白馬大橋
“日本の道100選”に指定されている絶景ポイント「白馬大橋」は白馬村の北部に流れる松川にかかる橋です。橋上からの眺めには、景色をさえぎるものは無く、清らかな雪解け水の流れる川とその周りに広がる紅葉をバックに壮大な白馬三山がそびえたっています。川の周辺には芝生がひかれた休憩ポイントもあり、天気のよい日には家族でピクニックなどいかがでしょうか?川の流れの音をBGMに爽やかな秋風の中で紅葉を満喫できるお勧めのポイントです。
大自然の奇跡「白馬三段紅葉」 秋の終わりの初雪が降った後、秋晴れの冷えた空気の白馬村で見る事が出来る奇跡の絶景「白馬三段紅葉」 初雪の白、広葉樹の紅葉の赤、針葉樹の緑色の三色が織りなす「白馬三段紅葉」が見られることがあります。 その風景は幻想的で、緑・紅葉・雪を同時に見ていると、まるで日本の四季が同時に訪れたような光景を目にする事が出来ます。 大自然が作りだす美しい秋の奇跡をお楽しみ下さい。 / 見頃:10月中下旬〜11月上旬の初冠雪後
白馬五竜
「白馬五竜」に架かるゴンドラリフトテレキャビン。秋にはまるで紅葉の中を空中散歩しているような感覚を味わえます。また、白馬五竜スキー場山頂より小遠見山山頂へと続くトレッキングコースでは秋風を感じながら、真っ赤に染まった紅葉の中を散策できます。トレッキングルートからは武田菱の雪形で有名な五竜岳が目前に迫り、その勇壮な姿を肌で感じる事が出来るでしょう。小遠見山山頂に広がる360°のパノラマをお楽しみ下さい。
夏が終わり、本格的な冬に向かっていくひとときの間、白馬村の山々はまるで燃え上がるように紅葉一色に包まれます。また、初雪の頃になると山頂に積もる雪の白色、山腹に残る紅葉の赤色、山麓に広がる針葉樹の緑色が重なる「白馬三段紅葉」が見られることもあります。広大な山々に広がる紅葉と、乾いた草木の香りは多くの人々を癒し続けています。 白馬の歴史 (古代~大正) 古代の白馬村 古代、白馬村の地は信濃のうちにあっても、やや特殊な文化環境にありました。今から約6000年ほど昔、縄文時代前期末に、白馬岳に産出する滑石が各地に運ばれて、当時盛行した人々が身体を玉類で装飾する習俗の源となったこと、また白馬岳周辺の蛇紋岩が広く石斧の材料として使用されたこと、また弥生時代以降、村南部の湿地帯を取りまく段丘上に米作りの集落群が起こり、古墳時代に入るとそれらの集落の支配者たちがこぞって墳墓を築いたために、現在においても有数の古墳地帯となっていることなどです。 また、ここは姫川により糸魚川と通じ、白馬山塊に産するヒスイが縄文時代から古墳時代までこの谷から運ばれていきました。後年千国道と呼ばれる街道は遥かな縄文時代にその姿を現し始めていました。 平安~鎌倉時代の白馬村 今でも白馬・小谷地方を「小谷四ケ庄」と呼ぶ人もいますが、今から800年程昔、この辺りは「千国庄」と呼ばれ、六条院領でした。六条院とは、白河上皇が長女都芳門院婿子内親王の御所として建てたもので、内親王の死後はこれを寺として多くの荘園の寄進が行われ、千国庄もその一つとされています。 建久元年(1190)の「新見文書」に「六条院領信乃国千国御庄内、於他里、飯守所」という記録があります。飯守は飯森、所は荘園の政務を司る「政所」で、当時相当の文化があったものと思われます。白馬岳のオオサクラソウの伝説もこの頃の華やかな文化の名残りの一つでしょう。 戦国時代の白馬村 戦国時代初期の頃の四ヶ庄は、前期六条院領でしたが、その実際の支配者は土地の豪族仁科氏の士族であったと言われています。重文の本殿をもつ沢渡神明社については、創立年代は不明ですが、ここには弘安6年(1286)の銘のある懸仏二面(重美指定)が現存しており、この懸仏は大町市社の神明宮に現存する懸仏と同一のものであることから、そのような推測をすることができます。そしておそらく、それは沢渡氏だったでしょう。沢渡氏は永く今の三日市場大屋敷周辺に居住していたようです。すでに応永7年の大塔城合戦に沢渡五郎が大町以北の人として参加した記録があります。 延徳2年(1490)といえば大塔合戦から90年後ですが、仁科氏の士族飯森十郎盛春により長谷院が開かれます。これから天正に至る約100年間は四ヶ庄盆地の本格的な戦国の世となり、現在語り継がれている幾つかの城跡もこの頃に築かれたもので、幾回かの合戦がありました。 封建社会の白馬村 乱れに乱れた戦国の世も終末をつげ、慶長19年(1614)には大ががりな検地が松本藩により行われました。この時、石高が示された本村は、佐野・沢渡・飯田・飯森・堀之内・蕨平・塩島の七村のみで、その後、慶安元年(1648)から承応年間にかけ、細野・大出・野平・峰方・深沢空峠の各村が新田村して独立を認められ、漸次現在の地区形態ができると同時に、六公四民というような重税に農民は苦しみました。寛文8年(1668)の宗門改めをみると、一戸30数人という大家族もみられる社会でした。 人口は年を迫って増加し、開墾が奨励され各部落で新田が開かれ戸数も増えて行きましたが、天候に頼る稲作のため、度々の凶作と重税に農民は苦しみ、餓死する者も多く、新田村と他村との間に山諭が度々起こりました。 元禄年間には現在ある地区のほとんどが本村あるいは支村として姿を整え、各村の間に道路が開け、文政年間になると初市・暮市・盆市などの市が開かれ、庚申講・二十三夜講などが盛んとなっていきます。 明治時代の白馬村 江戸時代、西岳一帯は国境警備や宗教登山または猟師のみの対象でしかなく、明治26年まで省りみる者もありませんでした。山名さえ定かでなかった白馬岳ですが、陸地測量部が一等三角点を撰点、27年にはウエストン氏が登山、31年には河野零蔵氏等の学術研究登山がなされて一躍高山植物の宝庫として全国にその名が知られるようになり、明治34年より登山者は年を追って増加の一途をたどるようになり、40年には山小屋も設けられ、白馬の観光の基礎となりました。 また、高山植物の採集は明治42年にすでに禁止が始まりました。 大正以後の白馬村 それまで主要な交通機関であった馬車あるいは人力車・ランプが、乗合自動車・電燈にかわったのは大正8年、鉄道は昭和7年に森上まで開通しました。産業といえば、水稲、養蚕、麻を中心とする純農村で、一雨ふれば荒れ狂う平川・松川に苦しみながら新田を起こし、人々は昔ながらの細々とした家計をたててきました。 明治後年、日本に伝えられたスキーは、大正時代になると白馬山麓にも普及し、山岳スキー場として学生や山岳家に認められるようになりました。ガイドの村細野(現八方)は昭和21年ごろから民宿営業をし始めました。大平洋戦争後スキーは大衆化してきましたが、スキー場にリフトがかけられたのは昭和27年以後のことで、白馬村が誕生した30年代こそ、現代に至る白馬の革命が行われた時代でした。 ※塩の道とは? 城下町松本と日本海側の糸魚川をむすぶ旧街道、千国街道。この険しい山道を経てさまざまな物資が運ばれてきましたが、なかでも山国信州にとって塩はとりわけ貴重な物資。 そのため別名「塩の道」とも呼ばれています。白馬から小谷にかけての道筋は石仏も多く、昔の面影を色濃く残しています。
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白馬村観光局 〒399-9301長野県北安曇郡白馬村北城7025
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