東薗目の花祭:最初に登場する鬼で、山を割り、生命の再生を図り、生まれ清まりの重要な役割を担う鬼です。
舞庭中央に据えられた竈に足を掛け、山を割る所作をします。
花祭について
「テーホヘ、テホヘ」と、夜を徹して繰り広げられる花祭は、鎌倉時代末期から室町時代にかけて、熊野の山伏や加賀白山の聖によってこの地に伝えられたといわれています。 「冬至」の前後、太陽の力の復活を願って行われる「霜月神楽」の一種とされるこの祭りは、天竜川水系に今も伝わる神事芸能で700年以上にわたって継承されています。 当初は湯立てと清め中心の祭りだったと考えられますが、伊勢神楽や諏訪神楽なども取り入れながら、土地の人たちによって育まれ、約400年ほど前に現在に近い形態になったようです。 そのころは大神楽といって、・オ日七夜もかけて130番もの舞が盛大に行われ莫大な資金と労力が必要で、金100両、白米100俵が備蓄され、更に不足に備えて神楽林も保有していました。 数地区が一緒になって、7年目や20年目という間隔で行われていましたが、大行事のため七日七夜にわたる大神楽を省略・集大成し一日一夜の祭りとして完成されたのが現在の花祭であるといわれています。大神楽がなぜ花祭になったのかは多くの人が持つ疑問であり、「花」の語源についても10前後の説があります。 祭りは花宿の清めから始まり、神迎え、湯立て、宮人の舞、青年の舞、稚児の舞、鬼の舞、禰宜や巫女・翁などの神々の祝福、少年の舞、湯で清める湯ばやし、神返しまで休む事なく、ほぼ一昼夜をかけておこなわれます。 八百万の神々を勧請し、諸願成就、厄難除け、生まれ清まりを祈願するこの祭りは、昭和51年に国の重要無形民俗文化財に指定され、毎年11月から3月上旬にかけて、郡内15ヵ所の地区で盛大に開催されます。
1、小林花祭の特徴
東栄町内11地区で伝承されている花祭には「振草系」、「大入系」、「大河内系」の3つの系統があると言われ、小林の花祭は「大河内系」の唯一の花祭といわれています。
「振草系」8地区と「大入系」2地区はそれぞれ同じ系統で舞や神事がよく似ていますが、小林は舞の所作や神事などが、他の系統の花祭とかなり異なっていて、小林でしか見られないものもあります。舞は少し他より拍子が速く、所作も素朴で、歌ぐらや、笛の音色にも独特の郷愁を覚えます。
小林ではその昔、2つの派にわかれて同じ村の中の2カ所で花祭を行っていた時期があり、榊鬼、山見鬼、茂吉鬼など役鬼がそれぞれに舞われていたため、1つに戻った今でも鬼の舞が他地区よりも多く演じられています。
小林の花祭にご来場いただき、ご献銭を奉納していただくと、お礼として、五穀豊穣や無病息災を祈願した「お礼」と、小林花祭の鬼面などのデザインした手拭いなどをさしあげます。
また会場ではお酒も振る舞われます。仮眠所も用意してありますので、安心してお出かけください。茂吉鬼が祓い落とす「蜂の巣」の中に入れる「祓い銭」は、昔は12文(うる年は13文)となっていましたが、現在では金額は特に決められていませんが、1円から100円までいろいろな硬貨がいれてありますので皆さんも是非1年の福を手に入れてください。
日時: 11月第2土曜日~日曜日 午前7時~翌午前0時 場所: 小林諏訪神社
四ツ舞 扇の手:青年4人で舞い、時間も長く複雑な所作が含まれ、体力と洗練された技術が必要とされます。
採り物は、扇・ヤチ・剣であるが、扇の舞は最初に上着を採りものとします。
2、御園花祭の特徴
大入系の花祭で、太鼓もおさえバチでなく弾むように調子よく叩きます。
舞い方も集落により少しずつ違い、御園の舞は、一本足で腕を大きく広げて、鶴のように優雅に舞うのが特徴です。
御見舞いを奉納いただきますと、毎年趣向を凝らせたお礼を差し上げます。
また、せんじでは自慢のけんちんと漬物、そしてお酒でおもてなしいたします。
2か所の仮眠所ならびに客席も広く用意していますので、一晩中お楽しみいただけます。
祭りが一番盛り上がるのは、山見鬼や榊鬼、子供の舞が演じられる午後10時頃から午前4時頃と、湯ばやしの舞が行われる午前9時半頃です。
日時: 11月第2土曜日~日曜日 午後2時~翌正午 場所: 御園集会所
一の舞 三折:青年が扇と鈴を持ち舞います。
大入系は笹を持ちます。
3、東薗目花祭の特徴
東薗目の花祭は大入系で、御園や豊根村の花祭と似ています。
鎮やみこの面の裏には寛政という江戸時代の年号が書かれていて、200年以上続いている証です。
東薗目の神事は湯立てに特徴があります。
全ての舞が終わった後に行われ、「七石半の湯立て」と呼ぶ独特の作法は、他にはない東薗目独特のものです。
東薗目の山鬼は鉾を持って現れるのが特徴です。
ひとしきり舞った後マサカリに持ち替えます。
榊鬼は根付きの榊を持って登場、榊とマサカリの2種類を採り物としています。
「茂吉鬼」とは呼ばず「朝鬼」という次第があり、朝鬼はマサカリを持っています。
近年、集落内の小学校跡を拠点に活動する邦楽集団「志多ら」による「志多ら舞」の演目も含まれるようになりました。
日時: 11月第3日曜日 午前8時~午後11時 場所: 老人憩いの家 東薗目荘
花の舞:3~4歳位から参加します。
手に花笠を持って舞うことから花笠の舞ともいいます。
花の舞は、扇・盆・湯桶と年々成長とともに持ち物を変え舞うことになります。
4、月の花祭の特徴
月花祭の特色は、まず舞庭が広いことです。湯蓋の数が多い神座飾り付けが立派など、実に大好評です。
伝統を崩さず、古式を尊ぶ特に神事の厳格さには定評があります。鬼が焚火の山を「まさかり」ではねる、夜空を焦がす勇壮な光影は、月の花祭でしか見られません。
おいしいものに「花祭のみそ・`」の代名詞があります。大釜で長い時間焚き込んだみそ汁の味は天下一品、舌鼓を打つこと請け合いです。
自慢の舞はやっぱり『花の舞』・『鬼の舞』と『湯ばやし』。一度見たらやみつき。「百聞一見に如かず」です。
日時: 11月22日~23日 午後2時~翌午後6時 場所: 月公民館
榊鬼:最も重要視されている鬼で、地区の人達は「榊様」と呼んでいます。
反閇を踏み、大地に新しい生命力や活力を吹き込む鬼です。
又、問答も榊鬼の特徴です。
5、足込の花祭
神々を呼び招く「天の祭」の神事に、古式のとおり宿の2階に七十五膳の供物をL字型に用意するのはここだけ!
祭りが済んで、願の叶った願主に「こうかずら」の切り草(種)を首にかけ、氏神の神輿が釜の周りを回る「花育て」の神事が残るのは、大事なことと言われています。
また、足込地区は会場の古さが雰囲気を醸し出しており、舞が進むにつれ、厳粛かつ幻想的な雰囲気に包まれます。
日時: 11月第4土曜日~日曜日 午後3時~翌午後3時 場所: 足込集会所
山見鬼:伴鬼を従え式舞をし、山割りの儀式を行ないます。 三ツ舞扇の舞手が松明にて明り取り先導します。
6、河内の花祭
春の兆しもまだ遠い寒い冬の朝、東の空がほのかに明るくなりかける頃、朝鬼は舞庭に現れます。 朝鬼は、赤鬼・白鬼・青鬼によって、夫婦和合・家庭円満の願いを込めて、おもしろおかしく演じられ、舞庭中央の天井に垂れ下がっている「蜂の巣」を鬼が持っている鉾で突き破ると中から「種銭」が落ちてきます。 これを拾い自分の財布に忍ばせておけば、その年はお金には不自由しないと言われ、これを我先に奪い合う目出度い舞の一つです。 ご献銭を奉納していただくと、お返しに花祭オリジナル手ぬぐいを差し上げます。 また、暖かいご飯・みそ汁・煮しめ・漬物・お酒でおもてなししますので冷えたからだを温めてください。
日時: 11月最終土曜日~日曜日 午後6時~翌午前10時 場所: 河内長峯神社
朝鬼:朝日が昇ってから出る鬼で、白鬼、赤鬼、青鬼の三つが出ます。 白鬼と赤鬼のしぐさに青鬼が焼きもちを焼く姿が愛嬌があります。 式の後、最後に大湯蓋に吊るしてある蜂の巣を突き破り中のお宝(祓い銭と五色の細紙)を落とします。 縁起ものとして奪い合います。
7、中設楽の花祭
中設楽の花祭は寛政3年(1791)に古戸から教えられたと言われています。 しかし、それ以前に御神楽・花神楽・湯・ァ神楽があったとも伝えられています。 明治初年の神仏分離令を受けて祭りの形態を「神道花」として変容させました。 神話に基づいた内容が多く見られるとともに、衣装・飾り・歌ぐらなどに他地区では見られない特色のある祭りが行われるようになりました。 花祭の主役の鬼を神の名前で、猿田彦命(榊鬼)・須佐之男命(山見鬼)・大国主命(茂吉鬼)と呼びます。衣装も羽織・袴を付けた神装束をします。 設楽の里に神が舞う東の空に昇る曙光に合わせて「岩戸開き」の舞が幻想的かつ神秘的な空間を醸し出します。 ここから神話の世界への誘(いざない)が始まります。 須佐之男命の「大蛇退治」と命を救われた「稲田姫」、姫の両親「足那槌・手那槌」や国譲り神話にちなんだ「大国主命」の舞など、集う人々の心を癒します。 猿田彦命は、祭り当日の早朝から地区内の家々を回り 「反閇へんべ」を踏み、人々の厄と大地の悪霊を祓い、五穀豊穣・病気平癒・村中安全を祈願する神として崇拝されています。 さらに、天孫降臨神話から猿田彦命と 天宇受売あめのうずめの 命みことの問答が再現される場面もあります。
日時: 12月第1土曜日~日曜日 午後1時~翌午後6時 場所: 中設楽花祭舞庭(中設楽生活改善センタ-前)
須佐之男命大蛇退治:出雲の肥の川で八俣大蛇の生けにえになる稲田姫を助け、退治した大蛇の体内から一振りの「草薙くさなぎの剣つるぎ」を取り出し、神前へ捧げます。 大蛇を酔わせる舞、酔いつぶれた大蛇を大剣で切り付ける舞、草薙の剣を捧げる舞、鉞を持って凱歌をあげる舞をします。 大剣を持った時、稲田姫との生活を歌った問答(口上)があります。
8、中在家の花祭
中在家の花祭は明治5年に足込から伝わったもので、伝承の経緯が判明している点では唯一の花祭です。
中在家の集落は現在約9戸と花祭を残す集落の中では最少だが、近隣の志を同じくする人たちの力を得て、朝から夜までの花祭として、立派に催しています。
舞は古来からの舞式を伝承しており、花の舞では大人に肩車されて現れる姿に、神聖な舞の神髄が現れています。
榊鬼や山割鬼のマサカリが特に大きい。朝鬼の次第があり、木でできた槌を持った茂吉鬼が縁起物の「蜂の巣」を払い落とします。
日時: 12月第2日曜日 午前8時~午後10時30分 場所: 老人憩いの家 明寿荘
花の舞 湯桶(ゆうとう)の手:花の舞は早い子では三歳位から舞い始めます。
花笠の舞はまだ満足に舞えない幼児に舞の経験をさせるもので、正式の花の舞は花笠を冠るものですが、花笠の舞では手に持って舞います。
しかし組内には、現在舞子がいないため、他地区の応援を頂き、継承しております。
9、古土の花祭
古戸の花祭は、振草系の中で最も古い歴史と伝統を持ち、当地から各地区への指導の記録も残されています。 また、舞庭や神座など各所の飾り付け・衣装などに神仏混淆の形式を色濃く残している唯一の花祭であるといえます。 神事も伝統を重視し古式に則り厳格に行っています。宮人の装束に特徴があります。 元禄9年(1696年)の茂吉鬼はじめ、舞の衣装、鉞の箱や面の箱などには1600年代の年号があり、300年以上の歴史を見ることができます。 毎年、舞の開始時間は午後6時に決められており、したがって他の舞の時間もほぼ一定となり、見物の人たちにも大いに喜ばれているところです。 昔から、「舞の古戸」と呼ばれ他の地区からも称賛されていますが、まねをしようとしてもできないところに古戸の良さがあります。 また、衣装の着付け、特に「鬼の襷」は古戸独自の結び方を受け継いでいます。他では見られない結び方です。 平成24年1月の花祭から新築された「古戸会館」に会場を変更しました。より多くの人を受け入れられるよう見物席も舞庭も一回り広くし、駐車場も完備しました。 最も古い歴史と伝統の「古戸花祭」へぜひお越しください。 お見舞いのお返しには、花祭の原点である「白山神社」のお守りと軽食を差し上げます。
日時: 1月2日~3日 午前9時~翌午後5時 場所: 古戸会館
湯ばやし:4人舞います。
ゆからびら・たっつけ・たすき・草履・腰に鈴を挿し、藁で作ったたわし(湯たぶさ)を持ちます。
竈に火を入れ、お滝の水を注ぎ、舞っている間湯の温度を確認しながら火の調整をします。
舞の最後にこの湯をあたり一面に振り掛け清めます。
観衆もこの湯に掛かり一年の無病息災を祈願します。
舞子と観衆が一体となった舞で、この湯ばやしを目当てに来る人もいるほどです。
10、下粟代の花祭
下粟代の花祭で使っている太鼓には、天保12年の銘があり、150年以上の祭りの歴史を語っています。 また、集落内の旧家には文化3年に花祭を催した内容の古文書が残されており、さらに長い歴史を持つ可能性もあります。 明治初期、花祭の存続を危うくした廃仏毀釈の風潮には、花太夫の衣・浮竝ユ文の一部を神道化することで切り抜け、以後変わりなく続けられた現在の姿は、明治の姿そのままです。 花太夫と宮人による神事は実に丁寧で、神仏を呼び寄せる神招の神事や舞の後の神返しの神事は、その宗教性において高い価値を持っています。 下粟代の榊鬼面はその大きさで有名で、町内最大との呼び声も高いです。ここでは飛び入りの伴鬼を歓迎します。舞に自慢の希望者は花宿裏手の支度部屋を訪れるとよいです。 祭りの最後、宮送りの前に一杯の粥を一本の箸ですすります。これは昔の大神楽の次第の白山浄土入りに通ずるといわれています。
日時: 「成人の日」前の土曜日・日曜日 午後2時~翌午後2時30分 場所: 下粟代生活改善センター
獅子:竈祓いの獅子、清めの獅子とも言われ、花祭の最後の舞です。
舞庭を這うように舞い清めます。
おかめの面を付けた先導役にのしかかったあと、舞庭・神座を回って終わります。
11、布川の花祭
布川の花祭は振草系。花宿となる集会所は古来の風情を保ち、神社の神域とも相まって独特の祭風情を醸し出しています。 3月という開催時期が見物客に優しく、毎年多くの観客でにぎわいます。 鬼面に記された年号銘は文政13年、花大夫家伝わる古文書は文政8年と200年近い歴史を語っています。 「舞庭」飾りの「湯蓋」「一力花」「添花」は五色の色紙を使用していますが、「一力花」の数が多いのが特色です。また、「ざぜち」は文政初期の型紙に基づき制作しています。 世襲で受け継がれた花大夫により厳格に行われる神事は、明治5年の廃仏毀釈の影響をあまり感じさせない趣きがあります。 祭りの最後、宮渡りの前に一杯の粥を一本の箸ですすります。これは昔の大神楽の次第の白山浄土入りに通ずるといわれています。
日時: 3月第1土曜日~日曜日 午後1時~翌午前11時 場所: 布川公民館
茂吉鬼:最後の鬼で、湯蓋につるされた蜂の巣(お宝)を槌で払い落とす所作がありますが、縁起物として観衆はこれを奪い合います。
蜂の巣の中身は、祓い銭12文・おひねり12個と五色紙の細片です。
12、坂宇場の花祭
花祭は中世の末期頃からこの地方でおこなわれていたものと思われます。 記録では天正九年(1581)に御神日記が、文禄二年(1592)には花祭の祖形と思われる「花祭次第」が残されており、また慶長年間に入れば面型や神楽の記録が残っています。 このように400余年も「花」や「神楽」が、なぜ行われてきたか考えてみるに、現在のように文化の進んだ時代と異なり、戦国時代には兵・馬の徴発により食糧は不足し、伝染病は蔓延し、戦争により肉親や近隣の人たちが死亡していきます。 このような凶事は悪霊のなせる仕業と考えられ、これを祓いのぞき、生まれ清まりの祈願をすることにより、無病息災と五穀豊穣を祈り、死者の供養を行う以外には、方法がなかったと思われます。 ところが、この神楽の執行には多額の金と物資が必要であったので、豊作の年しかできなく、不定期になりがちでした。 それ故、神楽を省略して一日一夜の恒例祭として「花祭」が行われてきたと考えられています。 この花祭が国の重要無形民俗文化財として、昭和51年に国の指定を受け今日に至っています。 昔は旧暦10月14日に行われてきた霜月神楽でしたが、明治以降の施策である「廃仏毀釈」の影響を受けて大きな変化をし、太陽暦の実施や行政機関の休日等により1月3日の正月休みに行い、現在は11月の第4土曜日の夕刻より、翌日曜日の朝まで行うようになりました。
日時: 11月第4土曜日~日曜日 午後6時~翌午前7時 場所: 八幡神社
三ツ舞:3人ずつの舞手が、鈴とともに、扇、ヤチ、剣を持ち、釜の周りを巡り舞います。
13、下黒川の花祭
起源は明らかではありませんが、文禄二年(1592)の「花祭の次第」が残されており、慶長六年(1601)に熊谷将監より榊鬼面が奉納されています。 また、寛永六年(1639)に、しずめ火王面が寄進されています。 このころから寛文年間にかけて、下ノ村に法印福寿院(万蔵院の父)が在住しており、花・ユや神楽に影響があったと考えられます。 宝暦七年(1757)に七番様といわれる鬼面が、安永三年(1774)に青鬼面が奉納されています。 寛政のころ、桧皮野地内の共有山に植林を行い、神楽のための多額の入費に備えて神楽林を設けました。 戦国時代には兵・馬の徴発により食糧不足となり、伝染病が蔓延し肉親や近隣の人々が死亡していきます。 このような凶事は悪霊のなせる仕業と考えられ、これを祓い除き、生まれ清まり、生命力再生、無病息災を祈願し行われたものであります。 神楽には多額のお金と物資が必要であり、豊作の年にしかできなく不定期になりがちでしたが、神楽を省略して一日一夜の恒例祭として「花祭」として現在まで続いており、昭和51年に国の重要無形民俗文化財の指定を受けました。 江戸時代、花祭は旧暦の11月16日に行われていましたが、明治以降、太陽暦の実施により、正月となり1月5日、7日と変更され、現在では12月25日から12月30日まで舞の練習が行われ、1月2日から3日にかけて行われています。 下黒川の花祭は、大入系であり太鼓の拍子も舞においても、他の地域と違い激しいものとなっております。
日時: 1月2~3日 午後4時~翌午後3時 場所: ほのぼの会館
祢宜・巫女・翁・すりこぎ:五色の幣を持った「火の祢宜」「翁」は、人との問答や生まれてからの生い立ちをおもしろおかしく言います。
美しい女性の姿をした「巫」は、多くの舞の中に唯一女性が登場します。
すりこぎは、擂子木・しゃもじに味噌を付け、観客衆に味噌を塗りつけ舞庭を賑やかにします。
14、上黒川の花祭
花祭は中世の末期頃からこの地方でおこなわれていたものと思われます。 記録では天正九年(1581)に御神日記が、文禄二年(1592)には花祭の祖形と思われる「花祭次第」が残されており、また慶長年間に入れば面型や神楽の記録が残っています。 このように400余年も「花」や「神楽」が、なぜ行われてきたか考えてみると、現在のように文化の進んだ時代と異なり、戦国時代には兵・馬の徴発により食糧は不足し、伝染病は蔓延し、戦争により肉親や近隣の人たちが死亡していきます。このような凶事は悪霊のなせる仕業と考えられ、これを祓いのぞき、生まれ清まりの祈願をすることにより、無病息災と五穀豊穣を祈り、死者の供養を行う以外には、方法がなかったと思われていました。 ところが、この神楽の執行には多額の金と物資が必要であったので、豊作の年しかできなく、不定期になりがちでした。それ故、神楽を省略して一日一夜の恒例祭として「花祭」が行われてきたと考えられています。 この花祭が国の重要無形民俗文化財として、昭和五十一年に指定を受け今日に至っています。 昔は旧暦十一月十四日に行われてきた霜月神楽でしたが、明治以降の施策である「廃仏毀釈」の影響を受けて大きな変化をし、太陽暦の実施や行政機関の休日等により一月五日となり、現在は一月三日の夕刻より、翌四日の十時頃まで行うようになりました。
日時: 1月3~4日 午後5時~翌正午 場所: 熊野神社
しずめ:神座に菰を敷き、その上で花太夫2人が務めます。
火王は鼻高の面で太刀を持ち、水王は鳥かぶとを破り素面で柄杓を持つ、九字護身法を行い、印を結び反べいを踏み、呪文を唱え五方を舞います。
最も重要な神事とされています。
神楽では2日目の最初に白山(しらやま)で行われ、土公神を鎮める重要な神事とされています。
15、津具の花祭
毎年1月2日の午後から白鳥神社の舞庭で30種類以上の舞や神事が夜を徹して行われます。
悪態祭ともいわれ、この日は観客が舞に参加(やじ舞)し、舞庭の中に限り、世事全般に関し悪態をつくことが許されているので酒を飲み悪態をつき、日頃のうっぷんを晴らしながら舞手と観客が一体となって盛り上がりますが、近年悪態の名人が少なくなり舞庭にぎわいが減少しています。
まさに神人和合の雰囲気をかもし出す祭りで、昭和51年に国の重要無形民俗文化財に指定されています。
日時: 1月2日~3日 午後1時~翌午前7時 場所: 白鳥神社
津具の榊鬼
地固めの舞(扇・八刀・剣):扇・八刀・剣を持ち2人で舞います。
剣の舞は氏神である白鳥神社の神前にて舞います。
御神楽:宮人(みょうど)四人が扇と鈴を持って舞います。
願主から寄せられる祈願に応じて他の舞の合間にも奉納されます。
花の舞花笠の舞:子供の愛らしく舞う花笠の舞をはじめ、盆の舞、ぼんでん(御幣)の舞と続きます。
三人で舞います。
花の舞盆の舞:子供の愛らしく舞う花笠の舞をはじめ、盆の舞、ぼんでん(御幣)の舞と続きます。
三人で舞います。
三ツ舞扇の舞:扇の舞を三人で舞います。
山見鬼:かつては釜に足をかけ鉞で割る所作でしたが、現在は供鬼(白鬼)との入れ違いに舞が変化しています。
白山を割って生命の再生を図り、生まれ清まりの役割を持つ役鬼。
やせ鬼(子鬼)もあわせて登場します。
三ツ舞八刀の手:八刀の舞を三人で舞います。
反閇(へんべ)を踏んで大地に新しい生命力を吹き込み、豊穣をもたらす役鬼。
願主から寄せられる祈願に応じて他の舞の合間にも奉納されます。
三ツ舞剣の手:剣の舞を三人で舞います。
湯ばやし:軽快なテンポで湯たぶさ(藁のタワシ)を持って舞い、釜の湯をあたり構わず撒き散らします。
この湯を浴びると病にかからないといわれています。
扇の舞、八刀の舞、剣の舞を四人で舞います。
特に扇の舞は、最初に「しらみふくい」といいます。
白衣を頭上高く振り上げて舞を延々1時間以上舞い続けます。
四ツ舞八刀の舞:扇の舞、八刀の舞、剣の舞を四人で舞います。 白衣を頭上高く振り上げて舞を延々1時間以上舞い続けます。
四ツ舞剣の手:扇の舞、八刀の舞、剣の舞を四人で舞います。
白衣を頭上高く振り上げて舞を延々1時間以上舞い続けます。
老人の面の舞。
かつては滑稽な問答が伝えられていました。
擂木の舞:味噌をつけた摺りこぎ、飯粒をつけた杓子、女郎の三人が登場し、観客に味噌や飯を塗りつけてまわります。
願主から寄せられる祈願に応じて他の舞の合間にも奉納されます。
おかめの舞:妊婦の所作で滑稽に舞います。
御神楽:宮人(みょうど)四人が扇と鈴を持って舞います。
願主から寄せられる祈願に応じて他の舞の合間にも奉納されます。
朝鬼:役鬼を除く鬼たちが一同になって舞います。 かつて夜明け頃に登場することが多かったことから朝鬼と呼ばれています。
茂吉鬼:鎚を持って舞い、湯釜にぶら下げられた「蜂の巣」を払い落とします。
蜂の巣の中の五色紙は縁起物として観客が争って拾います。(朝の役鬼)
獅子:湯たぶさをくわえて舞庭を舞い清めます。
神事
鎮め(しずめ)
花祭で最も重要な役とされ、天狗面がゆっくりとしたテンポで舞います。 これによって神々は心を鎮め、それぞれの御座に帰っていきます。
※11月20日、25日にも奥三河の花祭の記事を掲載してありますのでご覧ください。
「斎王」の伊勢の国 明和町観光大使 鎹八咫烏 記
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
協力(敬称略)
愛知県地域振興部地域政策課山村振興室 電話:052-954-6097
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