《當麻寺》
當麻寺は、古代大和の“西方”に位置し、白鳳・天平様式の大伽藍を有する古刹。金堂の弥勒仏や四天王、梵鐘などの白鳳美術を今に伝えるほか、古代の三重塔が東西一対で残る全国唯一の寺としても知られています。
本尊として祀られる「當麻曼荼羅(たいま・まんだら)」は、奈良時代、藤原家の郎女・中将姫さまが写経の功徳によって目の当たりにした極楽浄土の光景を壮大な規模で表したもので、中将姫さまを常に守護し、導いた守り本尊「導き観音さま」とともに今も多くの人々のよりどころになっています。
《當麻寺の歴史》
1400年という長い歴史の中で、さまざまな変遷を繰り返しながら今に伝えられてきた當麻寺。
もとは聖徳太子さまの弟・麻呂古王が創建した万法蔵院がはじまりで、白鳳時代に河内から當麻の地に移り、奈良時代に当麻曼荼羅が表され、平安時代には密教文化が栄えました。平安末の焼き討ちによる危機を経た中世以降は、中将姫伝説の広まりとともに曼荼羅信仰の寺として再興し、寺の向きも南面から東面に変わり、近世には、真言宗に浄土宗が同居することも受け入れました。いろいろな顔を持ちながら、人々とともに生きてきた當麻寺の歴史を、少しずつ振り返ってみましょう。
推古天皇20年(612)、用明天皇の第3皇子である麻呂古(麻呂子・まろこ)という親王さまが、兄である聖徳太子さまの教えによって「万法蔵院(まんぽうぞういん)」を建立したのがはじまりとされています。いくつか異説がありますが、現在、大阪府太子町に「万法蔵院跡」と伝承される場所があります。万法蔵院のご本尊は弥勒さまとする史料と、救世観音さまとする史料があります。
さて、親王さまはある時、万法蔵院を二上山の東麓に移すようにという夢を見られたそうです。二上山は大和では落陽を象徴する山ですから、山の東側こそ祈りの地として相応しいということだったのでしょう。しかし、壬申の乱の混乱で寺の遷造は遅れ、親王の存命中には実現せず、その夢を実現したのは親王の孫に当たる当麻国見でした。
二上山の東麓は当時、役行者さまの私領でした。役行者さまは大和の修験者ですが、その最初の修行地が當麻だったのです。万法蔵院の遷造に際し、行者さまはその領地を寄進し、天武天皇10年(白鳳9年・681)、金堂にご本尊として弥勒仏さま(写真)がお祀りされ、現在の當麻寺がはじまったのです。
役行者さまの法力によって百済から四天王が飛来し、葛城山から一言主明神が現れ、熊野から権現さまとして竜神が出現しました。その時に行者さまが座った石は「影向石」として金堂の前に、熊野権現の出現した「竜神社」は中之坊に、今も残されています。
こうして金堂と講堂のふたつのお堂を中心にはじまった當麻寺は、奈良時代に入ってから、東塔、西塔、千手堂(現・曼荼羅堂)、中院(現・中之坊)と、徐々に寺容を整えていきました。 その間、当初は大和と河内を結ぶ竹内街道を正面とする南面した寺として建てられていたにもかかわらず、都が飛鳥から藤原京を経て奈良に移ったことにより、地の利を優先して東を正面とする寺に柔軟に変化しています。
そうして最盛期の平安時代には白鳳・天平様式の伽藍堂塔と四十余房もの僧坊をもつ大寺院として発展し、その後幾多の盛衰を繰り返しながらも、江戸期にも三十一房の僧坊、現在も13の僧坊を残す大和の伝統寺院として今に伝わっているのです。
中将姫さまは天平の昔、数々の艱難辛苦に遭いながらも、ほとけの浄土を想い続け、ひたすら読経や写経を続けました。特に「称讃浄土経」は1000巻書写されたといわれており、そのうち1巻が中之坊霊宝館に収蔵されています。
そうして「称讃浄土経」あるいは「観無量寿経」といった経典を読誦・書写しているうちに、中将姫さまは、西の空に沈む夕日の中に金色に輝く阿弥陀さまのお姿をご覧になったのでした。そして、夕空一面に壮麗な極楽浄土の光景が広がったといいます。その輝きに救われた姫は、その光景を人々に伝えたいと念じ続け、その想いによってこの當麻曼荼羅を表されたのです。
壮麗な浄土の輝き
當麻曼荼羅には、縦・横約四メートル四方の大画幅に、阿弥陀(あみだ)、観音(かんのん)、勢至(せいし)ら三十七尊や楼閣、宝池などの極楽のありさまが壮麗に描き出されています。まばゆいばかりの光景です。 中将姫さまは天平の昔、数々の艱難辛苦に遭いながらも、ほとけの浄土を想い続け、ひたすら読経や写経を続けました。特に「称讃浄土経」は1000巻書写されたといわれており、そのうち1巻が中之坊霊宝館に収蔵されています。 そうして「称讃浄土経」あるいは「観無量寿経」といった経典を読誦・書写しているうちに、中将姫さまは二上山の峯の間に、金色に輝く阿弥陀さまのお姿、壮麗な極楽浄土の光景を観たのでした。その輝きに救われた姫は、その光景を人々に伝えたいと念じ続け、その想いによってこの當麻曼荼羅を表されました。 縦・横約四メートル四方の大画幅に、阿弥陀(あみだ)、観音(かんのん)、勢至(せいし)ら三十七尊や楼閣、宝池などの極楽のありさまが壮麗に描き出されています。まばゆいばかりの光景です。 そして下辺には、臨終の際、阿弥陀さまが浄土へ迎えて下さる様子も描かれています。「亡くなってからの極楽往生」です。特に鎌倉時代以降の浄土教の流布によって、このような往生の信仰が高まり、當麻曼荼羅もまた往生信仰の象徴のように仰がれるようになっていきました。 しかし、この曼荼羅の両端に描かれている内容は「亡くなってからの極楽往生」とはちょっと違います。
ほんとうの「念仏」
まず、左辺には、インドの王妃イダイケがお釈迦さまによって極楽浄土を目の当たりにし、それによって救われた話が示されています。つまり、亡くなって極楽浄土へ迎えられたのではなく、この身のままで浄土を観じることによって、生きたままで浄土の喜び、安らぎ、を得ることができ、救われたという話が説かれているのです。 「生きたままで浄土の輝きに救われる」とはどういうことでしょうか。それを実際に体験するために、曼荼羅の右辺には「観無量寿経」に説かれている「浄土を観じる瞑想法」が記されています。心を鎮めて一心に浄土を思い浮かべることにより、生きたまま浄土に遊ぶ心地を体感する瞑想法です。ほとけさまを思い描くことにより、ほとけさまが常に見守って下さるという喜び、ほとけさまを身近に感じる安らぎを得ることができるでしょう。これこそがほんとうの「念仏(ほとけを念じる)」ということです。 ただし、「瞑想」というと「難しい修行」「お坊さんがするもの」と思われるかもしれず、また実際やってみてもなかなか心が安定しにくい方もあり、初心者にはとりつきにくいかもしれません。そういう方には、中将姫さまがそうされたように「写経」によって体験する方法があります。さらに具体的に仏さまのお姿を描く「写仏」も有効な方法の一つです。
「写仏」「写経」
お経を書き写す「写経(しゃきょう)」と、仏さまのお姿を描き写す「写仏(しゃぶつ)」は、最も簡単な仏道修行です。 当山では當麻曼荼羅の「写仏」を楽しんでいただけますが、同じように「写経」もしていただくことができます。天平の昔、中将姫さまは、1000部の写経を成満され、その功徳によって當麻寺へ導かれ、観音さまのお助けにより「當麻曼荼羅」を感得されたのです。
当山の写経会場は「昭和の天井絵」「平成の天井絵」で飾られる「写仏道場」です。文化勲章・前田青邨画伯の『飛鴨』をはじめ、現代画壇では上村淳之画伯、中島千波画伯といった有名一流画家が一人一枚ずつ奉納された絵画およそ150点で飾られています。中には南画の巨匠・直原玉青画伯や片岡鶴太郎氏による墨彩画も奉納されています。
このような貴重な作品を頭上に仰いで「写経」を行える環境は他に類を見ません。
※但し「写仏道場」で行事のある場合は、会場が「太子殿」または「中之坊本堂」などに変更になります。
「瞑想」
呼吸を整えて心の安定を目指す仏教の教理を実践します。(予約制)
お釈迦さまが瞑想により悟りを開いたことにより、仏教では瞑想により心を安定させることを説いています。
当麻曼荼羅にも極楽浄土を想念する方法が描かれておりますし、写仏体験もそうした境地をほんの少し体感する行でもあります。
真言密教では、阿字観、阿息観、月輪観など、さまざまな瞑想法が伝わっており、真言寺院では、こうした瞑想法のうち、初めての方でもやさしく行える初歩のものを体感して頂くことができます。
本堂(曼荼羅堂)国宝
お堂の内陣(ないじん)は天平時代の様式をそのまま残し、そのお堂を取り込む形で永暦年間(平安の末)に外陣(げじん)等が拡張されました。
ご本尊として當麻曼荼羅が巨大な厨子(国宝・天平時代)の中に収められ、源頼朝寄進の須弥壇(国宝・鎌倉時代)上に安置されています。その他、十一面観音立像(弘仁時代)、来迎阿弥陀如来立像(県文)、弘法大師三尊張壁、役行者三尊坐像、中将姫坐像などが拝観できます。
国宝 天平時代-藤原時代
中将姫さまの願いによって織り表された當麻曼荼羅は千手堂に祀られ、次第に多くの人々に知られるようになっていきます。その信仰の広まりとともに、千手堂は解体され拡張され、現在の大きな曼荼羅堂となり、當麻曼荼羅はいつからか當麻寺のご本尊として拝まれるようにまでなっていきました。
平安時代のはじめ。嵯峨天皇さまがある時、お大師さま(弘法大師・空海)に當麻曼荼羅の印義をお尋ねになりました。それを受けて弘仁十四年(824)秋、お大師さまが當麻寺をお訪ねになります。お大師さまは二十一日間曼荼羅堂にお籠もりになり、當麻曼荼羅の前で瞑想されました。この時、お大師さまは中将姫さまの想いを観じとられたのです。
それは「マンダラ(mandala)の教え」でした。
マンダラ(mandala)とは、仏法の境地や世界観を視覚的・象徴的に表したもので、主に、仏画でそれを表した「金剛界曼荼羅」「胎蔵曼荼羅」が"両部の曼荼羅"として知られています。仏教は唯一神や絶対仏を説きません。「真言宗は大日如来が絶対仏」と誤解される方もありますがそうではありません。「金剛界曼荼羅」「胎蔵曼荼羅」では、たくさんの仏菩薩たちが大日如来さまを中心にそれぞれの役割・はたらきをもってお互いに支え合い、補い合っています。これを「相互礼拝」「相互供養」といい、それが完成された調和の世界を「密厳浄土」とお呼びします。そしてその「密厳浄土」をこの世で実現しようというのが「マンダラ(mandala)の教え」なのです。
大師堂
當麻寺本堂の右手奥に大師堂があります。高野山から移された等身大の弘法大師を祀るお堂で、周囲には當麻寺歴代別当・中之坊法印・西南院住職などの供養塔があります。大師堂の右前方に納骨堂があり、本骨(のど仏)を納めることができます。
當麻寺西南院
當麻寺 塔頭 西南院は、當麻真人国見が麻呂子親王によっ
て草創された萬法蔵院を、白鳳12年 百済の僧正恵潅を導師に
迎え當麻寺として還造した時、坤(裏鬼門)の守の寺院として
創建されたのが始まりで、西塔の別当となった。
その後、弘仁14年に弘法大師が同院に留錫して、曼荼羅堂に於
いて「いろは歌」を御想念になった。
この時より同院は、真言宗となり、法灯は守り続けられ、人々
の厚い信仰を集めている。
同院庭園は、江戸初期に造られたものを、中期頃一音法印によって改修された池泉廻遊式庭園で、天平建築の粋たる 西塔を東側に組み入れ、その優姿を池泉に落し、美しい陰影は絵画そのものであり、他では見ることかできない。又、 庭園の一隅にある水琴窟の妙音は、一時を無我の世界へさそう。春は新緑、夏は驟雨、秋は紅葉、冬は雪とその四季折 々の趣をそえ、さつきや石楠花なども妍を競いて心を遊ばせてくれる庭園である。
花の寺
當麻寺 西南院は「関西花の寺第二十一番霊場」です。しゃくなげやぼたんで有名で、4月~5月にはたくさんの観光客で賑わいます。秋には樹齢300年を超えるもみじ3本が、黄・橙・赤とそれぞれに色を染めます。また、「仏塔古寺十八尊第八番霊場」として多くの人々が参拝されます。
花ごよみ
しゃくなげ(4月中旬 ~ 5月中旬)
ぼたん(4月中旬 ~ 5月上旬)
なんじゃもんじゃ(~ 5月上旬)
ハンカチの木(4月下旬 ~ 5月上旬)
花いかだ(4月中旬 ~ 4月下旬)
さつき(5月中旬 ~ 6月上旬)
蓮(7月中旬 ~ 8月上旬)
さるすべり(8月中旬 ~ 9月上旬)
もみじ(11月中旬 ~ 12月中旬)
ろうばい(12月中旬 ~ 1月中旬)
千両(12月中旬 ~ 1月中旬)
水琴窟
江戸の文化の華 文化文政の頃、江戸時代の庭師によって考案されたという 水琴窟は、日本庭園最高の技法の一つといわれ「つくばい」の鉢前に造られた もので「洞水門」とも言われる。 『運命によって諦めを得た〈媚態〉が〈意気地〉の自由に生きるのが <いき> である』 (九鬼周造著 「いきの構造」より)といわれる <いき> は、 美の意識を表すが、水琴窟はの表現そのものである。
日本庭園の基調として次の四つがある
・見えがくれ ・わび さび 渋さ ・省略とゆとり ・余情と余韻
「水琴窟は」このすべてを表現している。 ・その姿はすべて土の中に隠されている。(見えがくれ) ・つくばいの石組や形も派手さは何ひとつなく、待ちわびて聴く小さな音色 造る物のゆとりと遊びの心が表されている。(わび・さび・渋さ) ・この音色は、心で聴く音色である。(省略とゆとり) ・流れ出た水の音よりも、水滴と水滴の間を聴き余韻を楽しむ。(余情と余韻)
水琴窟は音の文化の一つであり、一つの余韻を追って耳は限りない静寂に出会う。それは自然と出会い、そして五
感と出会う。待ちわびる音色は、無への世界へと入り込む。この単純にして微妙なる音色一つを求め、静の中に動を
求めて、己をば無我の境地へと引き入れてくれるものが水琴窟であろう。
ここ當麻の里で、風の囁き語る中に玄妙な音色を楽しみ、現世の音の氾濫を逃れ、音の原点を静寂の中に求めて懐
かしむ。
木々の問に隠顕する塔の姿は、素晴らしく また美しい。その憂姿が池泉に影を落とす庭園を眺めながら心を洗い
清めていただきたく、そして幻の音色を求めてください。
特別開帳 (平成28年11月23日~11月30日) 十一面観音(重文)・聖観音(重文)・千手観音(重文)をはじめ、文亀曼荼羅旧軸木・ 當麻寺扁額 等。なお今回は、奈良国立博物館に寄託中の尼藍婆・毘藍婆(伝 前鬼・後鬼)が50年ぶりに 一時里帰りします。
西南院 三大観音
御本尊十一面観音菩薩(重要文化財・弘仁時代)
一言の観音とも言い、万病消滅・富貴自在の仏である。
頭上に十一の化仏をいただき、顔には厳しさはあるが、端
正で穏やかな目鼻立ちと、均整のとれた体付きは慈悲その
ものを表している。
聖観音菩薩 (重要文化財・弘仁時代)
大きな宝髻をいただき、柔和な眉目と豊頬にして大きな耳
をもち肢体は豊満で、腰をわずかに左にひねって悠然と立
つ。人々を苦しみから救済して、福徳を与える仏である。
千手観音菩薩(重要文化財・藤原時代)
観音の慈悲を千の慈眼と千の慈手によって象徴的に表している。面長で丸昧のある顔と、和らか昧のある姿態はよ
く均整が取られている。四十二臂(手)に真数千本の手は、通常の人間の姿とはかけ離れ、衆生に慈悲の眼をむけ、
救済の手を差し伸べるさまざまな力を表している。
當麻寺奥院
當麻寺塔頭奥院は、浄土宗総本山知恩院の「奥之院」として建立された寺で、最初は往生院と呼ばれていました。知恩院第十二代誓阿普観上人が知恩院の御本尊として安置されていた法然上人像(重文)を後光厳天皇の勅許を得て応安三年(1370)当地に還座して建立した寺で、以来、浄土宗の大和本山として多くの人々の信仰を集め今日まで護持継承されて来た名刹です。 本堂(重文)、大方丈(重文)、楼門(重文)、阿弥陀堂、庫裡等、今に残る伽藍に往古の宗教活動の偉大さがうかがわれます。
當麻寺の本尊。観経浄土変相図のことで、天平宝字七年、中将姫が感得し蓮糸を染めて織り上げたという貴い物語が伝えられています。図相は西方極楽浄土の壮麗さを表わしたもので、浄土三部経の一つに観無量寿経に説かれた韋提希夫人の物語に阿弥陀十六想観と九品往生の姿を周縁三方に区画して展開し、中央にその時感得した極楽浄土の有様を現わしたもので、多くの人々に浄土信仰への道を開きました。
私達を極楽浄土に迎えて下さる二十五菩薩の来迎の姿。
聖観世音菩薩像 平安時代
地蔵菩薩像 平安時代
阿弥陀三尊像 室町時代
弥勒来迎像 室町時代
中将姫坐像 江戸時代
国宝 印度の高僧善無畏三蔵が唐僧恵果阿闍梨に伝え、阿闍梨はまた入唐求法の弘法大師に、更に大師弘仁十四年當麻寺参籠の砌り伝授したと伝える実に三国伝来の経箱です。蓋の中央に倶利伽羅龍、両脇に制多迦(せいたか)、矜伽羅(こんがら)のニ童子を研出蒔絵に表わされています。倶利伽羅不動尊影としては我が国最古のもので不動信仰史上貴重なものです。
茶室から紅葉をくぐる
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
協力(順不同・敬称略)
當麻寺中之坊 〒639-0276 奈良県葛城市當麻1263 中之坊 TEL :0745-48-2001(9:00-17:00) MAIL : nakanobo@taimadera.org
當麻寺 西南院
〒639-0276 奈良県葛城市當麻1263番地
TEL : 0745-48-2202
當麻寺奥院
〒639-0276 奈良県葛城市當麻1263
TEL:0745-48-2008
MAIL : okunoin2@taimadera.or.jp
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