滋賀県西部の大津市中心部にほど近い、琵琶湖西岸の山裾にあります。旧官幣大社・勅祭社で、社殿は近江造り・昭和造りといわれ、近代神社建築の代表として登録文化財となっています。
開運へのみちびきの神、産業文化学問の神として崇敬が深く、また漏刻(水時計)・百人一首かるた・流鏑馬(やぶさめ)で知られ、境内に時計館宝物館があり、漏刻・日時計なども設けられています。また、神前結婚式のほか、初宮詣(お宮参り)・七五三・車のおはらいや各種祈願なども申し受けておられます。
御祭神・御神徳
御祭神 天智天皇(てんじてんのう)またの御名 天命開別大神
(あめみことひらかすわけのおおかみ)
御神徳 時の祖神 開運・導きの大神 文化・学芸・産業の守護神
天智天皇座像
御由緒
近江神宮は第38代天智天皇をお祀りし、天智天皇の古都・近江大津宮跡に鎮座しています。全国16社の勅祭社の1社であり、4月20日の例祭には天皇陛下の御名代として宮中より御勅使を御差遣いただいています。
御鎮座は昭和15年11月7日であり、神社としての歴史は新しいのですが、滋賀県・近江国の発展は大津宮に都をおかれたことに始まるとして、古くから湖国では天智天皇に対する崇敬が厚く、1350年の歴史に立脚する神社といえます。明治30年ころより滋賀県民の間から天智天皇をまつる神宮の創建運動が高まり、昭和に入って昭和天皇の御勅許を賜わり、滋賀県民を始め全国崇敬者の真心の奉賛により創建されました。
境内地は約6万坪(20万㎡)。社殿は近江造りあるいは昭和造りと呼ばれ、山麓の斜面に本殿・内外拝殿を回廊が取り囲み、近代神社建築の代表的なものとして、国の登録文化財に登録されています。
御事績・御神徳
御祭神・天智天皇(御神名・天命開別大神 ご在世626−671年)は第34代舒明天皇の皇子で、中大兄皇子と申し上げ、1370年の昔、皇太子として藤原鎌足とともに蘇我一族の専横を除去遊ばされ、大化改新(645)を断行されました。古代社会の転換期に、大陸からの圧力により存亡の危機に直面していたわが国を、偉大なる英知と勇気とをもって雄大な建国の理想を実現せられ、古代国家確立の大本を打ち立てられ、中興の英主と称えられます。
「天智」とは天のように広く限りない意味であり、四海あまねく智恵の光をおさしのべになる大神であられます。別名の「天命開別」とは、神ながらの理想をうけて日本の運命を開き、画期的な新時代を確立、推進なさったことの尊称で、運命開拓の大神と拝します。
特に天智称制6年(667)都を奈良の飛鳥より近江大津宮へ遷され、その後の内外の施策は目覚ましいものがあり、わが国憲法の源をなす「近江令」を制定、学校制度を創始して国民教育の道を開かれ、また戸籍の制定(庚午年籍)土地制度の改革(班田収授)、当時最新の科学技術を駆使して産業振興を図られるなど、次々に新時代に向けての政策を推進せられ、政治経済の改革・学芸文化の創造発展に寄与されました。困難ななかで画期的な政策を推進し、日本の運命を導いてゆかれたことから開運の神・導きの神として、また産業・文化・学問の神として崇敬されています。
なかでも漏刻(水時計)をお造りになり、社会生活の基本である時報を始められたことはよく知られています。6月10日の「時の記念日」は近江朝廷で時報が開始された日を記念して大正9年(1920)に制定されたもので、毎年この日には近江神宮を時の祖神として崇敬する時計関係者の方々が中心となり、賑々しく漏刻祭が斎行されています。境内には「時計館宝物館」が設けられ、和時計をはじめ各種の古時計などを展示しています。また境内に設置された水時計や日時計は、時計業界からの献納によるものです。
また越の国(新潟県)より大津宮に「燃ゆる水(原油)・燃ゆる土(天然アスファルト)」が献上された日本書紀の記事は、わが国の文献における「石油」の初見であり、ほかにも各種の科学技術を積極的に使用されたことが記録からうかがえます。
天智天皇の御事績は、明治維新に至る1200年の基礎となり、古く奈良時代から、御歴代の天皇陛下のなかでも別格の位置におかれ、特別な崇敬がありました。天智天皇の御陵は十陵の筆頭として、歴代朝廷から奉幣が行われ、平安時代を通じて、その忌日には一般の政務を停止し、諸大寺での法要に当ることになっていました。後世に至るまで歴代天皇のなかでも格別の位置に置かれていたことがうかがわれます。
また歴代天皇の即位に当っての宣命には、かならず天智天皇のことに言及されるなど、皇室の歴史のなかでも特別崇敬の深い天皇であられました。
また天智天皇の御製「秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ」は小倉百人一首の巻頭歌として広く国民に親しまれ、歌かるたの祖神としても仰がれています。
近年は百人一首競技かるたが「ちはやふる」などの漫画やまたドラマでも取り上げられるなど、ことに正月の名人位クイーン位決定戦はよく知られるところとなってきました。
奉納された板かるたの額も展示されています。
天智天皇の数々の御事績により、さまざまなご神徳を拝することができ、多くの方々から崇敬されています。ことに困難を排して画期的な政策を推進し、日本の運命を導いてゆかれた御祭神の開運の神様としての御神徳、時の一瞬の判断が運命を左右することをつかさどり、開運への方向を説き示す、時の神様、導きの神様としての御神徳が高く、産業・文化・学芸の守護神として崇敬されています。
以前は11月に毎年行われ、近年は6月第1日曜日に開催されている流鏑馬(やぶさめ)神事でも知られています。
近江神宮流鏑馬
武田流鎌倉派・日本古式弓馬術協会による流鏑馬。天智天皇の時代、蒲生野に狩りをされ、また馬を放牧したとの日本書紀に記された故事を偲んで開催。 本殿における鏑矢奉献の儀という神事ののち、表参道まで行列し、天長地久の式という儀式に続いて、3頭の馬に乗った3名の射手が全速力で疾走する馬上から、3か所設けられた的をめがけて矢を射る。
〈国宝〉崇福寺塔心礎納置品(舎利容器他)
〈重文〉白磁水注
楼閣山水図屏風(曾我蕭白筆)
【近江神宮の歌碑】
小倉百人一首所載の天智天皇の御製をはじめ、弘文天皇の漢詩、万葉集の柿本人麻呂・高市黒人の歌、芭蕉の俳句、保田與重郎ほか近代の歌人・俳人など多くの歌碑・句碑が設けられています。
近江神宮御創建前史
平成22年11月7日、近江神宮は昭和15年の御鎮座より満70年を迎えました。
大化の改新以後の、天智天皇の皇太子として、また天皇としての政治は明治維新にいたる1200年の基礎を形作り、奈良平安時代以来、歴代天皇のなかでも特別の位置に置かれ、歴代天皇のご即位の宣命にも、必ず天智天皇のことに触れられる習わしでした。近江神宮は天智天皇敬仰史1300年の上に立脚する御社といえます。
大津市錦織・志賀宮址碑
ことに滋賀県・大津市の発展は天智天皇が近江大津宮に都をおかれたことに始まるとして、県内では格別に崇敬が深く、明治20年代以来、天智天皇をお祭りする神社の創建の運動が沸き起こってきました。
まず明治28年、時の大津町長(当時はまだ町でした)が有志を募って、当時の滋賀郡滋賀村大字錦織字御所ノ内(現在の大津市錦織)の地に「志賀宮址碑」を建設しました。ついで明治33年大津宮創立の最初の企画が始まり、41年大津市制施行10周年に際して、時の市長が大津宮跡に天智天皇奉祀神社の創立を熱望する旨を発表し、請願運動を開始しました。
御造営工事の模様
それ以来歳を重ねるごとに御創建への運動が高まり、並行して天智天皇の古都・近江大津宮の探索・究明への努力がはらわれました。そして昭和12年10月12日、近江神宮奉賛会を組織、翌13年5月1日、昭和天皇の御聴許をいただき近江神宮創立の旨を発表、同年6月10日時の記念日の日に地鎮祭執行、延べ13万人にのぼる県民の勤労奉仕をいただいて工事は進められました。その間近江神宮奉賛会総裁に高松宮殿下にご就任いただくという光栄に浴することになりました。かくして昭和15年竣工の運びとなり、その年11月7日、勅使御参向のもとこの大津宮跡に御鎮座祭が厳粛に斎行されました。
創建間もないころの御社殿
当時はまだ近江大津宮のあった地はわかっていませんでしたが、あたかも戦後付近の発掘により志賀宮址碑建設地は大津宮の中心部、近江神宮境内は大津宮の一角に間違いないことが確定的となった地でした。
御創建間もないころの一の鳥居付近より社殿を望む
琵琶湖
皇室と近江神宮
天智天皇の皇都、近江大津宮跡に御鎮座する近江神宮は、昭和15年11月7日、紀元2600年の慶節に、昭和天皇様の御聴許を賜り御創建された旧官幣大社で、全国勅祭社16社中の一社です。
天智天皇が大津宮で画期的な新政治を推進して行かれた御事蹟、御遺徳について、昭和天皇はことのほか心中深く刻まれて、先の大戦の戦後復興を近江神宮の御祭神に御祈願なされ、その模範となさいました。
昭和20年12月15日、神社と国家との関係を断ち切る神道指令が占領軍から発令された、まさにその当日、昭和天皇は近江神宮を勅祭社に治定なさいました。そして翌21年2月より9年の長きに渡り、沖縄を除く全国46都道府県、約33000キロの道程を御巡行あそばされ、戦火に打ちひしがれた国民を慰め、国土復興の努力を激励して行かれました。
終戦から1年あまり経た昭和21年11月9日午後8時、元滋賀県知事であり、近江神宮奉賛会副会長を務められ、また同年9月21日まで侍従次長であった稲田周一氏が、昭和天皇の御名代として近江神宮に参拝されました。
当時の平田貫一宮司に対し「過日天皇陛下には総理以下重臣を召されて、異例のお言葉を賜った」と語り出し、「このたびの敗戦はまことに遺憾の極みであるが、1300年前の天智天皇の御時、唐・新羅の軍と白村江に戦って大敗した歴史がある。天智天皇は直ちに兵を撤せられ、国内諸政の一新を企てられ、文化を振興、国力の充実を図られた。これを模範として、諸政一新、文化経済を盛んにして永い将来に対処したいと強く念願しているから、一同もこの旨を体して大いに発奮努力して欲しい」との直話を賜り、近江神宮に参拝し神助を仰ぐよう、特命を頂いて参上したとのことでした。翌朝稲田氏は正式参拝し、昭和天皇の大御心をお伝え申し上げたのでした。
戦後の再起が危ぶまれた日本が経済大国として発展したことを鑑みるに、昭和天皇の並々ならぬご決意と御辛苦が御祭神天智天皇に深く感応された、その大稜威と御神徳を感じずにはいられません。国家安泰鎮護の神様としての御神徳あらたかなところと存じます。
そして昭和50年5月26日午前10時、昭和天皇は近江神宮に行幸されました。
比良の山比叡の峯のみえてゐて琵琶の湖暮れゆかむとす
と詠まれました
その後、昭和54年、当時の皇太子・同妃両殿下にご参拝いただきましたが、平成の御代に入り、今上天皇・皇后両陛下におかれましては、平成2年11月7日近江神宮御鎮座50年祭にあたり、御製・御歌をたまわりました。その後、平成6年10月28日、今上天皇・皇后両陛下の御親拝を拝するところとなりました。
近江神宮50年祭にあたり
天皇陛下御製
日の本の国の基を築かれしすめらみことの古思ふ
皇后陛下御歌
学ぶみち都に鄙に開かれし帝にましぬ深くしのばゆ
なお、昭和13年、近江神宮奉賛会設立に際しては、その総裁として高松宮宣仁親王殿下にご就任いただきました。(会長は近衛文麿公)高松宮殿下には、御造営工事中にもご視察いただいて御令旨を賜り、御鎮座ののちはたびたびご参拝、特に戦後、外苑敷地に県・市により競輪場が建設されたのは、終戦後の多難な状況にあった近江神宮への経済的援助の資とするためもあってのことでした。殿下は高松宮杯競輪に当っては毎年ご来臨になられ、その際はかならず近江神宮に参拝になる習いでした。
境内の歌碑・句碑
天智天皇御製
「秋の田の刈穂の庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつゝ」
昭和56年建立 青谷仁三郎奉納 横井時常揮毫
芭蕉句碑
「から崎の松は花より朧にて」
句誌『正風』100号記念 昭和32年
吟友の碑(大友皇子=弘文天皇御製漢詩「宴に侍す」)
「皇明日月と光り 帝徳天地に載す 三才並に泰昌 万国臣義を表す」
滋賀県詩吟連盟湖南地区連合会建立 横井時常宮司書 昭和44年
柿本人麻呂歌碑
「淡海乃海夕浪千鳥汝鳴者情毛思努爾古所念」
(あふみのうみゆふなみちどりながなけばこころもしのにいにしへおもほゆ)
時計学校敷地 昭和53年
桂樟蹊子(霜林俳句会主宰)句碑
「漏刻の音とこしへに初日影」
滋賀馬酔木会建立 昭和54年
高市黒人歌碑「楽浪乃国都美神乃浦佐備而荒有京見者悲毛」(さざなみのくにつみかみのうらさびてあれたるみやこみればかなしも)
淡海万葉の会建立 藤井五郎揮毫 平成20年
春日真木子歌碑
「人間の智恵のはじめよひそひそと秘色の水に刻まあたらし」
水甕社建立 平成19年
伊藤香舟女句碑
「楼門に湖脈打てる望の月」
柊句会建立 平成2年
(右)香川進「湖ほとに息づき比そめと波はいひは留けく可奈志と波はまたいふ」
(左)山村金三郎「湖に音なき音を韻かせて比良ゆ流るる夕茜雲」
短歌団体「地中海」歌玉垣の中心に 平成7年
保田與重郎歌碑
「さざなみのしがの山路の春にまよひひとり眺めし花盛りかな」
新学社建立 副碑撰文中谷孝雄 昭和59年
平田貫一(初代宮司)歌碑
「比叡ヶ嶺に近く琵琶湖を目下に大神の辺に永世住まなむ」
平田一翁と号す 昭和43年
横井時常(第2代宮司)歌碑
「歳神は今帰らすか左義長の青竹はぜて高く燃え立つ」
宮中歌会始預選歌 御題「祭り」昭和50年
730年以上の歴史のある小倉百人一首は、鎌倉時代に歌人 藤原定家がまとめたものだそうです。
日本文化の伝統を守り、東京オリンピック・パラリンピックを契機に、さらに国際的に発展させたいですね。 鎹八咫烏 記
小倉百人一首 一覧
1. 秋の田のかりほの庵の苫を荒みわがころも手は露に濡れつつ 天智天皇
2. 春すぎて夏来にけらし白たへのころもほすてふあまの香具山 持統天皇
3. あしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む 柿本人麻呂
4. 田子の浦にうちいでて見れば白たへの富士の高嶺に雪は降りつつ 山部赤人
5. 奥山にもみぢ踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき 猿丸太夫
6. かささぎの渡せる橋に置く霜の白きを見れぱ夜ぞふけにける 中納言(大伴)家持
7. あまの原ふりさけ見ればかすがなるみ笠の山にいでし月かも 安倍仲麻呂
8. わが庵は都のたつみしかぞ住む世を宇治山と人は言ふなり 喜撰法師
9. 花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに 小野小町
10. これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関 蝉丸
11. わたの原八十島かけて漕ぎいでぬと人には告げよあまの釣舟 参議(小野)篁
12. あまつ風雲のかよひ路吹きとぢよをとめの姿しばしとどめむ 僧正遍昭
13. つくばねの峰より落つるみなの川恋ぞ積りて淵となりぬる 陽成院
14. みちのくの忍ぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにしわれならなくに 河原左大臣(源融)
15. 君がため春の野にいでて若菜摘むわがころも手に雪は降りつつ 光孝天皇
16. 立ち別れいなばの山の峰に生ふるまつとし聞かばいざ帰り来む 中納言(在原)行平
17. ちはやぶる神代も聞かず竜田川からくれなゐに水くくるとは 在原業平朝臣
18. すみの江の岸による波よるさへや夢のかよひ路人目よくらむ 藤原敏行朝臣
19. なにはがた短きあしのふしのまもあはでこの世をすごしてよとや 伊勢
20. わびぬれば今はた同じなにはなるみをつくしてもあはむとぞ思ふ 元良親王
21. 今来むと言ひしばかりに長月の有明の月を待ちいでつるかな 素性法師
22. 吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風を嵐と言ふらむ 文屋康秀
23. 月見ればちぢにものこそ悲しけれわが身ひとつの秋にはあらねど 大江千里
24. このたびはぬさも取りあへずたむけ山もみぢのにしき神のまにまに 菅家(菅原道真)
25. 名にし負はば逢坂山のさねかづら人に知られで来るよしもがな 三条右大臣(藤原定方)
26. 小倉山峰のもみぢ葉心あらば今ひとたびのみゆき待たなむ 貞信公(藤原忠平)
27. みかの原わきて流るる泉川いつ見きとてか恋しかるらむ 中納言(藤原)兼輔
28. 山里は冬ぞ寂しさまさりける人目も草もかれぬと思へば 源宗干朝臣
29. 心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花 凡河内躬恒
30. 有明のつれなく見えし別れより暁ばかりうきものはなし 壬生忠岑
31. 朝ぼらけ有明の月と見るまでに吉野の里に降れる白雪 坂上是則
32. 山川に風のかけたるしがらみは流れもあへぬもみぢなりけり 春道列樹
33. ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ 紀友則
34. たれをかも知る人にせむ高砂の松も昔の友ならなくに 藤原興風
35. 人はいさ心も知らずふる里は花ぞ昔の香に匂(にほ)ひける 紀貫之
36. 夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづこに月宿るらむ 清原深養父
37. 白露に風の吹きしく秋の野はつらぬきとめぬ玉ぞ散りける 文屋朝康
38. 忘らるる身をば思はずちかひてし人の命の惜しくもあるかな 右近
39. 浅茅生の小野のしの原忍ぶれどあまりてなどか人の恋しき 参議(源)等
40. 忍ぶれど色にいでにけりわが恋はものや恩ふと人の問ふまで 平兼盛
41. 恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか 壬生忠見
42. ちぎりきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは 清原元輔
43. あひ見ての後の心にくらぶれば昔はものを思はざりけり 中納言(藤原)敦忠
44. あふことの絶えてしなくばなかなかに人をも身をも恨みざらまし 中納言(藤原)朝忠
45. あはれとも言ふべき人は思ほえで身のいたづらになりぬべきかな 謙徳公(藤原伊尹)
46. ゆらのとを渡る舟人かぢを絶え行くへも知らぬ恋の道かな 曾禰好忠
47. 八重むぐら茂れるやどの寂しきに人こそ見えね秋は来にけり 恵慶法師
48. 風をいたみ岩打つ波のおのれのみくだけてものを思ふ頃かな 源重之
49. み垣もり衛士のたく火の夜はもえ昼は消えつつものをこそ思へ 大中臣能宣朝臣
50. 君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな 藤原義孝
51. かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじなもゆる思ひを 藤原実方朝臣
52. 明けぬれば暮るるものとは知りながらなほ恨めしき朝ぼらけかな 藤原道信朝臣
53. 歎きつつひとりぬる夜の明くるまはいかに久しきものとかは知る 右大将道綱母
54. 忘れじの行く末まではかたければ今日を限りの命ともがな 儀同三司母
(藤原伊周の母 高階成忠の娘 貴子)
55. 滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ 大納言(藤原)公任
56. あらざらむこの世のほかの思ひ出に今ひとたぴのあふこともがな 和泉式部
57. めぐりあひて見しやそれともわかぬまに雲隠れにし夜はの月かな 紫式部
58. ありま山ゐなの笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする 大弐三位
59. やすらはで寝なましものをさ夜ふけてかたぶくまでの月を見しかな 赤染衛門
60. 大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ずあまの橋立 小式部内侍
61. いにしへの奈良の都の八重桜今日九重ににほひぬるかな 伊勢大輔
62. 夜をこめてとりのそらねははかるともよに逢坂の関は許さじ 清少納言
63. 今はただ思ひ絶えなむとばかりを人づてならで言ふよしもがな 左京大夫(藤原)道雅
64. 朝ぼらけ宇治の川霧絶え絶えにあらはれわたる瀬々の網代木 中納言(藤原)定頼
65. 恨みわびほさぬ袖だにあるものを恋にくちなむ名こそ惜しけれ 相模
66. もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし 大僧正行尊
67. 春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなく立たむ名こそ惜しけれ 周防内侍
68. 心にもあらでうき世にながらへぱ恋しかるべき夜はの月かな 三条院
69. 嵐吹くみむろの山のもみぢ葉は竜田の川のにしきなりけり 能因法師
70. 寂しさにやどを立ちいでてながむれぱいづくも同じ秋の夕暮 良暹法師
71. 夕されば門田の稲葉おとづれてあしのまろ屋に秋風ぞ吹く 大納言(源)経信
72. 音に聞くたかしの浜のあだ波はかけじや袖の濡れもこそすれ 祐子内親王家紀伊
73. 高砂のをのへの桜咲きにけりと山のかすみ立たずもあらなむ 権中納言(大江)匡房
74. うかりける人を初瀬の山おろし激しかれとは祈らぬものを 源俊頼朝臣
75. ちぎりおきしさせもが露を命にてあはれ今年の秋もいぬめり 藤原基俊
76. わたの原漕ぎいでて見ればひさかたの雲居にまがふ沖つ白波
法性寺入道前関白太政大臣(藤原忠通)
77. 瀬を旱み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ 崇徳院
78. 淡路島かよふ千鳥の鳴く声にいく夜寝覚めぬ須磨の関もり 源兼昌
79. 秋風にたなびく雲の絶え間よりもれいづる月の影のさやけさ 左京大夫(藤原)顕輔
80. 長からむ心も知らず黒髪の乱れて今朝(けさ)はものをこそ思へ 待賢門院堀川
81. ほととぎす鳴きつるかたをながむれぱただ有明の月ぞ残れる後徳大寺左大臣(藤原実定)
82. 思ひわびさても命はあるものをうきにたへぬは涙なりけり 道因法師
83. 世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる 皇太后宮大夫(藤原)俊成
84. 長らへばまたこの頃やしのばれむうしと見し世ぞ今は恋しき 藤原清輔朝臣
85. 夜もすがらもの思ふ頃は明けやらでねやのひまさへつれなかりけり 俊恵法師
86. 歎けとて月やはものを思はするかこち顔なるわか涙かな 西行法師
87. むらさめの露もまだひぬまきの葉に霧たちのぼる秋の夕暮 寂蓮法師
88. なには江のあしのかり寝のひとよゆゑ身をつくしてや恋ひわたるべき 皇嘉門院別当
89. 玉の緒よ絶えなば絶えね長らへば忍ぶることの弱りもぞする 式子内親王
90. 見せばやな雄島のあまの袖だにも濡れにぞ濡れし色は変らず 殷富門院大輔
91. きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろにころもかた敷きひとりかも寝む
後京極摂政前太政大臣(藤原良経)
92. わが袖は潮ひに見えぬ沖の石の人こそ知らね乾(かわ)くまもなし 二条院讃岐
93. 世の中は常にもがもななぎさ漕ぐあまのを舟の綱手かなしも 鎌倉右大臣(源実朝)
94. み吉野の山の秋風さ夜ふけてふるさと寒くころも打つなり 参議(源)雅経
95. おほけなくうき世の民におほふかなわが立つそまに墨染の袖 前大僧正慈円
96. 花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり入道前太政大臣(西園寺公経)
97. 来ぬ人をまつほの浦の夕なぎにやくやもしほの身もこがれつつ 権中納言(藤原)定家
98. 風そよぐならの小川の夕暮はみそぎぞ夏のしるしなりける 従二位(藤原)家隆
99. 人も惜し人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑにもの思ふ身は 後鳥羽院
100.ももしきや古き軒ばの忍ぶにもなほあまりある昔なりけり 順徳院
交通アクセス
境内案内
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
協力(順不同・敬称略)
近江神宮 〒520-0015 滋賀県大津市神宮町1番1号 TEL:077-522-3725
(公社)びわこビジターズビューロー 広報情報部
〒520-0806 大津市打出浜2番1号「コラボしが21」6階 TEL 077-511-1530
文化庁 〒100-8959 東京都千代田区霞が関3丁目2番2号 電話番号(代表)03(5253)4111
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