚が、伊賀国の赤目山で、黄金造りの小さな不動明王像を授けられ、諸国をめぐり、いまの動坂の地に庵を結んだ。  寛永年間(1624~44)、鷹狩りの途中、動坂の赤目不動尊に立ち寄った三代将軍家光から、現在の土地を賜わり、目赤不動尊とせよとの命を受け、この地に移った。それから目赤不動尊として、いっそう庶民の信仰を集めたと伝えられている。  不動明王は、本来インドの神で、大日如来の命を受けて悪をこらしめる使者である。剣を持ち、怒りに燃えた形相ながら、お不動さんの名で庶民に親しまれてきた。江戸時代から、目赤、目白、目黄、目青、目黒不動尊は五色不動として、その名が知られている。  目白不動尊は戦災で豊島区に移るまで区内の関口2丁目にあった。


半蔵門

江戸城の西側にひときわ深い堀と立派な門がありますが、この堀を「半蔵濠」、門を「半蔵門」といいます。   服部半蔵は、徳川家康の三河時代からの旧臣で、本名を石見守正成といい、伊賀者(忍者)の頭でした。  徳川家と伊賀忍者との関係は、本能寺の変(1582年)の際、徳川家康は服部半蔵など数名の家来を伴い泉州堺(大阪府)を訪れていましたが、急ぎ三河岡崎に帰るためには、敵味方分からない中、敵陣を突破する必要がありました。  そこで、半蔵は、世に云う「伊賀越え」の策を講じました。甲賀・伊賀国境の峠を越えて伊賀の地に入り、割拠し合う地の忍者群をうまく説き伏せ、支援を受けつつ、北伊勢に抜ける。そして、白子浜(現在の鈴鹿市)から海路で、家康の本国、三河岡崎城に無事到着する、というものです。  『徳川実記』には、この伊賀越えを「後生涯御艱難の第一」つまり家康最大の危機であったとあります。まさに半蔵がいなければ家康の命は危なかったのであります。岡崎帰城後、家康は彼らを召し抱え、甲賀・伊賀の忍者を徳川家の隠密団とし、半蔵にその隠密頭の役を命じました。  江戸城の半蔵門は、この服部半蔵の屋敷が門前にあり、半蔵が守っていた門と言われています。 この場所は、甲州街道の起点となっており、甲州方面の敵から江戸城を守るとともに、逆に、戦で江戸城に危難が迫った折には、甲州方面に逃げるという要衝だったとのことです。  半蔵門から甲州街道(今の新宿通)を西に約2.5kmのところに、西念寺があります。


忍者地蔵

臨済宗系単立寺院の祥山寺は、瑞渓山と号します。祥山寺は、壁誉長老禅師(永禄2年1559以前の人で)が開山となり文禄4年(1595)麹町付近に創建、寛永年間に当地へ移転したといいます。伊賀衆の菩提寺として名高く俗に忍者の寺といったといいます。(にぽぽのお散歩日記)


西念寺(東京都)

服部半蔵の墓所

天正7年(1579年)、徳川家康の長男信康が織田信長のために切腹を命ぜられました(半蔵に介錯を命ぜられましたが、涙で果たせなかったとのこと)が、後年、信康を供養するため半蔵は仏門に入り(「西念」と号した)、麹町清水谷に安養院を建立しました。後に、江戸城の壕の拡張工事に伴い四谷に移され、西念の号をとって「西念寺」と改められ、服部家の菩提寺になりました。半蔵も、慶長元年(1596年)に55歳で没し、西念寺に葬られました。墓は、本堂右隣にあり、新宿区指定史跡となっています。  また、半蔵は「槍の半蔵」との異名をもつ槍の名手としても知られ、半蔵の愛用した当時の槍が寺に所蔵されています。(区登録文化財)


皆中稲荷神社

天文二年(1533)九月二十七日武蔵国に鎮座以来約四百二十有余年になり、大久保発祥以来総社として鎮際せられた。皆中の稲荷と称され、さらに、鉄砲の射撃が百発百中で当たり、射撃のみではなく願い事もと参詣者の数も増え、ついには皆中稲荷神社と崇敬されるようになった。 寛永年間、徳川幕府が「鉄砲組百人隊」を(現在の新宿区百人町) に駐屯させてより「鉄砲組百人隊」は旗本や上下の士に篤く信仰され、 また町名も百人町と名づけられた。(百人町の由来)


伊賀四十九院

『伊水温故』によると田守とも称した。木津川支流久米川下流の地にあり、行基が聖武天皇の勅を奉じ諸国に四十九院を創建しその1院が当地に建てられ四十九院村と呼ばれる。 伊賀は大和と共に現世仏教が布教れた地であり、その土台になったのが伊賀四十九院であった。弥勒菩薩を本尊とし平安朝の中頃から山伏達が兵法、武術、忍術を教える学塾になった。生み出した第一号の山伏兵法習得者は藤原千方と云う。 弥勒寺は四十九院の一つであったが天正伊賀乱で兵火を経て明治40年(1907)に廃寺となった。しかし今も乳授けの祈願者が多い。中世の土豪として増田氏、中森氏、知高氏の城跡が残っている。 明治5年(1872)に弥勒寺は廃寺となる。【写真 弥勒寺廃寺】


参加者募集:歴史探索ウォーク「現地ガイドと訪ねる天正伊賀の乱ゆかりの地」

第18回歴史探索ウォーク:第2次天正伊賀の乱

「 現地ガイドと訪ねる天正伊賀の乱ゆかりの地」

天正9年(1581年)9月、織田信長より4万5000の兵力を任された総大将織田信雄による伊賀討伐(第2次天正伊賀の乱)。対する伊賀勢は1万の兵。後に人口8万の伊賀が5万人に減ったとも言われるこの戦。織田勢、伊賀勢は、いったい何処でどのように戦ったのでしょうか?

築城の名手、藤堂高虎が築いた伊賀上野城。 日本1、2の高さを誇る石垣と、木造の天守閣(再建)が見どころである。

伊賀上野城石垣、石垣の高さは日本で1、2を誇る。約30mある。


日  時: 平成29年10月28日(土) 小雨決行、荒天中止 集合場所: 新大仏寺駐車場 午前8時30分 及び時間  伊賀市役所大山田支所前 午前8時50分       市営上野公園第1駐車場 午前9時10分 参加料: 一人2,000円(上野城入場、バス代、お茶500ml、保険加入 ) 募集定員: 先着 40名(定員になり次第締切り) 服  装: ウォーキングのできる服装 持ち物: お弁当・お茶・雨具・レジャーシート等 申込締切: 平成29年10月20日(金)必着 申込方法: 電話もしくは下記の参加申込書によりお申込み下さい   《第18回歴史探索ウォーク参加申込書をダウンロード》 申し込み・お問い合せ: (一社)伊賀上野観光協会(だんじり会館内TEL:0595-26-7788) つばや菓子舗(伊賀市平田383 定休日:月曜TEL:0595-47-0029) 山田地域住民自治協議会(TEL:0595-47-1777) 布引地域住民自治協議会(TEL:0595-47-0928) 阿波地域住民自治協議会(TEL:0595-48-0009) 行程: 上野公園(平楽寺跡説明:上野城登城)→バス→西蓮寺(比自山城址説明)→バス→赤目町柏原勝手神社(昼食会場)→徒歩→柏原城址説明→バス→丸山城址(車中より見学)→バス→上野公園→バス→伊賀市役所大山田支所→バス→新大仏寺前P ※道路事情等により行程・時間に変更がある場合があります。 主催:(一社)伊賀上野観光協会大山田支部 共催:大山田観光振興会・大山田観光ボランティアガイド会 協力:いがうえの語り部の会 後援:伊賀市、山田地域住民自治協議会、布引地域住民自治協議会、阿波地域住民自治協議会  ツアー責任者:三重県知事登録旅行業第2種-215号東海ツーリスト株式会社伊賀営業所0595-26-0451


補足

島ヶ原行者堂

役行者像が祀られる自然石のお堂、川をはさんだ対岸には阿弥陀磨崖仏も


小山川を挟んで東側には行者籠堂と市指定文化財の阿弥陀磨崖仏がある。磨崖仏の製作年代は南北朝から室町時代と推定されている。


行者籠堂と磨崖仏の対岸には行者堂、大師堂、不動明王像があり、行者堂には自然石の岩屋の中に役行者(えんのぎょうじゃ)像が祀られている。左隣に祀られているのが不動明王。

ここは信仰の霊地として阿弥陀如来像が刻まれているのは当然ですが、島ヶ原ではこの像を大日如来と呼んでいる。江戸中期以後、ここに密教と関係の深い役行者が祀られるようになると、役行者によりふさわしい仏として大日如来と称するようになったのである。

ご興味のある方でまだ、訪ねられたことのない方は、是非お出かけください。


補足

上野天神祭り「鬼行列」

先に紹介した「上野天神祭」重要な箇所がぬけておりましたので補足いたします。先の記事と合わせてご覧ください。

上野天神祭の鬼行列は、藤堂高虎から平癒祈願の返礼として役行者の能面を寄進された城下の修験道寺院が、上野天神宮の秋祭りでその面をつけて大峯に入山する修験者の列のようすを再現したことが始まりであるといわれている。

現在の鬼行列は、相生町・紺屋町・三之西町から成る三鬼会に徳居町を加えた四鬼会によって継承されており、百数十体のさまざまな表情の鬼たちが秋の城下町を練り歩く。

三鬼会(相生町・紺屋町・三之西町)

指揮 → 金棒引 → 先手 → 印(大御幣) → 悪鬼 → 面なし小鬼 → 八天 → 小鬼(賢徳) → 小鬼(民俗面) → 四天 → 行者脇立 → 役行者 → 行者将几持 → 山伏 → 先達 → 奴 → 先達将几持 → 義玄 → ひょろつき鬼 → 車引・太鼓台・太鼓打

徳居町

指揮 → 先曳 → 印(鬼王剣先) → 山伏 → 脇立鬼 → 面なし小鬼 → 八天鬼 → 脇鬼 → 四天王 → 鎮西八郎為朝 → 奴 → 四天王 → 車引・太鼓台・太鼓打


大御幣【おおごへい】

高さ6メートル以上、重さ30貫と伝えられる大御幣。中心の柱を四方から支柱で支えている。それぞれの柱には布が巻きつけられ、中心の柱は白、四方の支柱はそれぞれ青・赤・黄・黒であり五大明王が宿るとされている。天保時代の資料にも同じ形態で大御幣が描かれている。


ひょろつき鬼【ひょろつきおに】


釣鐘・笈持・斧山伏から成り、それぞれ釣鐘、笈、斧を持って右へ左へひょろつきながら歩く。この鬼に触ってもらうとこどもの疳の虫が治ると言い伝えられている。

                                  

鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
石川県 いしかわ観光特使


協力(順不同)

伊賀流忍者観光推進協議会 TEL:0595-22-9670 〒518-0869
三重県伊賀市上野中町2976-1 上野ふれあいプラザ2階

伊賀市観光戦略課 Tel:0595-22-9670
〒518-0869 三重県伊賀市上野中町2976-1 上野ふれあいプラザ2階

一般社団法人 伊賀上野観光協会 TEL:0595-26-7788
〒518-0873 三重県伊賀市上野丸之内122-4

伊賀流忍者博物館 電話:0595(23)0311
〒518-0854 三重県伊賀市上野丸之内117 


※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。


ZIPANG TOKIO 2020

2020年、東京でオリンピック・パラリンピックが開催されます。 この機会に、世界の人々にあまり知られていない日本の精神文化と国土の美しさについて再発見へのお手伝いができればと思います。 風土、四季折々の自然、衣食住文化の美、伝統芸能、行事、風習、ものづくりの技の美等、 サイトを通じて、平和な国、不思議な国、ZIPANG 日本への関心がより深かまるならば、私が密かに望むところです

もしもこのサイトに同じ思いをお持ちの皆様から、素敵な情報や画像をお寄せ戴ければこの上ない喜びです。以下のEメールアドレスへご連絡下さい。

E-mail aromajinja@gmail.com ( ZIPANG 2020 編集部 )。

2020, will be held the Olympic Games and Paralympic in Tokyo.

On this occasion, for the little-known beauty of the spiritual culture and national land of Japan to the people of the world I think that if we help to re-discover.

Climate, nature of the four seasons, of food, clothing and shelter cultural beauty, traditional arts, events, customs, beauty, etc. of the work of making things,

Through the site, peaceful country, a strange country, if the interest is more depth or round to ZIPANG Japan, is where I want secretly.


写真ご協力:高山祭(高山市)/ 富士山(富士市)

ZIPANG TOKIO 2020

2020年、東京でオリンピック・パラリンピックが開催されます。 この機会に、世界の人々にあまり知られていない日本の精神文化と国土の美しさについて再発見へのお手伝いができればと思います。 風土、四季折々の自然、衣食住文化の美、伝統芸能、行事、風習、ものづくりの技の美等、 サイトを通じて、平和な国、不思議な国、ZIPANG 日本への関心がより深かまるならば、私が密かに望むところです。

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2020, will be held the Olympic Games and Paralympic in Tokyo.

On this occasion, for the little-known beauty of the spiritual culture and national land of Japan to the people of the world I think that if we help to re-discover.

Climate, nature of the four seasons, of food, clothing and shelter cultural beauty, traditional arts, events, customs, beauty, etc. of the work of making things,

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