犬山祭の歴史
犬山祭は、犬山城の麓に鎮座する針綱神社の祭礼である。
祭りの起源は、1635年まで遡る。
当初は、下本町が馬の塔を、魚屋町が茶摘みの練り物を出していたが、1641年には早くも下本町が車山(犬山では「車山」と書いて「やま」と呼んでいる)に変えて人形からくりを奉納するようになり、江戸中期までには今の犬山祭の原型がほぼできあがっていたものと思われる。
犬山城築城後、町家中心の城下町であったが、江戸期、成瀬氏入城後は町家を取り囲むように武家屋敷が形成され、現在の町となった。
城主と町衆の関係は良好で、各町内の町代は自治組織の長として領主より若干の扶持を拝領し、祭礼時には帯刀も許された。
各町内は、祭礼の費用を税の名目で徴収した。町衆組織が祭を運営してきた歴史が、現在も町衆の心意気として受け継がれている。
全部で13両の車山とと3つの練り物があり、それぞれが町内単位で管理・運営されている。
犬山祭車山「からくり」の数々
犬山祭の花形「どんでん」
一般的に「どんでん」というと「どんでん返し」など最後の最後に劇的な逆転、野球でいえば九回裏ツーアウト で3点差で負けている局面をサヨナラ満塁ホームランで逆転するとか、大相撲でいうと俵に足がかかり後がない状況で「うっちゃり」を掛け同体で土俵の外に落ちたように見えるけれども、鼻の差で相手の体が早く落ち(先日の横綱白鵬関の様に、体がない場合は除き)大逆転勝ちをするような時に使われるが、それでは、一体犬山祭の「どんでん」とは、どのようなことなのか?
今日は犬山祭の花形といわれている"どんでん"の所以について、犬山祭保存会の方にご説明いただきます。
「犬山祭の花形といえば"どんでん"。
からくりの奉納を終え、町衆がその団結と力と粋を見せる 最大の見せ場です。
あの数分の間に一体何が行われているか "どんでん"は簡潔にいってしまえば車山(やま)を担いで 方向転換することですが、 一つの町内の全員の気持ちが一つにならないと できないすごいことなのです… 綱割がせわしなく動き回ります… 後見、当番、警固、てこがそれぞれの配置につきます。 全員が一変し、引き締まった真剣な表情…。 綱割が車山を周り、全員の気の緩みがないかを凝視します…。 気の緩みは事故の元です。 お囃子の若い衆と小太鼓が曲を変え皆を奮い立たせます。 合図とともに一気に車山に潜り込むてこ達…。 檄が飛び交い全員に緊張感が走ります…。
相撲の立会いのごとく… 全員の意気があった一瞬を逃すことなく 綱割が声を張り上げる! その刹那… 気合一声と共に、てこは太腿に力を込め一気に膝を伸ばし立ち切ろうと、 舵棒にその持てる力の全てをぶつけます。 と同時に後方のてこらは、前方とは逆に 車山(やま)を地面にねじふせようと胸筋に力を込めます… そのまま抑え込んだ状態で車山(やま)を反転させた後 グイグイと前へと押し込み出します…。 ゆらりと車山(やま)が左右にブレる…。 進む道は決して平坦ではありません。 道路脇に向かってかまぼこのように湾曲していたり、 わだちなどの微妙な段差に流されます。 ほんの少しのことで車山(やま)は左右に揺られ流れて行く…。 また、道のほんの数ミリの小さな段差や、 放置されたゴミなどにてこの足が取られることもあります。 この時、担ぎ上げているてこ達は、 車山がどう回転し、 どちらの方向にどれだけ進んでいるか全くわかりません。 そのため後方と両車輪では、 前方のてこ達の状況や、車山(やま)のほんの微妙なブレを感じながら 舵を取りつつ、押し込む速度を調節します。 まさに阿吽の呼吸と信頼関係の技です。 てこ達のまっすぐ立ち切った腰が徐々に揺れ出し、 苦悶に顔が歪みだす… その異変を逃さず周りの人が折れそうな腰と心を支えます… 一人一人の疲れが徐々に肩にのしかかる… それをみんなでひたすら声を出し合い、支え合います。 綱割は皆を鼓舞し続けながら叫び続けます。 もっと遠くへ… 若い衆の笛を吹く勢いも強くなり顔は真っ赤に… 子供達はさらに声を張り上げます… 綱割はすべての人の気を把握しながら、 その歩みを止める決断をします。 その決断は、 この人がここで止まれと言うのならここが最高の到達点、 と誰もが思える信頼関係がないと出来得ないものです。 そのどんでんがどうであったにしろ、 どんでん後の皆の表情が、 一年のうちのたった数分間しかない どんでんの素晴らしさを物語っています。 "からくり"からのこの一連の"どんでん" そして町衆、観客それら すべての人々の喜怒哀楽が奉納されているもと 私は思っています。 "どんでん"は力技だけではなしえないという魅力を 少しでもお伝えできていましたら幸いです。 」
実際に、犬山祭の輪に入り、携わられた方でないと語れない。誠に真に迫るご説明ありがとうございました。
さて、 今年の"どんでん"はどんな物語があるのでしょうか…。
全国の皆さん、世界文化遺産に登録された「犬山祭」と「国宝・犬山城」ぜひご自身の眼でご覧ください。
犬山市の風土
犬山市は、愛知県の最北端、名古屋市から北へ約 25km の距離の、濃尾平野の北東部 及び愛岐丘陵の北西端に位置し、北は木曽川を隔てて岐阜県各務原市、坂祝町と接する。 また、東は岐阜県可児市、多治見市、南は愛知県小牧市、春日井市、さらに、西は扶桑 町、大口町と接する。 市東部に位置する城東地区の東半分と池野地区は標高 130~200mの丘陵地帯(愛 岐丘陵)となっており、城東地区の西半分と楽田地区・羽黒地区・犬山地区は標高 30 ~50mの扇状地及び河岸段丘上の台地で平坦地となっている。また、丘陵地帯と平坦地 の中間部は里山となっている。 気候は、温暖な太平洋気候区に属し、最近の年平均気温は約 15℃、年間降雨量は約 1,600mm となっている。 犬山は、古くは稲置(いなぎ)荘と称され、尾張と美濃・飛騨との文化・生活の交流 が行われていた地域であり、江戸時代には、木曽街道の楽田追分から犬山城までをつな ぐ稲置街道と呼ばれる新道が完成し、犬山と名古屋が直結されたことにより人々の往来 で賑わった。集落は主に平坦地である市西部を中心に形成されてきた。 市北西部に位置する犬山地区には犬山城下町が位置し、木曽川を北にのぞむ犬山城を 北端として南へ広がる台地の上に展開している。
国宝・犬山城と木曽川
国宝・犬山城
国宝・犬山城天守閣から北方の木曽川の眺め、右手奥に城下町
木曽川を挟み対岸の各務ヶ原方面からの国宝・犬山城。かっては、木曽で伐採された木曽檜、椹(さわら)などを筏に組み桑名に、桑名から船で江戸に運ばれた。ここまで来ると川幅もあり川の流れも穏やかであるが、途中は、岩石もあり急流である。かっての筏師の腕の見せ所である。
木曽川うかいと犬山城。辺りが暗くなりさざ波が立つと、高野槇の木舟が揺れ漁火がいっそう情緒を醸し出す。
国宝・犬山城の天守の構造と仕組みについてご案内
地下一・二階
天守の出入り口があり、天守を支える石垣や太い梁をみることができます。
二階の武者走
鎹八咫烏 記
協力(順不同)
犬山祭保存会 【犬山市文化史料館】
住所:愛知県犬山市犬山北古券8 TEL:0568-62-4802 / FAX:0568-62-4802
犬山祭写真撮影
都築 真(公益社団法人 日本広告写真家協会正会員)
国宝犬山城 愛知県犬山市犬山北古券65-2 TEL.0568-61-1711
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