能生白山神社はかつて越後三十三観音霊場の巡礼の際に、ここに立ち寄ってから巡礼を始めよとされた神社で、「能生町史下巻・354頁」に次のように書かれている。「この白山神を巡礼護法神としたのについては、天正年中(1573~91)に国府(直江津)在中の真言宗僧番玄が、能生の白山神社の小白山権現(本地聖観音)のご神託を受けて、越後三十三補陀落(観音を祀る霊山)を定めた。」という説があり、又、享和二年(1802)刊「本道案内」には巡礼せんと云う人の始めに、小白山権現に参詣し、それより一番の名立(岩屋堂)に始め、最明寺(下田村)に納むべしとある」と書かれている。
能生白山神社 本殿(写真の上下)
能生白山神社 拝殿
「権現岳・鉾ケ岳」権現岳の姿は荘厳にして霊山を思わせ、中腹には白山権現の小社がある
能生白山神社 御祭神「奴奈川姫命」
由緒
古代奴奈川族の首長、奴奈川姫を祀って産土神社としたのが始まりと云われており、かつては権現岳にありました。
社伝によれば第十代崇神天皇十年十一月初午の日に始まったとされ、醍醐天皇の命よって作られ927年に完成した「延喜式」に記載されている奴奈川神社にあたるともいわれている。
白山信仰を開いたと云われる泰澄大師(682-767)が奈良時代に加賀白山などを基地として両部習合を行った際、能生白山神社に仏像を安置し、白山信仰を布教し、社号を白山権現に改められたと伝えられている。
本殿は明応年間(1492-1501)に火災で焼失しましたが、永正12年(1515)能登守護畠山義元寄進により再興されました。
その建築様式は、三間社流造の前面に一間の向拝を付けたもので室町時代の特色を示しており、国の重要文化財にも指定された。
江戸時代、元禄2年(1689)7月11日奥の細道の際に松尾芭蕉が髄行僧曾良とともに能生に宿泊しましたが、この際に能生白山神社の「汐路の鐘」を詠んだ句があり、境内にその句碑が建てられた。
能生白山神社「春季大祭」
能生白山神社「境内案内」
一の鳥居
手洗舎
境内へ上がる石階段
二の鳥居
境内
本殿
蛇の口の水
拝殿
御旅所
境内中央池と秋葉神社
宝物殿(蛇の口の水横)
宝物殿
重文3件(聖観音立像・能生白山神社海上信仰「船絵馬」・無形民族文化財「能生の舞楽」写真)、県指定4件、市指定7件を展示しています。他に能生白山神社歴史年表、文化財年表の展示をしております。能生白山神社の伝統と歴史に是非ふれてください。
※重文3件(聖観音立像・能生白山神社海上信仰「船絵馬」・無形民族文化財「能生の舞楽」写真)は昨日紹介済。
県指定文化財
梵鐘(ぼんしょう) 汐路の鐘(室町時代) 昭和51年3月31日指定
高さ1m7cm、横径68.4cm、約2/3高で上下に割れている。鐘の周囲の銘文によると、この鐘は白山権現の別当・能生山大平寺の鐘で、明応8年(1499)能登国仲居浦(現穴水町)で鋳造され、延宝8年(1680)大雪の為に破損するも、元文5年(1740)柏崎で鋳直された事が知れる。現在の破損状態は明治初年の廃仏毀釈(仏法を廃し、釈尊の教えを棄却)の時になされたと伝えられている。芭蕉が奥の細道行脚の途次能生に宿泊しているが(元禄2年・1689)、この時この鐘の話を聴き、詠んだ句の句碑が能生白山神社境内・社務所の前に建てられている。
「 曙や 霧にうつまく かねの聲 」 芭蕉
銅造 十一面観音立像(平安時代後期) 昭和56年3月27日指定
総高42.5cm、像高35.8cm。地髪じはつ上に阿弥陀化仏けぶつおよび十一面を取り付けた枘穴ほぞあなが残る。頭から両足まで一鋳ちゅうし、台座は別鋳。
火中(火災に合う)のため、背面、下半身などに破損が目立つ。鍍金ときん(金を用いて銅に焼付けめっきする)が所々に残る。破損の目立つ像であるが、洗練された平安後期の様式を示す小銅像で、顔が小さく細身の体躯がすんなりとのびる。
衣文えもんは細い線で簡潔に表され、裾の広がりが像に軽やかな感じを与えている。台座は平安後期のかたちを残し、像とよく調和している。
能生白山神社所蔵の白山信仰関連遺品の中に小金銅仏こんどうぶつ(銅造に鍍金ときんの仏像)が12体あるが、その中でもこの像は、本格的藤原様式を示す仏像として注目される像である。
本像は昭和51年に奈良国立博物館で開催された「平安鎌倉の金銅仏」展に出陳された。
木造 泰澄大師坐像(室町時代) 昭和56年3月27日指定
像高63.9cm。檜ひのき材の寄木造りで、内刳うちぐり、彩色がなされ、後頭部内刳面の墨書により、大永4年(1524)の造立が知れる。
本像は造立時代の肖像彫刻に共通する木寄きよせ法に則のっとって造られているが、玉眼を用いず、やや細かな平ノミ目を残して仕上げているのが注目される。
伝統的形式にならいながら、地方的素朴さがみられる像である。
白山の開創者と伝えられる泰澄の像は、他に、福井県の大谷寺像(重要美術品・明応2年・1493造立)、同県の泰澄寺像などが知られ、絵画にも表されている。
造立年代の明らかな泰澄像の中で、本像は古い時代に属し、貴重な像とされている。
泰澄像の持物・表情は定型化していないが、本像は左手に袈裟けさの端(欠失)、右手に五ご鈷こ杵しょ(法具・金剛こんごう杵しょの両端が五叉に分かれたもので、後補された)を持ち、表情は二重瞼で、眉をわずかに寄せ、面を伏せ気味にし、独特な僧形像である。
舞楽面 五面:昭和56年3月27日指定
陵王二面(室町時代・15世紀)
納曽利二面(鎌倉~室町時代) 附 能抜頭一面
白山神社舞楽11曲のうち、面使用は童羅利・能抜頭・納曽利・陵王の四舞楽であるが、童羅利以外の面が県文化財指定を受けている。これらの指定を受けた面は、昭和末期まで大祭当日使用されたが、平成に入り、新しく製作した新面で舞楽を演じている。陵王:二面共、漆箔仕上げで檜ひのき材製。一面の裏面に「・・日光寺 寛正六(1465)・・大工国重・・」の朱塗銘があり、原所属、製作年、作者名を知ることができる。頭上の龍の両後肢に翼がつき、目の丸さが強調され、地方作と考えられている。他の陵王面も室町時代作であるが、動眼・吊顎の伝統的構造である。陵王面に伴って舞手が頭部に被る「赤熊(しゃぐま)」(赤く染めた動物の毛)が二個残されている。一つの裏には元和4年(1618)寄進の墨書があり(写真48)、他には元文3年(1738)寄進の墨書がある。後者は現在も大祭の時使用している。納曽利:二面は同作と思われる。共に広葉樹材製(樟くす材か)で、胡粉地ごふんちに墨塗り仕上げである。両面共、裏面額部に「日光寺」と朱塗書した痕跡がかすかに認められ、寛正6年銘のある陵王面と同年代の鎌倉~室町時代作と考えられている。能抜頭:樟くす材製で、黒漆地・朱塗彩。口を結び、眉太く、目じりを吊り上げ、鼻の高い面である。通常の抜頭面と形が異なり、江戸時代の民俗面とみられる。
市指定文化財
白山神社神仏像群 四十三軀(平安・鎌倉・室町時代) 昭和47年5月12日指定
指定外文化
釈迦三尊十六善神像図(絹本着色):縦124cm、横58.5cm。
目の粗い絹地に多色で描かれ、又、金が種々の使い方(截金きりかね、盛り上げ、截金箔)で使用され、室町時代末期の作と考えられる。(截金:金などの箔又は薄板を線状などに細かく切り、これを貼付して種々の文様を施す技法。平安~鎌倉時代に盛んに行われた。)台座上に結跏趺(けっかふ)坐する釈迦如来坐像を中心に、釈迦の右下方に獅子に乗る文殊菩薩(知恵の菩薩)、左下方に白象に乗る普賢菩薩(慈悲の菩薩)が描かれ、台座前には玄奘三蔵、朱身の深沙(じんじゃ)大将等が、台座の左右には十六善神が対称に描かれる通常の図である。十六善神は「大般若経」を読誦(どくじゅ:経を読み唱えること)する人を守護する護法神とされる。
秋葉神社
秋葉神社は江戸時代薬師如来を祀り薬師堂と称呼されましたが、明治維新の廃仏毀釈により薬師如来は光明院に遷され、新しく神殿が設けられ、火難の守り神を祀る秋葉神社として信仰されるようになりました。 平成19年7月、中越沖地震により被災しましたが、大勢の崇敬者の人々の御浄財により、平成20年4月、再建が成された。 平成の再建に先立ち、下記にあげる年代の再建記録が残されている。
慶長19年(1614年)・享保12年(1727年)・天保13年(1842年) 又、明治30年には屋根が茅から瓦に葺き替えられた。
秋葉神社の雲竜図
入口土間(間口四間・奥行き一間)の天井板全体に墨で描かれてれている。江戸末期、能生に住んだ旅の絵師「米庵(べいあん)」が画いたとされている。
春季大祭・舞楽関連文化財
舞楽舞台・橋掛り:舞楽は大祭の都度池の上に舞台を組み立て、御旅所(建物の左半分は楽屋)から舞台まで橋を掛け行われる。舞台再建は享保12年(1727)、宝暦5年(1755)、文化11年(1814)に行われ、明治4年に修理が成されている。舞楽が舞台で行われるようになったのはいつ頃からか資料が無く定かでないが、天和3年(1683)に御旅所再建の記録があり、このことから少なくとも江戸時代初期には御旅所から舞台まで橋が掛けられ舞楽が行われていたと考えられる。
舞台・橋掛りは昭和60年国庫補助により修繕され、安永4年(1775)再建の御旅所は平成3年、氏子の寄進により新築された。舞台上部の様式は本殿の建築に類し室町風(柱上部の巻斗まきと・頭貫かしらぬき、中備なかそなえの蟇股かえるまた・懸魚げぎょなど)である。舞台四方の守護神である竜頭が四個ある(享保17年・1732 木製で同一)が、大祭の日に出すと雨を呼ぶという言い伝えがあり、相当以前から使用されていない。
赤熊(しゃぐま)
陵王の舞で使用。
① 元和4年(1618年)
② 元文3年(1738年)
元文3年の赤熊は現在も使用されている。
汐路の鐘碑
汐路の鐘碑:岡本五右衛門憲孝(九代)が文政5年(1822)に建立した。碑の文面の中に次の様に書かれ、「汐路の鐘」(県指定文化財)の名称の由来が分かる。「此鐘(このかね)汐の満(みち)来たらんとて人さはらすして(触らないのに)響(ひび)くこと1里四面(四キロ四方)、さる故に此浦は海士(あま)の児まても自然と汐の満干(みちひ)を知り侍はべりし」汐路の鐘碑の掛軸:碑建立の由来が高田藩士平北共により書かれている。(文政5年・1822)
花本大明神碑
「花本大明神」は、芭蕉150回忌(天保14年・1843)に朝廷から芭蕉に贈られた神号で、「花本」は「花の下」から転じた語。碑は嘉永3年(1850)岡本五右衛門憲孝(俳号・姫山きざん)・憲明父子により南梨平の才蔵山に建立された。揮毫(きごう)は憲孝と親交のあった江戸の俳人・田川鳳朗。平成3年4月、芭蕉・奥の細道行脚300年を記念し、地権者の協力を得、賛同者の浄財で現在地に移された。
加州三度会所石燈籠
寛保3年(1743)の建立。高さ3m46cm。燈籠火袋南面に加賀藩の梅鉢紋、北面には能生白山神社の社紋・左三つ巴紋が入る。奉納者は加州三度会所当所氏子中で、これは加賀藩が金沢と江戸との通信に設けた月三回定期の飛脚の詰所に当たる。いい伝えでは、宝暦元年(1751)の名立崩れの時、加賀の殿様が白山権現のお告げにより助けられたお礼に献納したとされるが、名立崩れが燈籠建立年月より8年遅く時代が合わないようである。
社号額
「白山大権現」:130cm×76cm 文政13年(1830) 額字・御室御所(仁和寺)総法務宮(済仁法親王か)額寄進の詳細不明
「白山大権現」:99cm×65cm 享保15年(1730) 額字・左文山(佐々木文山・江戸中期の書の大家) 岡本五右衛門の寄進
「弁財天」:79cm×52cm享保15年(1730)額字:左文山
「白山神社」:143cm×83cm 明治37年 額字・15代将軍徳川慶喜
狛犬
石造一対:安政4年(1857) 小見村中・地引網連中の寄進
木造二対:一対は鎌倉あるいは室町時代の作。
その他に、 刀剣類・兜・鞍・鐙(あぶみ)や 古文書など沢山の宝物がある。
霊山「権現岳・鉾ケ岳」
権現岳の姿は荘厳にして霊山を思わせ、中腹には白山権現の小社あり。毎年5月下旬には山開きイベントを開催。
権現岳・鉾ケ岳
糸魚川の見どころ《奥の細道》をたずねて
芭蕉ゆかりの地 市振
松尾芭蕉ゆかりの地「市振(いちぶり)」は、越後と越中の国境にあり、その名のとおり越後の第一番の「振りだし」である。
加賀前田候の参勤交代の要路であり、越中から越後親不知の西の入り口の宿駅として大変賑わっていた。
随所に歴史を残す、芭蕉ゆかりの地「市振」を是非歩いてみてください。
親不知、子不知海岸
天下の険として有名な親不知、子不知海岸。親不知駅を中心とする青海駅、市振駅間約15kmの総称で、親不知駅・市振駅の間が親不知、親不知駅・青海駅の間が子不知と呼ばれている。
地名の由来はいくつかあり、
1.北陸道最大の難所で、断崖絶壁と荒波が旅人の行く手を阻み、波打ち際を駆け抜ける際に親は子を忘れ、子は親を顧みる暇がなかったことから親知らず・子知らずと呼ばれるようになった。
2.平清盛の弟、頼盛の夫人が夫の後を慕って親不知を通りかかった折、2才の愛児をふところから取り落とし、波にさらわれてしまった際に悲しみのあまり詠んだ「親知らず 子はこの浦の波まくら 越路の磯の あわと消えゆく」という歌が由来になった。
などという説がある。
親不知記念広場(愛の母子像)
国道の改修を記念して造られた広場で、親不知はここからの眺望が一番だといわれています。愛の母子像が国道を往来する人々の安全を見守り、台座には糸魚川が生んだ文豪 相馬御風の「かくり岩に 寄せてくだくる 沖つ浪の ほのかに白き ほしあかりかも」の歌が刻まれている。
現在はえちごトキめき鉄道、国道8号、北陸自動車道が通り、通行に支障は無くなりましたが、親不知記念広場の展望台から海岸線を眺めれば、当時の苦難が想像できるはず。
親不知コミュニティロード
交通の難所・天下の険と人との闘いの歴史、四世代にわたる道を一望できるコミュニティロード。眼下の波打ち際が、親不知・子不知の由来となった北陸道、続いて当初国道としてできたコミュニティロードは二世代目。三世代目は現在の国道8号、そして四世代目が北陸自動車道です。
天下の険といわれた親不知にも、明治16年、断崖を削った街道が開かれました。その後、いくつかの改良を経て、昭和41年の国道8号天険トンネルの完成により使用されなくなり、遊歩道として使用されるようになりました。
親不知コミュニティロードは、先人たちがその急峻な地形と複雑な地質に挑み、北陸地方の産業、経済の発展に貢献したことを後世へ伝える貴重な土木遺産であるとして、(社)土木学会から推奨土木遺産に認定された。
展望台からは眼下70mの日本海を一望でき、晴れた日には能登半島も眺望できる。さらに絶壁の波除け観音、大懐(おおふところ)、小懐などを再現した模型も設置されており、名勝の絶壁を一目で知ることができ、大変評判が良い。
また、日本近代登山の父として名高い、イギリスのウォルター・ウェストンが明治27年に親不知を訪れており、この機縁からブロンズ像が設置され、毎年5月下旬に「海のウェストン祭 白鳥山山開き」が開催される。
如砥如矢(とのごとく やのごとし)
ウェストン像を過ぎて少し行くと左側上方の壁面に刻まれている「如砥如矢」の文字。砥石のように平らで矢のように真っ直ぐ通れるという意味で、街道開通の喜びを表したものであろう。
平成26年3月、親知不・子知不の一部が国名勝「おくのほそ道の風景地 親しらず」に指定されました。
「芭蕉句碑」
俳人 松尾芭蕉「奥の細道」の中で唯一のロマンチックな句が刻まれている。
「一つ家に 遊女も寝たり 萩と月」
芭蕉句碑は、大正14年4月に糸魚川市出身の文豪相馬御風が市振を訪れた際に建碑計画を聞き、筆をとった。
「芭蕉の宿 桔梗屋跡」
俳人 松尾芭蕉は、元禄2(1689)年7月12日に市振に宿をとり、上記の句を詠みました。
芭蕉が宿泊したと伝えられる桔梗屋は、大正3(1914)年3月17日の市振大火で焼失し、昔を伝える記録等は残されていません。
海道の松(糸魚川市文化財)
北陸街道の宿駅であった「市振の宿」の東入口にそびえる老松で、国道が開設(明治16年)される以前は、東方から来訪する旅人にとっては、「天下の険 親不知」の難所越えの終点地を目指す目標として旅人に親しまれてきました。
「弘法様の井戸」
市振の東端の道路脇に、弘法様の井戸があり、次の伝説が残されています。
あるとき、坊さんがきて水を一杯所望しました。茶屋の婆さんは、十数町離れた赤崎のチベタ(冷水)を汲んでさしあげました。これを哀れんだ坊さんが杖で三度土を突くと、こんこんと水が湧いてきたそうだ。これが弘法様の井戸として、今も大切にされている。
熊本と大分の両県にまたがり、弘法大師の後ろを杖をついて山を登ってきた人々が温泉に入り皆元気になり、その地に杖を立てて帰っていったことからその名のついた「杖立温泉」や、川の中の岩に密教の法具の独鈷杵を立てるとそこから温泉が沸いたとの伝説のある伊豆「修善寺温泉(独鈷の湯)」も、弘法大師「空海」により発見されたと伝わっている。
弘法様の井戸
杖立温泉
修善寺温泉「独鈷の湯」
所在地
芭蕉句碑/長円寺境内 糸魚川市大字市振666番地(国道8号線沿い)
芭蕉の宿 桔梗屋跡/糸魚川市大字市振728番地1
海道の松(糸魚川市文化財)/糸魚川市大字市振449番地
弘法様の井戸/糸魚川市大字市振707番地
問い合わせ先
青海事務所
〒949-0392 新潟県糸魚川市大字青海4648-11
TEL 025-562-2260
FAX 025-562-5174
E-mail omishisyo@city.itoigawa.niigata.jp
最後に、わが師(小生はいまだ破門の身ですが)が、北陸路で詠んだ句をご披露して、しばし越後とお別れいたします。
「雲凍つる 越路の天の はぐれ鳥」
「折からの 時雨濁りや 越の海」 伊東
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」の明和町観光大使
協力(順不同・敬称略)
能生白山神社 〒949-1352 新潟県糸魚川市大字能生7238 ℡025-566-3465
一般社団法人糸魚川市観光協会 〒941-0061新潟県糸魚川市大町1-7-47 TEL 025-555-7344
文化庁 〒100-8959 東京都千代田区霞が関3丁目2番2号 電話番号(代表)03(5253)4111
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