姨捨の棚田は国の「重要文化的景観」や「日本の棚田百選」にも選定されいる。今も小さな棚田が1500余りも連なり郷愁あふれる風景をつくりだしている。
「更科紀行」の芭蕉も歩いた棚田。今も昔も変わらない心にぐっとくる景色を楽しんでみて下さい。
俤(おもかげ)や姥(うば)ひとり泣く月の友
十六夜(いざよひも)まだ更科の郡(こほり)哉
幻想的な景色が人々を魅了し続ける姨捨の棚田。今昔和歌集に姨捨の景観と月の歌が残っていることは、いかにこの風景が古くから愛されてきたかを物語っています。棚田は国の重要文化的景観に選定、「田毎の月」は国の名勝に指定され、季節や時間で姿を変える風景は日本の原風景を想わせ、素朴な感動を与えてくれます。
長野市街までも見渡せる善光寺平を一望姨捨の澄んだ空気が遠くまで見渡せる理由のひとつ 平安の時代から、月の名所として知られていた姨捨 「田毎の月」は田植えの時しか見られない幻の風景 水を張ったいくつもの田んぼに風景が映り込む、春の奇跡のような姿。 歌にも詠まれた田毎の月 平安時代の頃から姨捨は観月の名所として知られ、万葉集にも詠まれた場所。 江戸時代から明治にかけて開田が大きく進むにつれ、小さな棚田に映りこむ月影が一層注目されるようになった。 斜面に並ぶ不揃いな形の田んぼそれぞれに月が移りゆくことを「田毎の月」と言い表し、嫉捨の田毎の月は松尾芭蕉や小林一茶など多くの俳人が訪れ、歌句の題材にもなっている。 川中島の戦いもあった善光寺平 善光寺平は別名、長野盆地。さまざまな歴史の表舞台となった場所。 この地は鎌倉時代以降、しぱしば合戦の舞台となった。有名なのは、川中島の戦い。5度にわたる武田信玄と上杉謙信の戦いにおける永禄4年(1561)の舞台となった。現在、八幡原史跡公園には、信玄・謙信の一騎打ちの像や首塚などがある。
四十八枚田(しじゅうはちまいだ) 西行法師阿弥陀の四十八願にちなんで名付けたと伝えられている四十八枚田は一反歩(300坪)を48枚に分けた棚田。 姨捨の棚田の中でもかなり早くに開田されたと言われ、「田毎の月」という呼び名はもともと四十八枚田に移りゆく月を指すとされている。 四十八枚田地区は姨捨の名勝指定地区の一つ。
写真の木の露天風呂は、今回ご協力頂きました、「心がふれあう 民芸の宿中央ホテル」さんの夜空を見上げ、花々に囲まれたガーデンテラス付き! かけ流し天然温泉の檜の樽風呂です。 木にはフィトンチッドが含まれ人間の精神をリラックスさせてくれます。 たまたま、私自身が長年木曽の方たちと協力して木の風呂の設計をしながら全国に木風呂を普及させる活動をしておりましたので、つい檜風呂が懐かしく紹介させて頂きました。 ついでに、木曽の檜は、北で分布する木の南限にあたり、南で分布する木の北限になります。だから、木曽の檜は、気候風土の違う日本全国どの土地で使用しても、狂いがな少ないので貴重な木として、江戸時代は徳川幕府の直轄地として尾張徳川家が管理していました。 昔から、木風呂は、関東は「さわら」(今も桶に使用されています。大相撲の呼び出しさんが水をまくときに使用しているものです)、関西は「高野槇」(槇の木の事ですが、高野山周辺でとれたことから高野槇と呼ばれています。勿論木曽五木の一つですから、木曽においても産します)中部は「檜」ですが、中部は木処でもあり、さわら、高野槇、檜いずれも使用していました。ちなみに東北では「ヒバ」(あすなろ、木曽五木できそでは明日桧、北陸・石川県輪島の漆の基材に「あて」という名前で呼ばれ使用されていました。 同樹種でも所違えば名称も変わってきます。同じ日本人でも県民性があるように。 ついでに、桶でも灘の酒造りの桶は、杉の板目が使用されています。柾目じゃなくてなぜ、板目かは考えてみて下さい。簡単にわかると思います。 ちなみに、木の適材適所をのたまわれたのは須佐之男命(スサノオノミコト)だそうです。今回のテーマと少し外れましたので、まあ、このあたりで機会があれば続きをお話したいと存じます。
鎹八咫烏 記
協力 (順不同・敬称略)
千曲市観光協会.
〒389-0821 長野県千曲市上山田温泉2-12-10 TEL.026-275-1326 FAX.026-275-3678
心がふれあう 民芸の宿 中央ホテル
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