伝統的建造物群保存地区の制度とは
伝統的建造物群保存地区の制度(以下、伝建 制度)は、市町村の主体性を尊重し、都市計画 と連携しながら、歴史的な集落や町並みの保存 と整備を行うものです。 この制度は、昭和50年に文化財保護法を改 正して創設されました。戦後の国土開発や、高 度経済成長に伴う無秩序な都市開発の中で、民 家などの伝統的な建物が急速に姿を消し、歴史 的な市街地や農村景観が失われていきました。 昭和40年代に入るとこの状況に対する危機感 が募り、みんなが懐かしいと思う風景を大事に しながらまちづくりを進めようとする市民運動 が各地で起こりました。また、これに応えて、市町村が独自に条例等を制定し、地域の歴史的 な風致を保護する取り組みが生じるようになり ました。 「保存」を通して地区の生活や生業に新たな 息吹を呼び込もう。こうした住民の意欲と地元 自治体の取り組みを、国が後押しするために設 けられたのが、伝建制度です。 今日までに、この制度により、多様な集落・ 町並みの保存が進められています。個性的な歴 史的景観を活かして活気を取り戻した地区がい くつもあります。 地域の豊かな未来に向けて、この制度を上手 に活用してください。
名古屋市有松伝統的建造物群保存地区 のご案内
名古屋市は愛知県西部に位置し,保存地区は,名古屋市の南東部,尾張丘陵を横断する 東海道沿いにある。地区の北側には,藍染川( あいぞめがわ )の通称で呼ばれる手越川 (て ご し が わ) が流れる。
保存地区は,慶長13年(1608)の尾張藩による移住奨励によって桶狭間村 (おけはざまむら )に開か れ、まもなく有松村 (ありまつむら )として独立した集落を起源とする。
最初の移住者が考案したとされる 絞り染めが,「有松 絞 (ありまつしぼり) 」の名で東海道の往来者向けの土産物として知れ渡るにつれ,藩の 庇護の下,江戸時代を通じて絞り染めが産業として大きく発展し,町並みも拡大した。
創業の初期には,絞り染めの製造販売の全工程を絞商が行っていたようであるが,染め や括りの技法の発展や,需要の増大に伴い,18世紀の中頃からは分業が成立し,絞商の 豪壮な屋敷構えと,諸職の町家が混在して建ち並ぶ特徴ある町並みが形成された。
近代に 入って藩の庇護を失い,街道の往来も減少すると,店頭商いを原則としていた有松絞は一 旦衰退するが,卸業への転換を図って販路を拡大するなどして再興し,明治後期から昭和 初期にかけて最も繁栄した。
保存地区は,東海道に沿った約800メートルの範囲である。町並みを特徴づけるのは, 敷地間口が大きい絞商の屋敷構えで,街道に面して主屋や土蔵を並べ,さらには門や塀を 建てる。そのため,町家が並ぶ所々に,塀越しに庭木や隠居屋等を見越す景観が混じる。
絞商の主屋は,東側(江戸側)に通り土間を設け,西側(京都側)に部屋を三列に並べる 間取りを持つ。職人の町家は二列型を基本とし,一列型のものも見られる。
名古屋市有松伝統的建造物群保存地区は,慶長13年の移住奨励による集落の成立から 現在まで,絞り染めを産業として継続し,東海道の旧の幅を残しながら,意匠に優れた大 規模な主屋や土蔵を有する絞商の豪壮な屋敷構えと諸職の町家が混在して建ち並ぶ,特色 ある歴史的風致を良く伝え,我が国にとって価値が高い。
大都市における街道沿いの町並みとしては初、東海道沿いの町並みとしては関宿(三重
県亀山市)に次ぐ選定となります。
名古屋市有松伝統的建造物群保存地区
所在地 名古屋市緑区有松の一部 面 積 約7.3ヘクタール
有松絞りの歴史
絞りの町有松は、江戸時代の初め、徳川家康が江戸に幕府を開いてまもない慶長13年(1608年)に、絞り開祖竹田庄九郎らによって 誕生しました。
有松絞りの歴史は、尾張藩が有松絞りを藩の特産品として保護し、竹田庄九郎を御用商人に取り立てたことからはじまりました。
旅人が故郷へのお土産にと、きそって絞りの手拭、浴衣など を買い求め、これが街道一の名産品となり、その繁栄ぶりは、北斎や広重の浮世絵にえががれたましたが、鳴海の宿は有松を描いたもので、「名産有松絞り」と記してあります。
昔の繁栄と、日本建築の美しさを今に伝える町並みは、200年を経過した貴重な文化財です。その景観は、名古屋市の町並み保存指定第一号として、また全国町並み保存連盟の発祥地としても知られています。
The history of Arimatsu, a town known as the center of shibori or tie-dyeing, dates back to 1608, when Takeda Shokuro and other pioneers of shibori started the business. That was several years after Shogun Tokugawa Ieyasu took the reins of government in Edo.
The 400-year-success of Arimatsu Shibori began when the lord of Owari decided to protect the industry as the region’s special product and gave credit to Takeda Shokuro.
Then tourists began to buy tie-dyed products, such as tie-dyeing hand towels and bathrobes, as souveniors to their home town, and eventually these products began to be known as one of themost famous items of the area.Thethriving business of the town in those days was often depicted in various ukiyoe prints by Katsushika Hokusai and Ando Hiroshige. The prints introduced the site as Narumi, a bigger town next to Arimatsu, but actually that was Arimatsu and the products were labeled as “Arimatsu Shibori”.
The city-scape, which still keeps traditional beauty of Japanese architecture and old-time prosperity is now valued as the cultural heritage. Thewhole area was nominated by Nagoya Municipal Office as the first“Town-Street-To- Be-Preserved”. And it became to be known as the birth place of the nation-wide Organization of Historical Town Preservation.
絞の始まり
有松町史によれば「慶長十五年(1610)名古屋城築城の頃、築城に参集してきた諸藩の人々の内に九州豊後(大分県)の者が珍しい手ぬ ぐいを持参していることに気をとめた竹田庄九郎がその製法のヒントを得たと言い伝えられているらしい。 当時東海道は、京と江戸を結ぶ幹線道として、ようやくその重要性が認識され、 尾州藩の基礎も次第に固まりつつあった。移住してきた人達はまだ第一陣八名、 第二陣七名、合計でも十五家族と少なく、周囲の耕地も乏しく、農業で生計を立てる までには到らなかったものと考えられる。新設されつつあった東海道の築造工事人夫として働き、街道筋の軒先で「ワラジ」などわずかな品を売り、屋敷廻りで取れる少しの作物を口にするありさまであったと推測される。この窮状をみかねた幕府は、移住させる時の条件であった譜役免除のほか、記録には見られないが、たぶん米麦の実物支給も相当の期間実施したのではなかろうか。 第一陣が来村してから十数年が経ち、何とか飢えることなく、十五家族の生活に見通 しが立った慶長二五年(1620)過ぎ頃、第三陣を呼び寄せることにしたのではなかろうか。この頃には大阪夏の陣が徳川の勝利で終わり(1620)、世情も安定に向かい出した頃と事情が一致する。第三陣はこの安定を見た上で寛永二年(1625)、阿久比から呼び寄せたものと推測出来る。この時、先住の一五名は尾張藩に対し、一層の優遇策として譜役務ご免と米麦の尚しばらくの支給延長と、家屋の建築用材の支給を願い出て許可されたものと考えられる。移住させてから十五年以上が過ぎ、実直に精を出す村民をまのあたりにした尾州藩は、それまでの労にむくい、何よりも家康公の初志である生母の住んだ阿久比の人々に恩義を返したい、との願を新村有松に注いだものと考えられる。神君家康公の遺志をここに返す為との特例を表看板にする新村優遇策に異を唱える者などあろう筈もなく、この優遇策は維新まで機能し続けたもののようである。 更に第三次移住までに第一陣の人々の内、「竹田庄九郎」の努力の積み重ねによって、「括り染め」の試作改良も進み、軒先での販売も除々に増大してきたので移住に踏み切ったものと推測される。生産と販売の見通 しを立て、藩に庇護を願い、万全 の対策を建ててから呼び寄せる手だては見事というほかはない。(この周到な配慮に竹田庄九郎の手腕・人柄が偲ばれる。) 生産に用いる木綿布は、当時は知多郡一円や伊勢国、藤堂藩(現松坂市)方面 から、 染料の藍は阿波国(現徳島県)から仕入れたが、わずかな仕入れでも現金を必要とした筈で、その支払い保証も尾州藩が肩入れしてくれたものかも知れない。 阿久比から移住してきた第三陣が腰を落ち着けた寛永十年(1633)頃から、有松絞りが全村挙げて取り組み始められたと考えられる。
東海道に町人が数多く通りはじめたのは寛永十五年(1638)頃からで、伊勢参りが全国的に流行のきざしを見せ始めるが、この少し前頃から参勤交代の制度が確立したようである。諸国の大名が、江戸詰めを終え、帰国する時に有松に立ち寄り、国元への土産として絞の反物や手ぬ ぐいを買い求めたのが有松を有名にした始めという。
この頃はすぐ西に鳴海宿があったため、広く全国で、有松絞りに代わり「鳴海絞り」といわれたらしい。また、店先で品定めをし、数量 を伝え、宿の鳴海へ届けるような注文も多かったと伝えられている。(鳴海宿に有松絞りの取次所があった模様である。) 絞り染めとは、他の染色法のように糊や蝋などを用いて防染するのではなく、布を糸で括って染料につけ、防染するものです。つまり、生地にシワやヒダを寄せ、その部分を糸で絞って染液につけ、取り出してシワやヒダを伸ばすと、その部分だけが染まらずに模様となって残る染色方法です。
絣錦・太子間道(かすりにしき・たいしかんどう)
【飛鳥時代~奈良時代 7世紀~8世紀 12×6cm】
飛鳥・奈良時代(7・8世紀)より千数百年の長きにわたり伝世してきたわが国の染織遺品は「上代裂」と言われています。
「上代裂」には近世まで法隆寺に伝わっていた裂と、今なお厳重に収蔵されている正倉院裂とがあり、その技法は錦・綾・羅・刺繍・染など多種多様にわたり、いずれもその質の高さと量の多さにおいて、他に類を見ません。
薩摩間道(さつまかんどう)
【18世紀 12×6cm インド製】
茶道に親しむ人が愛用し、名物茶入れを入れる仕覆や書画の表装にこれらの裂を用いたため「名物裂」の名が生まれたと言われています。
花卉鳥文綴織(かきちょうもんつづれおり)
【10世紀 10×26cm エジプト製】
「コプト裂」とは、エジプト地方砂漠から出土する染織遺品のことで、古代エジプトのキリスト教徒によって製織されたものです。特に3~6世紀ごろのコプト裂は現存する遺品や資料も多く、世界の染織の一つの原点となっています。
鳳凰蓮唐草文繍(ほうおうはすからくさもんぬい)
【16世紀(明) 25×18cm】中国裂 古代から中国には広大な土地を支配した国家が次々に盛衰を繰り返し、活発な東西文化の交流を行いました。染織においても異国情緒豊かな意匠やすぐれた技法の発展が見られました。これら中国の織物は日本の染織品に極めて大きな影響を与えたと考えられています。
薔薇繋文錦(ばらつなぎもんにしき)
【18世紀 36×35cm フランス(リヨン)製】
ペルシャ独特の綴織や刺繍をはじめ、インダス河口に近いイスラム文化圏に属するシンド地方で製作されたインド裂、フランス・リヨンで黄金期を迎えたロココ様式を中心としたヨーロッパ裂
鳥襷文(とりだすきもん)
【江戸時代後期 19世紀 11×16cm】
有職裂は公卿の公事儀式官制服飾調度などの例を定めた有職故実に従った装束の裂地であり、上代の染織品の影響を受け平安時代に完成されたもので、ここに掲載した裂は江戸時代に製織されたものです。
柳葉春草模様縫箔(りゅうようはるくさもようぬいはく)
【江戸時代後期 19世紀 143×124cm】
日本古来の伝統芸能である「能」を華麗に彩る能装束は、室町時代に端を発し武家式楽として将軍家や諸大名に庇護され、桃山・江戸時代に完成した日本独自の様式美をもった染織品です。
桜撫子霞文繍箔(さくらなでしこかすみもんぬいはく)
【江戸初期 17世紀 34×21cm】
平安時代以降、日常の衣裳として着用された小袖は、桃山・江戸時代に完成されました。日本独自の様式美を持つもので現代の着物の原形を成したものです。
絞り技法の種類
三浦絞り
三浦玄忠という医者の奥さんが、その技法を有松に伝えたところからその名称があります。常に糸を引き締めながら、一粒一粒を一度ずつ巻いて絞ってゆきます。染め上がった模様が鳥や貝の剥き身のような形のため、ひよこ絞り、鳥の子絞り、むきみ絞りとも別称されます。三浦絞りの技法の中には、下絵がない「平三浦絞り・石垣三浦絞り・やたら三浦絞り」、下絵がある「疋田三浦絞り」があります。
鹿の子絞り
染め上がった模様が鹿の斑点に似ているところからついた名称です。有松では専用の針が付いた"鹿の子台"と呼ばれる簡単な台を用いて絞ります。鹿の子絞りは我が国の絞りの中でも、最も高尚で、かつ繊細、豪華。きもの美を語るにふさわしい絞りです。
桶絞り
色を大きく染め分ける絞り技法のひとつ。直径40cm桶の中に染めない部分の生地を詰め込み、染め分けにする部分を桶の外に出して蓋を堅く締め、桶のまま染槽につけて染めます。かなり高度な技術を必要とします。
最後に竹田庄九郎翁作品を紹介いたします。
古代より続いてきた絞り染め。絞りの産地は数あれど、有松鳴海ほどバラエティ豊かに絞り染めを育んできた土地は他にありません。技を磨き、知恵をこらして生み出してきた数々の絞り模様。
鎹八咫烏 記
協力(順不同・敬称略)
文化庁 文化財部参事官(建造物担当)
〒 100-8959 東京都千代田区霞ヶ関 3 -2-2
TEL. 03-5253-4111(代表)FAX. 03-6734-3823
(株)竹田嘉兵衛商店 顧問
コンソーシアム有松鳴海絞理事長 中村俶子 氏
〒458-0924愛知県名古屋市緑区有松1802番地 TEL:052-623-2511(代)
有松・鳴海絞会館(有松絞商工協同組合)
〒458-0924 愛知県名古屋市緑区有松3008番地
TEL : 052-621-0111 / FAX : 052-621-6051
浮世絵師 歌川広重
日原もとこ(紅山子)
東北芸術工科大学名誉教授 風土・色彩文化研究所 主宰
日本デザイン学会および日本インテリア学会名誉会員
伝承文化支援研究センター副センター長
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