伊賀忍者特殊軍団 阿修羅
伊賀とは
伊賀は、伊賀流で知られる忍者の里です。
忍術はこの地で発展し、伊賀忍者は日本全国で活躍しました。
街の中央には上野城の敷地を使った上野公園があり、伊賀流忍者博物館、上野城、だんじり会館など、主要な観光スポットが集まっています。
上野公園から歩いて巡れる範囲にも、観光スポットが点在しています。
伊賀の中心市街地は、17世紀初めに整備された城下町で、昔は侍が住んでいました。
現在も100年以上前に作られた、歴史的な建築や昔ながらの街並みが残っています。
伊賀上野城 築城の名手、藤堂高虎によって造られた伊賀上野城。 その石垣は日本1、2の高さ(約30m)を誇ります。 現在の天守閣は、1935年に川崎克によって復興されたものですが、木造の建物内はまさに戦国時代の雰囲気そのまま。 三層からなる城内には、武具や甲冑など、藤堂家ゆかりの品々が展示されています。 最上階の天井には、横山大観などの色紙46点が飾られおり、そこから城下町一円を見下ろす眺めも格別です。
現在伊賀上野城のある場所には、もともと平楽寺という大寺院がありました。織田信長の天正伊賀の乱の際には、伊賀勢の拠点の一つになりましたが、伊賀勢の敗北とともに焼け落ち、その後、豊臣秀吉の家臣、筒井定次が城を建てました。さらにその後、徳川家康が大阪城に対抗するため、築城の名手、藤堂高虎が改修していましたが、大嵐により倒壊してしまいます。しかし大阪の陣で家康が勝利したので、天守が再建されることはありませんでした。
伊賀上野城
築城の名手、藤堂高虎が築いた伊賀上野城。
日本1、2の高さを誇る石垣と、木造の天守閣(再建)が見どころです。
城下町を散策 歴史的な町並みや、武家屋敷などが残る 伊賀上野の城下町
伊賀流忍者博物館には伊賀流忍者屋敷、忍術体験館、忍術伝承館、忍術ショーも行われている。
伊賀忍者博物館は当時の建物が使われている。
伊賀忍者博物館玄関には本物そっくりの忍者の人形がお出迎え。
広い縁側に何か仕掛けがありそうです。現地で確かめてください。
伊賀忍者屋敷での実演。畳に仕掛けがありそう。いたるところに仕掛けがある。
伊賀忍者屋敷隠し戸、扉が回転して瞬時に隠れたり逃げたりできる
屋根伝いに逃走
伊賀忍者屋敷お客も参加でき、忍者体験
伊賀流忍者博物館 収蔵品は忍者が使っていた武器や道具のほかに貴重な、民俗資料 、 館所蔵古文書資料 、 館所蔵忍者文献資料
専門書 、 小説 、 漫画 、 絵本童話 、写真集 、洋書 、映像音声 、 藤田文庫(寄託)資料 、沖森文庫(寄託)資料 を数多く展示しています
気候風土
伊賀は周囲を山々に囲まれた盆地です。
盆地特有の気候で、夏はとても暑く、冬はとても寒くなります(雪はほとんど降りません)。
昼夜の気温差が大きいのも特徴で、この気温差が優れた牛肉や米、日本酒ができる要因です。
人口と面積
伊賀市の面積は558.23km2で、人口は約91,000人です。 お隣の名張市(人口約78,000人)とあわせて、古くから「伊賀国(いがのくに)」と呼ばれてきました。
忍者とは
忍術とは
忍術を定義づけるのは大変困難なのですが、狭義では「忍び」本来の意味である、戦場において敵軍に潜行する情報収集をはじめ、変装術や心理学を含む密偵術と、広義では江戸時代の忍術伝書に記されるような密偵術を含む剣術や火術、呪術、薬学、天文学など、総合的なものの2つに大別できます。
伊賀忍者の歴史
忍術を使う人を忍者と呼びますが、忍術の起源には多くの説があり、他の武術のように始祖 などもはっきりしておりません。一説には、聖徳太子に仕えた大伴細入という人物が、その働きから最初の忍者であるともいわれていますが、史料が少ないために伝説の域を脱せないのが現状で、伊賀の場合は、鎌倉時代に荘園の中で発生した「悪党」に起源を求めるのが現実的です。
伊賀は奈良時代以降、東大寺や興福寺などの多くの荘園がありました。悪党とは、もともと土着している地主のような人の中で、寺院や貴族の領地である荘園に対して反抗的な行動をとった人達のことです。彼らは荘園領主に対して奇襲や撹乱などの戦法を駆使しました。悪党の中には、修験道と関わりをもった者もおり、そこで山伏の戦法を学び、先達として各地を巡る際に情報収集を行ったことも考えられます。有名な百地氏も、もともとは悪党であった大江氏の一派といわれており、実際に大江氏の一族が大峰山で修行したという記録が残っています。加えて伊賀周辺には、霊山や笠置山、赤目四十八滝など修験に関わる地が多く、役行者信仰も盛んでした。
伊賀忍者の修行地の一つ名張の赤目四十八滝
室町時代に入り、荘園を経営する寺社勢力が衰微するにつれて、悪党の活動は徐々に消失していきますが、今度はその血を引いた「地侍」が頭角をあらわします。戦国時代、彼らは古記録に「伊賀衆」として登場し、周辺各地の戦国大名に従軍して、傭兵として京都や奈良、滋賀、和歌山へ出陣していたことがわかっており、その戦術は夜襲や密かに忍び入り火を放つことが中心であると記されています。この頃より、伊賀衆は「忍び」と呼ばれるようになります。
江戸時代、藤堂藩の治世になると、忍びと呼ばれた人々の子孫は「伊賀者」として、参勤交代の際の藩主の護衛役や国内の情報収集にあたったり、または「無足人」という農兵として帯刀を許され、各村の自治を任されたりしました。これらのことから、伊賀の忍者は誇り高き武士であったと言えるでしょう。
このように伊賀流忍術の根本は、修験山伏の使った術が悪党や地侍へと引き継がれたもので、それが時代と共に変化し、江戸時代になって伝書にあるような広義の忍術としてまとめられたと考えられます。俗に忍術の百科事典といわれる『萬川集海』を著した藤林氏も地侍の家系でしたが、江戸時代になり、伊賀者として採用されてからは上野城下町に住まいを移しました。他に、商人などに職を変えた忍びの末裔も、城下町には存在したとみられています。先人の知恵の結晶である忍術伝書は、現在も伊賀の旧家では大切にしているところもあり、苦難に満ちた時代を生き抜いた忍びの心を今の私達にも伝えています。
主要参考文献
久保文武『伊賀国無足人の研究』
新井孝重『中世悪党の研究』
黒井宏光『忍術教本』
『伊賀市史』第4巻 資料編 古代・中世 ほか
伊賀惣国一揆
荘園制時代の伊賀は、国司や国主(守護職)が長く続きませんでした。伊賀の国人は、荘園ごとに同族単位で生活圏を設け、所領の農民を組織して一党をなし、中央政権の支配に服従しなかったので、守護職は50とも60ともいわれる伊賀の国中の一党の中から有力な12人の評定衆(代議員)を選び、協議により伊賀の治安を維持していました。これを伊賀惣国一揆と言います。
天正伊賀の乱
天正6年(1578)伊勢の国司北畠信雄(織田信長の二男 織田信雄が北畠の養子になり家督を継承)は丸山城を基点に伊賀攻略を企てますが、伊賀衆の攻撃にあって撤退します。天正7年(1579)仕切りなおして北畠信雄が伊賀に攻め込みますが、伊賀衆の抵抗にあって敗退します。(第一次天正伊賀の乱)これを聞いた織田信長は激怒し、自ら出馬を決意し、天正9年(1581)5万の大軍を率いて伊賀に進軍、伊賀全土を焼き払い大人子どもに関わらず殺戮を繰り返しました。伊賀衆は最後まで抵抗を続けましたが、和議が成立し、降伏しました。伊賀地域が歴史上唯一壊滅的な打撃を受けた乱で、800年の歴史を持つ伊賀地域の荘園制度が終焉し、忍者は諸国に離散しました。(第二次天正伊賀の乱)
忍術伝書
現存する忍術伝書の中で、『萬川集海』『正忍記』『忍秘伝』を三大忍書と言います。
多くの伝書は江戸時代に書かれていますが、それ以前は口伝でした。伝承・備忘のために活字化されたと推測されます。「口伝あり」の文字が目立つ伝書ですが、口伝で伝えられる事の方が重要だったのかもしれません。
『萬川集海』 藤林保武著
伊賀、甲賀流忍術を集大成したもので、伊賀と甲賀の双方に数種の写本が伝えられます
『正忍記』 藤林正武著
紀州流の伝書
『忍秘伝』 服部半蔵著
伊賀、甲賀の伝書
忍者の呼び方
今は「忍者(NINJA)」の呼び方で統一されていますが、昔は忍者と呼ばなかったのをご存じですか?時代によっても、地域によっても違う呼び方がたくさんありました。
その一部を紹介しましょう。
時代別
飛鳥時代—志能便(しのび)
奈良時代—伺見(うかみ)
戦国時代—間者(かんじゃ)・乱破(らっぱ)
江戸時代—隠密(おんみつ)
大正時代—忍術者・忍者(にんしゃ)
地域別
京都・奈良—水破(すっぱ)・伺見(うかみ)・奪口(だっこう)
山梨—透破(すっぱ)・透波(すっぱ)・三ツの者・出抜(すっぱ)
新潟・富山—軒猿・間士・聞者役(ききものやく)
宮城—黒はばき
青森—早道の者・陰術(しのび)
神奈川—草・物見・乱破(らっぱ)
福井—隠忍術(しのび)
他にも地域によって様々な呼び名がありますが、代表的なものを紹介しました。
当て字ですが「しのび(忍)」に関係するもの、仕事に関係する呼び方(聞者役など)、見たままの呼び方(早道の者など)色々あります。
忍者関連施設・史跡
伊賀一宮 敢国神社
敢国神社の獅子舞 伊賀各地で行われている獅子神楽の原型とされる
三重県無形文化財指定の獅子神楽
伊賀忍者の故郷
伊賀には珍しいお祭りが沢山あります、その中からいくつか紹介いたします。
正月堂 修正会
火と水の荒行・達陀(だったん)行法など、
奈良朝時代の古蜜教の行法を伝える県下唯一の古儀式
遠い昔から伊賀路に春を呼ぶ行事として親しまれてきた正月堂の修正会。
例年2月11日(建国記念日)と12日に執り行われるこの祭りは、古来から、厄除け大餅式と呼ばれています。
正月堂は天平勝宝4年の創始以来、1250年余を迎えています。また奈良東大寺とはその広大な杣地や荘園に関して、古くから交流関係を持っています。
うの宮神社秋祭り
100段以上の石段を神輿を担いで登ります。
陽夫多神社 祇園祭
五穀豊穣を祈願する願之山(がんのやま)踊りと
30人程で曳き回す曳山「願之山」
柘植の斎王群行
平安時代。京から伊勢に向かう斎王の群行を再現
古代装束をイメージした手づくりの衣装で練り歩きます
山の神 鉤引き神事
各集落で「山の神」に祈りと感謝をささげ、
山の神を里へ迎える神事。
ごく質素な、区民だけの昔ながらの姿で残る祭りです。
木と木の間に30mのしめ縄を渡し、持ち寄ったかぎ状の枝で引っ張って切り、1年間の繁栄や無病無災を祈ります。
まだまだ、沢山ありますが、写真の掲載に限界が来たようです。次の機会に!
交通アクセス
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
協力(順不同)
一般社団法人 伊賀上野観光協会
〒518-0873 三重県伊賀市上野丸之内122−4
電話: 0595-26-7788
伊賀流忍者博物館
〒518-0854 三重県伊賀市上野丸之内117 電話:0595(23)0311
文化庁
〒100-8959 東京都千代田区霞が関3丁目2番2号 電話番号 03(5253)4111
経済産業省 〒100-8901 東京都千代田区霞が関1-3-1 代表電話 03-3501-1511
追加情報
現在、伊賀上野では「伊賀上野NINJAフェスタ2017」を開催中!
2017年5月7日(日)まで開催。
会場は伊賀市街地と上野公園。
詳しいお問い合わせは
一般社団法人 伊賀上野観光協会 電話: 0595-26-7788
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