伊賀一宮 敢國(あえくに)神社
敢國神社の御祭神
主 神
大彦命(おおひこのみこと)
配 神
少彦名命(すくなひこなのみこと)
配 神
金山比咩命(かなやまひめのみこと)
敢國神社の御由緒
古来伊賀の国の一宮として、当国の人々の総鎮守大氏神として、仰ぎまつってその霊徳に浴してまいりました。
創建年代は658年ですが、貞観の頃には神階五位を授けられ延喜の制には大社に列せられました。また延長年間には朝廷より社殿が修造せしめられ、南北朝時代には後村上天皇が行幸ましまして、数日間参籠あらせられ、社領の御加増もありました。徳川時代には藩主藤堂家の崇敬厚く、社殿調度の修営・神器社領の寄進・祭儀神事の復興などが行われました。明治4年5月国幣中社に列せられ今日に至っております。
敢國神社の略史 敢國神社は今から1300年以上前に創建されました。くわしくは、7世紀の中期658年に創建と敢國神社には伝わっています。創建当時は大彦命(おおひこみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)の二神で敢國神社が創建されました。 創建以前のお話になりますが、当社の主神である大彦命は、350年頃第8代孝元天皇の長子として大和の国に生まれ、大和朝廷創建期の武人と云われています。
又、その子建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)と共に北陸・東海を征討する役目を負われ「四道将軍」のお一人として第10代崇神(すじん)天皇の詔により日本の東目の攻略を果たされた後、大彦命率いる一族は伊賀の国にお住みになり、その子孫は伊賀の国中広がっていきました。伊賀の国の阿拝(あえ)郡(現在の阿山郡は阿拝郡と山田郡が合併してできたもの)を中心に居住した為、阿拝氏を名乗るようになり、後に敢・阿閉・阿部・安倍と呼ばれるようになりました。「あえ」とは、「あべ」の原音であり、あべ姓の総祖神でもあると共に伊賀にお住まいの方の祖神でもあります。
又、古代伊賀地方には外来民族である秦(はた)族が伊賀地方に住んでおり彼らが信仰する神が当社の配神(はいしん)である少彦名命でありました。当時は現在の南宮山山頂付近にお祀りしていましたが、神社創建時には南宮山より現在地に遷してお祀りしています。このことから伊賀にお住みの方々はこの二神の混血の民族であると言っても過言ではないでしょう。
創建後、南宮山の社殿が山の下に遷された跡地に新しい神社の創建に当たっては当時の伊賀の有力な人達の頭を悩ましたことであろうと思われます。結局、美濃の国(現在の岐阜県)南宮大社の御祭神である金山比咩命(かなやまひめのみこと)を旧少彦名命の跡地に勧請しました。おそらくその頃南宮山(なんぐうさん)という名がついたのではないかと推測されます。
その南宮山の金山比咩命が、敢國神社の本殿に合祀されたのは創建時より319年後の977年のことと記載されています。
ある日突然金山比咩命の社殿が激しい音をたててゆれ、止むと同時に社殿前の御神木の幹に、虫食いの跡が文字となって現れ「興阿倍久爾神同殿」と言う8文字の漢字でした。神官の報告を受けた当時の伊香守高則は、早々主家の藤原兼家に報告、直ちに御神慮に従って金山比咩命の遷座合祀が執り行われました。こうして当神社は三神をもって敢國神社・敢國津大神(あえくにつおおかみ)となって現在に至っております。
少彦名命を信仰する外来民族秦族は、色々な技術文化を日本に伝えています。たとえば伊賀の組紐伊賀焼・酒造等があります。又、芸能にもみられ、鎌倉時代に盛んになった能楽の祖と言われる観阿称は、伊賀の出身地であります。能楽が武士階級の娯楽に発展し、又、同じ頃に獅子神楽が庶民階級に発達していきました。当神社に伝わる獅子神楽(三重県無形文化財指定)もこの時期にできたものであろうと言われています。現在伊賀地方の各町で「町おこし」として執り行われている獅子神楽の原型とも言われ、伊勢下神楽に多大な影響を及ぼしたとも言われています。
- 能楽 - 日本が世界に誇る“ユネスコ無形文化遺産” 国立能楽堂
獅子神楽の原型 敢國神社に伝わる獅子神楽(三重県無形文化財指定)
組み紐
伊賀地方で昔から続く伝統的な産業として、組み紐づくりがあります。
伊賀の組み紐は、「伊賀くみひも」として、国の伝統工芸品に指定されています。
組み紐は、細い絹糸(綿のものもあります)を編んで作った紐のことです。
昔は、刀剣の飾りや、武具(鎧兜)の複雑なパーツを繋ぐ、飾り紐として使われてきました。
現代では「帯締め」といって、着物の帯の上を結ぶ紐に使われています。
様々な色彩を組み合わせたカラフルなものや、日本の伝統を感じさせる色使いなど、お土産にも最適です。
伊賀焼
伊賀焼は元々、約1200年前(天平年間729~749)に農民が農業用の種壷や生活雑器を 焼いていた事が始まりとされ、奈良時代には伊勢の皇大神宮に献上した記録もあります。 また、室町時代末期に活躍した太朗太夫・次郎太夫(戦国時代の陶工)が、享禄の頃(1528-1532)に 丸柱で伊賀焼を再興したといわれ、「伊賀焼の創始者」とも云われています。
敢國神社の御神徳
大彦命は第八代孝元天皇の皇子で、崇神天皇の御代四道将軍のお一人として北陸未開の地を教化した後、伊賀の国に永住せられ、国家繁栄の礎を築かれました。命の御遠征によるご活躍にあやかり、交通安全その他、健康長寿の神として御霊徳を仰がれて居ります。また少彦名命は医薬・酒造の祝神で、世に恵美須様と称し商売繁盛・大魚豊穣の守護神としてその御沢尽くるところがありません。
金山比咩命はその御名の如く採鉱冶金機械工業など、近代産業の霊験を垂れ給う守護神であらせられます。
三十六歌仙扁額
桃山時代末期の作と言われ、三十六歌仙を三人一組として12枚の扁額に描いています。
作者は、藤堂藩初期資料『公室年譜略』によれば、「山徳」の名前がみられるが、狩野派の画家「狩野山楽」の誤りではないかとも言われている。
尚、和歌の色紙は「近衛信基(近衛信尹の初名)」の筆とされています。県指定有形文化財
湯釜
天正伊賀の乱にて荒廃した伊賀の地を復興させるあたり、まず社寺の復興を目指し慶長三年(1598年)小天狗清蔵により作られ奉納された湯釜。
敢國神社 宝物品の紹介
史蹟名勝
御墓山古墳
敢國神社の北方約壱粁、佐那具町にあって全長約190米の広大な前方後円の古墳であります。御祭神大彦命の御陵墓であると伝えられています。
南宮山 敢國神社の前方にある高峯にてその姿秀麗伊賀小富士と称せられ、頂上には末社浅間社が奉祀されています。金山比咩命の旧社地で四季共に眺望佳絶です。
桃太郎岩 南宮山上に御鎮座の木華開耶姫命(このはなさくやひめのみこと・安産の神)を祀るこの浅間社から遷したと伝う霊岩で今も安産の守護神子授けの神として信仰をあつめています。
芭蕉翁句碑
「手はなかむ音さへ梅の匂ひかな」貞享五年芭蕉翁参拝の時の興吟であります松尾芭蕉は伊賀上野の俳人というよりも世界的一大哲人であったことは世の人の普く知るところであります。この碑は昭和三十年境内に建てられました。
むすぶ社 本殿西方に御鎮座のむすび社は縁結びの神として信仰厚く御縁をいただき心願成就された参拝者が多数おられます。
獅子神楽 敢國神社の特殊神事として古くより行われ、江戸時代には舞初祭を行った後、正月三日に藩公城中に於て領内安全五穀豊穣の祝祈祷の後、伊賀一国を巡奏して厄除の舞を奉奏し終って報賽神事として四月十七日に舞上祭を行ってきました。 現在では境内に於て、正月三日、四月十七日、十二月五日に執り行っています。郷土芸能として昭和二十九年、三重県無形民俗文化財に指定されました。
延命井戸並びに手水舎御神水 敢國神社の少彦名命は、御神徳が医薬酒造・国土開拓の神として、また健康長寿・商売繁盛等として崇められています。 その、少彦名の命のご加護を受け、当社延命井戸及び手水舎のお水は、諸病に良いとされています。 南宮山より一旦地中へ入り、本殿脇より湧き出しています。 現在は井戸は塞いでおりますが、手水舎で用いられているお水を求めて遠方より多くの方々が参拝に訪れています。
伊賀一之宮・敢国神社ゆかりの伝統の伊賀神服部流忍術「 黒党(くろんど)」
黒党の名は伊賀服部氏の氏神様でもあります伊賀一之宮・敢国神社に伝わります黒党まつり(1995年に450年ぶりに復興)に由来しております。
黒党まつりは神事に従事する者が服部一族に限られ、全員黒装束に身を固めることが厳格に守られる奇祭として知られています。
平安時代末期に、平知盛の重臣として武勇名高い伊賀服部平内左衛門家長は、
源平合戦において伊賀者を率いて安徳天皇の親衛隊長を勤めました。
家長は、三種の神器の奪還を命じられた源義経の奇襲を再三かわすなど、
神出鬼没な活躍から「煙りの末」と呼ばれました。
黒党まつりは、伊賀服部一族の私祭だったのを平家の全盛期に家長が敢国神社
で行うようになったのが始まりと伝えられています。
平家滅亡後も伊賀服部氏主宰の神事として12月最初の卯の日に行われました。
当時は、敢国神社の御祭神の中から、少彦名命様と金山媛命様を神輿に奉戴しまして、神社の北東約1.5kmの柘植川の花園河原にお移しし、7日間にわたって流鏑馬や、さまざまな芸能が奉納されました。
境内のご案内
本殿
拝殿
絵馬殿
若宮八幡社
子授社
神明社
むすび社
大石社
市杵島姫社
社務所・崇敬者会館
裏参道
表参道
手水舎
浅間社
六所社
九所社
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
協力(順不同・敬称略)
伊賀一宮 敢國神社 〒518-0003 三重県伊賀市一之宮877 TEL:0595-23-3061
一般社団法人 伊賀上野観光協会
〒518-0873 三重県伊賀市上野丸之内122-4 だんじり会館内 TEL:0595-26-7788
文化庁 〒100-8959 東京都千代田区霞が関3丁目2番2号 電話番号(代表)03(5253)4111
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