ZIPANG TOKIO 2020「二つの『元伊勢』さま 【 寄稿文 】まんだら塾長 日原もとこ」

大神神社「三ツ鳥居(みつとりい)」
国重要文化財。神の山・三輪山と拝殿を区切る場所に立つ。本殿にかわるものとして神聖視されてきた。拝観は参集殿で申し込みを。(祭典及び神社諸行事にて拝観いただけない場合がございます。)

三輪山は古来、大物主大神が鎮(しずまる)神の山として信仰され、一木一草に至るまで神宿るものとして尊ばれています。

神体の三輪山へは特別に登拝が許可されている。狭井神社で申し込み、約束事を守って、 敬虔な心で入山しよう。

大神神社拝殿
国重要文化財。寛文4年(1664)徳川家綱公により再建。当神社は三輪山をご神体とするために本殿がなく、拝殿を通して三輪山を拝む原初の神まつりの姿を留める。

大神神社 祈祷殿・儀式殿・参集殿
平成九年に竣功した檜を用いた木造の社殿。日々の祈祷や結婚式を奉仕。

大神神社 巳の神杉(みのかみすぎ)
三輪の大物主大神の化身の白蛇が棲むことから名付けられたご神木。蛇の好物の卵が参拝者によってお供えされている。


⚫電撃が走った参道 

私が奈良県桜井市、大和一宮である大神神社(おおみわじんじゃ)に御縁を戴いて以来、いつの間にか45年目を迎えておりました。この間、前半は東京在住。後半は仕事の関係で山形にもねぐらを持ち、大半は山形で過ごしております。  山形から大神神社へのご参拝は以前と違って時間的にも距離的にも、日帰りは困難となり、なかなかの不便さが伴いますが、学会開催等が関西近辺の折には逃さず、チャンスをフル活用するのです。 

若かりしころには神社仏閣の故事来歴や歴史には疎く、とんと無関心な私でしたが、何故か寺社参りだけは好きな質で、出張の度に色々と巡っておりました。  そんな中、初めて大神神社の二の鳥居をくぐったときです。参道へと足を踏み入れた途端、いきなり電撃が走りました。本当に髪の毛根が逆立ったと申しますか…此れぞ私が心から求めていた神様だ〜と思ってしまったのですね。異様でした。あの杉木立ちは当にミステリーゾーンです。 

関西ではその存在を知らぬ者はいないとされるほど、古くから親しみを込めて「お三輪さん」と呼び、庶民に愛されてきた神様だと申されます。それは、東北でも原始から神は不可視の存在であり、美しい山に籠られるものという考え方が共通してあったようですが、そんな遺伝子を現代人の私達の中にも残っているのでしょうか。遠い祖先から受け継いだ原始の潜在意識が目覚めたようでした。ここで、大神神社公式サイトによる御由緒をご紹介致しましょう。

ー・ー当社の創祀(そうし)に関わる伝承が『古事記』や『日本書紀』の神話に記されています。『古事記』によれば、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)が出雲の大国主神(おおくにぬしのかみ)の前に現れ、国造りを成就させる為に「吾をば倭の青垣、東の山の上にいつきまつれ」と三輪山に祀まつられることを望んだとあります。

また、『日本書記』でも同様の伝承が語られ、二神の問答で大物主大神は大国主神の「幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)」であると名乗られたとあります。そして『古事記』も同様に三輪山に鎮まることを望まれました。この伝承では大物主大神は大国主神の別の御魂(みたま)として顕現(けんげん)され、三輪山に鎮しずまられたということです。(中略) ・・・ そして、ご祭神(さいじん)がお山に鎮(しず)まるために、当社は古来本殿を設けずに直接に三輪山に祈りを捧げるという、神社の社殿が成立する以前の原初(げんしょ)の神祀りの様を今に伝えており、その祭祀(さいし)の姿ゆえに我が国最古の神社と呼ばれています。「大神」と書いて「おおみわ」と読むように、古くから神様の中の大神様として尊ばれ、第十代崇神(すじん)天皇の時代には国造り神、国家の守護神として篤(あつ)く祀まつられました。ー・ー 

何故、私が大神神社に惹かれたかは、今更思い返せば、このご由緒にある三輪山を御神体と崇めた太古の人々のまっさらな魂に感応したからでした。つまり、そのアニミズム的精神に同期したのですね?  そんな中で、今回、最近の本サイト一連のシリーズ記事から特に、眼に焼き付いたキーワードがありました。それが「元伊勢」だったのです。 

その話は本サイト編集長思い入れのある地、対馬の古神道や寺社建築にも詳しい(一社)対馬観光物産協会の西氏によるご寄稿がきっかけでした。  対馬はその位置関係から、古より文化の十字路です。日本側からは九州経由で、中国や朝鮮からは半島経由で多角的な交流がおこなわれ、日本への物資や技術、医術、書や美術品に至るあらゆる事柄において中継点でもあったので、古い源流の形が見られるところでもあります。

籠神社「第二の鳥居」

籠神社「拝殿」

例えば宗教も例外ではなく、その思想やそれに付随する全てのソフトからハードまでの事象が含まれます。前述の「元伊勢」の言葉も、そこを通過した古神道が、天の橋立に根付いた海部族の『籠神社』でした。件の「元伊勢」とは『籠神社』の奥宮「真名井神社」のことだったのです。

奥宮「真名井神社」


それをを受けて、編集長の記事が始まります。
タイトル:「元伊勢『籠神社』は 伊勢神宮のふるさと(その壱)」
https://m.amebaownd.com/#/sites/194457/posts/editor/v2/3402346 
です。

天地山海にいきづく和の源流
日本海を見渡せる「のろせ海岸」からは、沖の島(冠島・沓島)も見えます。

天橋立「飛龍観」

⚫山の辺の道にある「元伊勢」檜原神社

そこで、私は大変なショックを受けることになるのです。長年三輪山に通い続けていながら、迂闊にも「元伊勢」が他にも存在するなど、考えもつきませんでした。唯、記憶にあるのは「元伊勢」とする御由緒の案内板に何故?と疑問を抱えた侭、深く考えもせず、「へぇ〜お伊勢様は昔、此処に鎮座されていたんだ〜」くらいに、軽く受け流していたからです。  しかし、何故か山辺の道巡りで遭遇した、この檜原神社には格別な奥深いざわめきが湧き上がり、同時に不思議な謎を抱いたのは確かです。覚えているのは、そのご由緒書きに檜原神社(日原)とする括弧の中の文字でした。何故ならば、それが私の苗字でもあるからです。しかし、何と畏れ多いことかと、これも、深追いせずそこまででストップ。

檜原神社(ひばらじんじゃ)
祭神 天照大御神(あまてらすおおみかみ)社祭日 8月28日
この地は、崇神天皇の御代、宮中よりはじめて、天照大御神を豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託されてお遷しになり、「磯城神籬(しきひもろぎ)」を立て、お祀りされた「倭笠縫邑(やまとかさぬいのむら)」であります。
大御神のご遷幸の後も、その御蹟を尊崇し、檜原神社として、引き続きお祀りし、「元伊勢(もといせ)」と今に伝えられています。 境内には、昭和61年11月5日、豊鍬入姫命を祀る豊鍬入姫宮(とよすきいりひめのみや)が鎮斎されました。
万葉集等に「三輪の檜原」と数多く詠まれ、山の辺の道の歌枕ともなり、西につづく檜原台地は、大和国中を一望する絶好の地であります。

 

その後、それに就いては、興味が出てきて、調べたところ、檜原神社はまたの名を(日原社)とも呼ばれていたようです。しかし、その関係性迄を言及する資料が見当たらず、答えは未だ掴めておりません。察するところ、この聖域は山の辺の道にあって、奈良盆地を一望出来る特別な台地だそうですから、当然太陽の日の出から日の入り迄の軌跡(天照大神の御姿)が追える最適な場所。すなわち、それは「日の原」と見立てたのでは?という素人の勝手な解釈なのですが、如何でしょうか?  その手掛かりは、三輪山の山頂に祀られる高宮神社(日向神社)にその鍵があるようです。そのご関係者のお話を、抜粋引用させて頂くと、次の如くでした。 

ー・ー高宮社の祭神・日向御子神(日向王子)の“日向”(ヒムカ)とは、“日に向かう”・“日を迎える”・“日を拝する”を意味し、日向御子神とは日神(太陽神)信仰における“日神の御子(王子)”となる。 ・・・(中略)・・・三輪山山頂から拝する冬至の朝日は、山頂から直視できる大和と伊勢の国境・高見山(1249m)の彼方、伊勢の方角から昇ることから、当山頂は冬至の朝日を拝する日向の地であったと解され、三輪祭祀の原点には日神信仰があったと推測される。・・・(中略)・・・記紀伝承が“海を光して依り来る神”というオオモノヌシ=日本大国主には、海から昇る朝日のイメージがあり、日神とみることもできる。日神が伊勢のアマテラス(天つ神)に集約されて皇祖神化し、オオモノヌシ(国つ神)から日神的神格が払拭された後の祭神であろう。ー・ー とありました。こうしてみると、結論的に最初の三輪山の成り立ちは太陽信仰のお山であったことがうかがえます。この最後の部分にあるように、そうでもしなければ、天照大神を奉ずる天孫族として、大国主大神(大物主大神)に国譲りを迫った大義名分が立たなくなるのでしょうね。

⚫倭笠縫邑とは

次に「倭笠縫邑)(やまとかさぬいむら)とはなんの意味を表すのでしょうか?  

―・ー「笠縫邑(かさぬいむら、かさぬいのむら)」とは、崇神天皇6年に、宮中に奉祀していた天照大神を移し、その皇女、豊鍬入姫命に託して祀らせた場所。同時に宮中を出された。他方の倭大国魂神は皇女渟名城入媛命に託して、後に大和神社に祀ったとされる―・ー 

その時、豊鍬入姫命は天皇の証し(八咫鏡と草薙の剣)を持ち、鎮座されるべき御神座所を求めながら、各地における様子を検討されたのでしよう。しかし。当時の人々の寿命は短く、崇神天皇の直系となる代々の皇女に、バトンタッチされながら、その後90年ほど候補地を転々とされ、最後に垂仁天皇26年(657年)の第四皇女、倭姫によって伊勢の五十鈴川の磯城の厳橿之本に神籬(ひもろぎ)を立てられ御鎮まりになられたそうです。これが伊勢神宮の斎宮創祀とされる所以だそうです。
この間、巡られた仮の鎮座地、
比定地については、檜原神社(桜井市三輪)を筆頭に多神社(磯城郡 田原本町多)、笠縫神社(磯城郡田原本町秦荘、秦楽寺境内南東隅)、笠山荒神社(桜井市笠)、多神社摂社の姫皇子神社、志貴御県坐神社(桜井市金屋)、小夫天神社(桜井市小夫)、穴師坐兵主神社(桜井市穴師)、飛鳥坐神社(高市郡明日香村飛鳥)、長谷山口坐神社(桜井市初瀬手力雄)等々 でした―・ー
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%A0%E7%B8%AB%E9%82%91

と、まあ何と沢山でてくること!
「天照大神」の御神霊はその後90年ほど諸処を転々とし、垂仁天皇26年(657年)の第四皇女、倭姫命によって最後に伊勢の五十鈴川の上流にて御鎮まりになられ、これが伊勢神宮の創祀と云われる所以なのだそうてす。

⚫二つのパワースポット 

 この言葉は最近とみに流行していて、それに伴ってランキングでも競争があるようです。本サイトの中で競争あるとすれば、はて?何処でしようか?  勿論それは、丹後一宮の真名井神社の元伊勢であり、もう一つが大和一宮の摂社檜原神社の元伊勢であります。元伊勢同士の一騎討ちみたいですね? 

この「倭笠縫邑」のパワースポットとして人気の高い檜原神社の御神体は実はこの三鳥居の中にはありません。それは丹後の真名井神社と同じく、山中にある磐座であり、三つ鳥居の中には虚空が広がるばかり、不可視の限りなく大きな何かが漂っているだけなのです。
これに対する籠神社の奥の院、真名井神社のエリアも、只ならぬ気配が立ち昇っているらしく評判のパワースポットだとされています。そして何れも「元伊勢」と呼ばれており、我が秘宝こそと名乗りを上げているのですね〜
でも、結果的に伊勢神宮では内宮、外宮に別れますが、何れにも鎮座されているから、二つとも正解だといえましょう。
内宮に祀られた元伊勢は皇大神宮の天照大神の御神坐となり、外宮には籠神社御祭神の豊受大神が御奉斎されました。尤もこちらは後から雄略天皇の代になってからですが…それにしても崇神天皇は国津神系へのご配慮は大変なもの。やはり、歴代天皇の中でもそこまで見通せる特別に傑出した方だったのでしょうか。
どちらのエネルギーも負けず劣らずで、やはり土地のもつ、磁力と歴史の積み重ね、そして人々の尊崇する祈りのパワーや念力と言うものが、積み重なると更に土地の磁力を育てると申しますから、誰もそれを立証することは不可能というものです。それにしても、日本の神様は何と人間的で平和な存在でありましょうか。人間だけですね〜それを利用して損得を争うのは… 

⚫山の辺の道

雨上がり(第1回 三輪山フォトコンテスト大神神社宮司賞)

山の辺の十六夜(第1回 三輪山フォトコンテスト優秀賞)


 ついでに、この辺で山の辺の道が古代から如何に愛されたか、万葉集や古今集を覗いて見ませんか? テーマを山の辺の道に絞ると断然人気の歌は何と言ってもコレです

ふすまじを ひきてのやまに  いもをおきて やまじをいけば いけりともなし 柿本人麻呂

衾道よ、引手の山中に妹をおいて山道を辿ると、生きた心地もない

引手の山中とは、多分むかしの遺体処理は木に吊るす鳥葬だったと聞きますからそうだったのでしようか? 昔は明かりと言えば蝋燭もない時代。松明を持って山中に入ったのでしょうか?愛しい妻を野辺送りして、夕暮れの山の辺の帰り道はどんなにか侘びしく切なかったことでしようね〜。 

特に檜原神社付近を読んだ歌は こちらです⬇

◆いにしへにありけむ人もわが如か三輪の桧原にかざし折りけむ

 柿本人麻呂歌集巻7-1118 柿本人麿

昔の人も、私が今するように、この三輪の桧原で髪挿を折ったことだろうか。

◆ 鳴神の音のみ聞きし巻向の檜原の山を今日見つるかも

柿本人麻呂歌集巻7-1092 柿本人麿 歌碑番号56

なるかみ の音のみ聞きしまきむくのひばらのやまを今日見つるかも 

雷鳴のような評判を耳にしてはいていたけと巻向の檜原の山を今日は初めて見ることが出来たよ

⚫思わぬ暗示 

さて、愈々ここ以降はこの物語のエビローグとなります。  何という因縁でしょうか? その折も折、このシリーズ執筆最中に日本中を震撼とさせた、この度の深川富岡八幡宮における惨劇です。何か、これに合わせて発生したような気分なのです。 

それが、これまでの話とどう言う関係があるの?と思われるでしょうが…この八幡様は私の住民登録がしてあるオンボロマンション門前仲町自宅のお話なのです。


そしてこの深川富岡八幡宮は私の最も身近な土地の鎮守様(自宅から徒歩で8分の距離)であり、広く東京都民にとっても初詣、夏の深川祭りは切り離せない江戸のシンボルなのです。  今にして、世界中から称賛される「クールジャパン」の思想は、この深川富岡八幡宮を中心として生まれたものなのです。その庶民文化の原点となった"江戸の粋"とは、当にこの界隈こそがその発祥地でもありました。

平成24年富岡八幡宮へ行幸啓遊ばされた天皇皇后両陛下が御覧になられたのは、深川の人々の溢れんばかりの笑顔と熱気と元気でした。 


実は驚天動地とも言うべきこの痛ましい事件は。更に私にとっても他人事ではなくなってきたのです。亡くなられた女性宮司様の御母堂T子様は私が山形へ転勤する迄の12年間は親しい友人関係にあり、江東区の卓球連盟に所属するシニアチームでダブルスコンビを組む間柄でした。試合や練習帰りに富岡家にはお邪魔してお茶を頂いたりしていましたから、勿論、その後何度も、門前仲町へ帰る機会には、お屋敷を訪ね、ベルを鳴らしておりますが、いつもお留守で、一度もお目に掛かることができなかったのです。お電話番号も変わったのか?20年くらい会わず仕舞いでした。
しかも、このT子様は実にこのサイトの主題となる「籠神社」のれっきとした正統な血筋を引く海部家のご長女でした。ある時、彼女は私にそっとお家系のことを漏らされたことがありました。それによると私の実家は海部家で、家系図は天皇家よりもずっと古いの。二人の妹の一人は熱田神宮へ嫁ぎ、もう一人は京都の上賀茂神社へ嫁いだのと。
 これについては事実、国の重要文化財に指定されています。

ー・ー籠名神社祝部海部直氏系図. これは昭和五十一年六月に、現存する日本最古の系図として国宝に指定された。ー・ー


今にして私は何と浅はかな女だったことかと後悔するばかりですが、その当時はてっきり、そんなことってあるはずかないわ。多分 おじいちゃんやおばあちゃんから伝え聴いた聞伽話かな〜と思っていたのです。 

 当時のT子様はとても明るく気さくなご性格で、私よりも10歳も歳上だったせいか、姐御肌で私などは甘えっ放しで、大変お世話を頂いたものです。彼女の大らかさや、庶民性からは、今回のような悲劇が起きるなど、毛頭信じられるはずも無く、余りにも非現実的で、今なお強烈なショック状態にあります。

 最後に、誠に勝手ながら画面を借りてお祈りを捧げたく、都民の為の又は日本の庶民文化を代表する江戸の粋の精神を担った深川八幡宮様ご再興を祈念し、黙祷をお願いしたく存じます。

永らくお目にかかっていない、T子様へ、そしてご関係者の方々におかれましては、どれ程の御心痛か、計り知れず、衷心からお悔やみ申し上げます。また、今は不幸にも亡くなられ、冥界に彷徨えるご当人方々様のご霊魂にも、神様からお救いのお浄めがもたらされますように。

合掌
               色紐子


【 寄稿文 】日原もとこ(色紐子)

プロフィール
東北芸術工科大学名誉教授
風土・色彩文化研究所. 主宰
元通産省国立研究所主任研究官
まんだら塾 塾長
アジア文化造形学会会長
JSSD – 日本デザイン学会名誉会員
日本インテリア学会名誉会員


協力(敬称略・順不同)

大神神社 〒633-8538 奈良県桜井市三輪1422 TEL 0744-42-6633 FAX 0744-42-0381

籠神社 〒629-2242 京都府宮津市字大垣430 TEL 0772-27-0006 FAX 0772-27-1582 

三重 明和町役場 〒515-0332 三重県多気郡明和町大字馬之上945 TEL 0596-52-7111 

鎹八咫烏



補足資料

斎王の始まり

斎王の歴史は日本神話の時代まで遡る。語り継がれる伝説の初代斎王は、天照大神の御杖代であった豊鍬入姫命。そのあとを継ぎ、天照大神の鎮座される場所を探し諸国を旅し、伊勢の地にたどり着いた倭姫命。倭姫命は、伊勢の地(現在の明和町大淀)に入り、佐々夫江行宮を造り、カケチカラ行事の発祥となる伝説をつくった。これが斎王と明和町との縁となったのか、斎王制度が確立し、斎王が天照大神に仕えた場所・斎宮は、伊勢神宮からおよそ15キロメートル離れた伊勢神宮領の入口につくられた。


都から斎宮へ

斎王は飛鳥時代に制度が確立して以降、天皇の即位に伴って、未婚の内親王または女王から占いにより選ばれた。選ばれた斎王は、家族と離れ、慣れ親しんだ都での生活とも別れを告げ、200人余りともいわれる従者に伴われて、斎王群行と呼ばれる5泊6日の旅により、斎宮へ向かう。この旅は斎王にとって神に近づく禊祓の旅である。聖なる神領の入り口に流れる川、祓川で斎王は最後の禊を行い、斎宮に入る。

祈る斎王

 斎宮に住まいを移した斎王が伊勢神宮に赴くのは、9月の神嘗祭、6月、12月の月次祭の年3回のみ。9月の神嘗祭に奉仕するため、8月に身を清めたと言われている尾野湊御禊場跡が大淀の海岸に残っている。それ以外の日々は斎宮で厳重な慎みを保ち、祈りの日々を過ごしながら、神と人との架け橋となっていた。

斎王と王朝文学

 神に仕える身であるがために、恋愛を禁じられていた斎王。恋ゆえに斎王を解任されたり、恋人と引き裂かれたりという悲話も多く伝えられている。そんな斎王の悲恋をテーマにした物語が『伊勢物語』である。69段「狩の使」には、在原業平と斎王の一夜の出会いが描かれており、斎王が在原業平との別れを惜しみ、歌を詠み交わしたという故事にあやかって、大淀にある松を業平松と呼んでいる。斎王の儚き恋物語の世界が舞い降りる美風景が今も広がっている。また、『源氏物語』には斎王をモデルとした人物が登場する。光源氏をめぐる葵の上と六条御息所の攻防は『源氏物語』の中でも有名なシーンであるが、この六条御息所は最終的に斎王に選ばれた娘と一緒に伊勢に向かう。つまり斎宮で暮らすことになる。これは、実際に娘に付き添って斎宮に赴いた徽子女王、規子内親王親子がモデルとなっている。他にも「竹河の段」には、今も残る斎宮の地名、「竹川」が登場する。「竹川」にあった花園には、四季の花が植えられ、斎王も楽しまれていたと伝えられている。他にも、『大和物語』『更級日記』『栄華物語』『大鏡』などの作品に斎王・斎宮が登場している。

伊勢物語


斎宮での暮らし

斎王の斎宮での暮らしは、祈りを捧げる慎ましやかな生活の一方で、十二単を纏い、貝合わせや盤すごろくを楽しみ、歌を詠むといった都のような雅やかな生活をしていた。斎王の身の回りの世話、庶務などを50人近くの女官が行っていたことは、斎王の地位の高さをしめしている。また、斎宮寮と呼ばれる役所に勤める官人を中心に総勢500人以上の人々が斎宮で執務をしており、天皇の代理である斎王が暮らす斎宮は、都から訪れる人も多く、近隣の国からもさまざまな物資が集まるなど、この地方の文化の中心地の一つだった。

斎王の解任

斎王制度が続いたおよそ660年の間に、60人以上の斎王が斎宮に赴いた。天皇の崩御や譲位によって新たな天皇に代わる時と、肉親が死ぬなどの不幸があった時、斎王自身の病などにより斎王は交代となった。赴任を終え、無事に都に帰った斎王もいれば、斎宮で亡くなった斎王もいる。彼女らのお墓は「隆子女王の墓」「惇子内親王の墓」として伝承され、今も大切に管理されている。

幻の宮

 さまざまな史実や逸話・伝説を生みながらおよそ660年間続けられてきた斎王制度も、南北朝の時代以降、国内の兵乱のために廃絶してしまう。古の制度は歴史の中に埋もれ、地名として姿を残すも、斎宮は「幻の宮」となってしまった。幻の宮になりながらも、斎宮に住む人々は、先祖代々語り継がれてきた斎王・斎宮の存在を信じ、斎王の御殿があったとされる場所を「斎王の森」、斎宮の人々に親しまれている竹神社を「野々宮」と呼び、神聖な土地として大切に護り後世に伝え残してきた。

蘇る斎宮

そんな幻の宮・斎宮が蘇ったのは昭和の時代に入ってから。発掘調査により、斎宮の存在が確認され、昭和54年に国の史跡「斎宮跡」として指定された。発掘調査によって都のような「方格地割」という碁盤の目状の区画道路を備え、伊勢神宮の社殿にも類する100棟もの建物が整然と並んでいたことが明らかになった。他にも緑釉陶器や蹄脚硯、墨書土器、祭祀用具の出土により、斎宮では都のような雅やかな生活が営まれていたことや、常に清浄を求め、禊を行っていたことが裏付けられた。今も続く、斎宮究明の発掘調査。すべて調査し終えるまであと200年以上かかるとされている。斎宮―そこには、古から現在までたくさんの人々のたくさんの祈りが込められている。ココ「斎宮」は、未来に続く人々の想いが溢れている。

斎宮模型

 斎宮跡の規模は東西およそ2キロメートル、南北およそ700メートル。これを、日本の都であった平城京・平安京や、斎宮が栄えた時代とほぼ同時代の地方都市である大宰府と比べると上図のようになります。平城京や平安京はもちろん日本の『首都』であり『遠の朝廷』と呼ばれた太宰府は、都から遠い九州を統治し、大陸に対する防衛の役目を持つ『小政府』のようなものです。一方、斎宮は伊勢神宮の天照大神に仕える斎王のためだけの都。斎王の在任中のみ構成される斎宮寮には13の司があり、120人以上の役人をはじめ、斎王の世話をする女官、雑用係を会わせて500人を越える人々がいました。これは、当時の諸国を治める国府よりも遙かに大きな規模でした。

斎宮の復元(明和町)文化庁の日本遺産に登録されました。

ZIPANG TOKIO 2020

2020年、東京でオリンピック・パラリンピックが開催されます。 この機会に、世界の人々にあまり知られていない日本の精神文化と国土の美しさについて再発見へのお手伝いができればと思います。 風土、四季折々の自然、衣食住文化の美、伝統芸能、行事、風習、ものづくりの技の美等、 サイトを通じて、平和な国、不思議な国、ZIPANG 日本への関心がより深かまるならば、私が密かに望むところです

もしもこのサイトに同じ思いをお持ちの皆様から、素敵な情報や画像をお寄せ戴ければこの上ない喜びです。以下のEメールアドレスへご連絡下さい。

E-mail aromajinja@gmail.com ( ZIPANG 2020 編集部 )。

2020, will be held the Olympic Games and Paralympic in Tokyo.

On this occasion, for the little-known beauty of the spiritual culture and national land of Japan to the people of the world I think that if we help to re-discover.

Climate, nature of the four seasons, of food, clothing and shelter cultural beauty, traditional arts, events, customs, beauty, etc. of the work of making things,

Through the site, peaceful country, a strange country, if the interest is more depth or round to ZIPANG Japan, is where I want secretly.


写真ご協力:高山祭(高山市)/ 富士山(富士市)

ZIPANG TOKIO 2020

2020年、東京でオリンピック・パラリンピックが開催されます。 この機会に、世界の人々にあまり知られていない日本の精神文化と国土の美しさについて再発見へのお手伝いができればと思います。 風土、四季折々の自然、衣食住文化の美、伝統芸能、行事、風習、ものづくりの技の美等、 サイトを通じて、平和な国、不思議な国、ZIPANG 日本への関心がより深かまるならば、私が密かに望むところです。

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