油日神社表参道 桜が境内を華やかにします。
油日神社 この鳥居をくぐれば楼門です。
油日神社 拝殿 〔国指定重要文化財 〕
天正年間上棟
油日神社全景
楼門 永禄9年 棟梁 甲良五左衛門尉 回廊は楼門と同時代の建立 〔国指定重要文化財 〕
国の史跡ともなる境内には、南北に本殿・拝殿・楼門 が一直線に並び、楼門の左右から廻かい廊ろうが延びています。廻廊が取り付く中世の神社建築は、滋賀県内でも当社以外にありません。いずれも規模が大きく意匠に優れ質も高いもので、中世の神社景観を今に伝える貴重な文化財です。
「甲賀の総社」油日神社
由来
油日神社は、南鈴鹿の霊峰油日岳の麓に鎮座し、明治時代までは「油日大明神」と称しました。
『 日本三代実録( にほんさんだいじつろく) 』によれば、平安時代の 元慶( がんぎょう)元年(877)に「油日神」が従五位下を授かっており、これ以前から存在することがわかる古社です。古くは油日岳を神体山としたとされ、山頂には今も岳神社がまつられます。
山頂に祭られている岳神社「岳大明神」
甲賀武士の崇敬
中世になると、一帯に成長した武士の崇敬を集めました。現在の本殿造営のための奉加を記した、 明応( めいおう) 4年(1495)の「油日御造営御奉加之人数」には、杣谷を中心に190にのぼる武士や寺庵から多くの寄進がみえています。
戦国時代、上甲賀を中心とした武士は、地域の支配・運営のため同名中や郡中惣を構成しますが、油日神社はその拠り所となり、「甲賀の総社」と呼ばれ、信仰圏は広く郡域に及んだとされます。油日祭りのうち5年に一度行われる 頭殿 (とうどう) 行事(奴振)はその歴史を伝えるもので、境内は「甲賀郡中惣遺跡群」の一つとして国の史跡に指定されています。
豊かな文化財と伝承
長い歴史をもつ油日神社は、社殿をはじめとした多くの文化財と、豊かな伝承に彩られます。なかでも室町時代の「油日大明神縁起」に語られる 聖徳太子( しょうとくたいし)の活躍は特色あるもので、社宝の「聖徳太子絵伝」や、太子の 本地( ほんじ)とされた 如意輪 (にょいりん)観音を表した懸仏の存在は、当時は軍神として崇められた太子への甲賀武士の信仰を伝えるものです。
社宝の「聖徳太子絵伝」
油日神社の祭神
ご祭神 油日大神
東相殿 罔象女神 摂社岳神社祭神
西相殿 猿田彦神 摂社白鬚神社祭神
ご 神 徳
油日大神のみ名は記紀にも見えず、又油日の名も国内に見当らない。たゞこの地に於いてのみ千数百年の昔から、油日大神とのみ申しあげて篤い信仰がさゝげられて来たのである。油日大神はアブラのヒの大神さまであって、万有始動の根元神として諸事繁栄発展の大本を司られる大神さまである。従って古来より諸願成就の神として衆庶の尊信あつく、又油の祖神として業界の崇敬があつめられている。
猿田彦命は道案内(サキダチヒコ)の神として方除授福のご神徳高く、又罔象女命は水神として衆庶の生業に大御恵を光被まします。
ご 創 立
南鈴鹿の層巒が南に尽きるあたり、神の御山の姿もおごそかに油日岳が聳えている。春朝翠霞の中に映ずる油日岳、旭光輝き亘る秋空にうき出る油日岳、四六時中仰ぎ見るこの御山のみ姿が人の心の糧となったことは今も昔も変りはない。油日大神は太古この油日岳を神体山として鎮まり給うたが、世を経て今のこの本社の地に移り鎮りましたのである。今も毎年九月十三日夜本社にて秋のまつりが行われるが、その前々日十一日の夜には信心の人たちによって岳の頂上にて一夜を参籠し夜を徹してご神火を焚き上げる千年来の古い姿が残されている。
その後今を去る千百参拾有余年の昔、陽成天皇の御宇元慶元年(八七七)十二月三日油日神に神階を授けられたことが国史三代実録に見え、所謂国史見在の古社である。
油日神社 本殿
明応2年( 1493 年)上棟
棟梁 藤原宗弘(甲良氏)〔国指定重要 文化 財〕
高野槙(コウヤマキ)〔市指定天然記念物〕 本殿の背後には豊かな社叢林が広がり、なかでも樹齢750年を超える高野槙(コウヤマキ)は神木としてひときわ目を引きます。
朝野の崇敬と甲賀の総社
元慶以降御代々々神階は累進して弘和の頃正一位に昇り給い、明応の棟札を始め古書古器皆正一位油日大神と見えている。この神階奉授のこと、或は朝臣参向のこと共朝廷の御崇敬の厚かったのを窮い得る。中世に入ると、或は明応の本殿再建、永禄の楼門建立となり、或は天正年間永代神領百石の寄進、元和奉献の鐘楼など甲賀武士及地頭領主等の数々の尊信の跡を残している。然もこゝに特筆すべきは、郡下官民が当社を以て「江洲に無隠大社」と仰ぎ「甲賀の総社」としてその御神徳を敬いまつったことである。即ち明応年間本殿造営の御奉加は実に近郷一円に亘り、油日谷、大原谷、佐治谷、岩室郷に於いて 頭殿 とうどうをはじめ多くの所役をつとめて当社大祭を奉仕し来たことは千年来の事実である。岩室の鎮守瀧樹神社、小佐治の明神佐治神社、石部の古社吉御子吉姫神社等の間に現に存している幾多の縁由、杣、横田、野洲、遠くは大戸の地域に及ぶ郡下全円その史実古伝に於いて或は神輿を頒ち、之を祭り、祭日を特定し、或は分霊と伝え、親子の縁を称し、その崇敬の跡を豊富に存している。
野洲川(天安河)の上流祝詞ケ原の聖地からは、常に油日大神と天照大神が遙祭されていた。かくして現に崇敬者は郡下四万余戸に及んでいる。この深い広い崇敬は即ち社頭の隆盛となり、維新前はその神領に於ても野山除地村内にて五百四十余町歩、近郷にて千百三十余町歩の山手米を有し、境内亦十一町三反七畝歩を算した。現に楼門内社前の壮厳な結構は六町歩の神奈備と相俟って他にその例なく、よく「甲賀の総社」としての真面目を呈している。(出典:滋賀県教育委員会)
梵 鐘〔市指定有形文化財〕
栗太郡辻村鋳物師の作品です。刻銘により江戸時代初期の元和6年(1620)に山岡図書の頭景以らが寄進したものです。
美し松
5月1日 油日まつり
春の例大祭。円融天皇の天元元年(978)橘朝臣敏保卿が勅命を奉じて参向したのを、甲賀の五姓、上野、高野、相模、佐治、岩室の五氏が年々交替して代参したのに始まると伝えられています。これを 頭殿 とうどう参向といい、明治以前までは連年行われていましたが、明治初年より氏子関係にて 上野頭 うえのどう のみによって行われることとなり、5年に一度となりました。
油日まつりには四十数基の神輿が乗馬と共に延々長蛇の列をなし野洲の下流石部の川原にお旅したと伝えられていますが、今は毎年二基の神輿にて往復十㎞のお旅が行われています。五年に一度のまつりには、昭和33年県の無形民俗文化財に選択されている「 奴振 やっこふり」が行われ、郷土色豊かな長持奴の歌のしらべ、毛槍奴挟箱奴の優雅な踊り姿など、往時の盛大さが偲ばれます。又このまつりには列結野お旅所にて蚊帳を張る珍らしい蚊帳まつりがあり、信者がその中に入って神酒み鏡餅をいたゞき厄除の恵を受けます。
油日神社 西の鳥居
奴振(滋賀県無形民俗文化財)
油日神社に伝わる奴振は、5月1日の油日神社祭礼に5年に一度奉納されています。(滋賀県無形民俗文化財)室町から戦国にかけて、油日神社は甲賀の総社として甲賀武士の結束の中心でした。「奴振」は、その社参行列が起源と思われます。978年平安中期の記録が残っています。油日神社の「頭殿祭」には「奴振」が行われていますが、毎回選ばれる「頭殿」は祭りの主役であり「奴」はこの「頭殿」のお供であって、江戸中期に行列に加えられたと言われている。奴は「長持奴」3名と「挟箱奴」4名「毛槍奴」2名「押え」2名で構成されています。
岳ごもり
岳ごもりと大宮ごもりは、共に秋祭りの一環で、登山参拝者は宮司、岳宮守、崇敬者若干名のおおよそ15名である。
午後2時車にて神社を出発。楓の古場の奥、火とぼしの旧跡近くで下車。これより1時間ほどかけて登山。 小休の後、宮司と岳宮守は白衣、装束に着替え、夕暮れまでに祭典を終える。
まず、お祓いの祓詞を奏上、神饌品、火きり具(旧来の火を熾す道具)、岳宮守以下参列者、続いて氏子地域及び崇敬されている伊賀方面に向かって祓う。続いて火きり具を用い神火を熾す。これは山上でもありその日の天候や湿気に左右され、かつ少々コツがあってなかなか難しい。毎年初めての総代さんは感心されている。次に祝詞奏上、玉串奉奠にて神事は終わる。
神火はランタンに移し、終夜消えないように灯油を補充し管理に務める。その後は一段低い山小屋にて直会。終わって仮眠に入る。時節柄、暖を要するので小屋の前でも穴を掘り、朝まで焚火をする。日の出とともに神火を奉持して下山。大宮ごもりの元火とする。ただし、登山参籠ができない場合は火とぼしあるいは本社前岳遙拝所にて斎行する。
山頂より氏子地域を祓い清め、祈り全員下山
大宮ごもり
夕刻よりの大宮ごもりは県内でも珍しい祭りである。油日の神の御神徳に因み火の恵みに感謝する祭りであり、また新穀の収穫を控え、強風大雨も無く立派な稲穂に育ちますようにと乞願う心と、氏子崇敬者の安全を祈願する祭りである。 氏子青年会会員は数日前より連夜の準備、当日朝からは奉納された約300灯の、祈願詞と奉納者名墨書きの万灯提灯掛け等を奉仕。夕方5時頃より各区の総代、当番の方が定まった座の用意に入る。 時同じくして御神火点火祭斎行。並行して自区内奉納者の名札の所に直径10㎝くらいの土器を並べ、油を注ぎトーシミ(灯芯)を2本ずつ浸す。 土器は4段に組まれていて、氏子崇敬者合わせ拝殿周囲に千枚程となる。数多い灯火は自然体で神々しく感謝の心を表すのに相応しい奥深さが感じられる。風の影響で消火また油の追加等、当番さんは忙しい。 大宮ごもりの名の如く、昔は翌朝までの籠りであったが、時代とともに14日午前0時解斎としている。芸人さんも見え抽選会の催し等があり境内は深夜まで参拝者で賑わう。
燃え上がる油の火の神様をお祀りしているのが油日神社。 山頂で神火を焚き、翌日には境内に持ち帰り、大宮ごもりの種火にします。 1000枚ほどのお皿に火を灯し、24時まで火が消えぬようお守りします。楼門手前には露店も出て、境内は24時まで賑わいます。
灯明には氏子全員の氏名が入り氏子はその火を絶やさぬよう守ります。
境内には屋台が出て県内外の人々で賑わう
楼門の 蟇股 (かえるまた)「生きた鳩の彫刻」のお話
今から460年ほど前、油日神社の 楼門 (ろうもん)が湖東地方甲良村の名工として知られた宮大工によって建てられました。その楼門が立派にできあがり、おひろめのためにお参りする人たちで賑わうその時でした。何か音がするぞという声と共に誰彼となく楼門の方に視線が集まる先に、一羽の鳩が門の屋上高く舞い上がり、西にある大杉を超えて飛んでいきました。
「あれ何事や。」「なぜ鳩が出てきたんや。」などの声があがりました。そのうち、集まった人たちは、楼門の北に面した「 蟇股 かえるまた 」の中にあるはずの鳩の彫刻が無くなっている事に気づきました。するとさっきの鳩は、本物の鳩になって飛んで行ったのではないかと大勢で鳩の行方を捜しました。しばらくして、「見つけたぞと!」と叫ぶ声がしました。鎮守の森の西側にある豆畑の中で一羽の鳩が豆をついばんでいたのです。何人かが足音を忍ばせて近づいてみると、その鳩は新しい木の香りがする彫刻でした。それを見た人たちは、いくら名工の作とはいえ、なんという不思議なことやと黙ってしまいました。そして、ようやく鳩が動かなくなったので、元の蟇股に収めました。ところが、それから毎日食べられました。これはきっとあの蟇股の鳩の仕業に違いないという噂がたちました。やがて、誰がしたことなのか、蟇股の鳩の片方の羽がもぎ取られてしまいました。
その後、豆畑は荒らされずにすんだそうです。
( 出典:甲賀地域研究会 甲賀湖南のむかしばなしより )
※宮大工 棟梁大工 甲良五良左衛門尉
※大杉 境内釣鐘の近くに切り株が残っています
※蟇股 かえるまた
甲賀歴史民俗資料館(油日神社に隣接)
甲賀歴史民俗資料館 概要
甲賀町には23件の国指定有形文化財があり、県内4番目を誇っています。
文化財の他にも資料は多く存在し、これらを保存・展示しているのが歴史民俗資料館です。館内には往昔に稲講会で使用された福太夫の面、ずずい子、古文書や生活用具、忍者の里らしい甲冑類など数多く並び、歴史愛好家でなくとも関心を引きます。
※ご見学ご希望の方は必ず事前にご連絡願います。
白洲正子の著書『かくれ里』に登場する福太夫の面
白洲正子の著書『かくれ里』に登場するずずい子
甲賀歴史民俗資料館(油日神社に隣接) ※ご見学ご希望の方は必ず事前にご連絡願います。
場 所:甲賀市甲賀町油日(油日神社内) 入館料:大人:200円、学生:150円、小人:100円
交通アクセス
■お車ご利用で:
新名神 甲賀土山ICから約20分
新名神 甲南ICから約20分
名阪 上柘植ICから約15分
■電車ご利用で:
JR草津線 油日駅下車徒歩30分
🅿️駐車場: 普通車10台、大型車8台
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
協力(順不同・敬称略)
油日神社
〒520-3413 滋賀県甲賀市甲賀町油日1042
文化庁 〒100-8959 東京都千代田区霞が関3丁目2番2号 電話番号(代表)03(5253)4111
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