ZIPANG TOKIO 2020「 最高の魅力『日本文化伝統の薫り』徳川御三家筆頭尾張徳川家の徳川美術館 」


徳川美術館の魅力


有形文化財に登録された建物

徳川美術館は建物の外観デザインを公募して昭和7年(1932)に着工、昭和10年春に完成し同年の秋に開館。 近代的設備を備えた画期的美術館としてヨーロッパの建築界にも紹介されました。


尾張徳川家の宝庫として唯一の存在

徳川美術館の収蔵品は大名家の宝庫・コレクションとして唯一のまとまった存在で、「大名道具とは何か?」「近世大名とは何か?」という問いに答えることのできる我が国唯一の美術館です。


年間を通して楽しめる展示

建物が登録有形文化財に指定されている企画展示室(第7・8・9展示室)では、年間を通してテーマを絞ったさまざまな企画展を催しています。


伝統文化を体感できる雰囲気

徳川園の入口 --- かつての尾張徳川家名古屋別邸の表門、通称「黒門」をくぐると、緑に囲まれた石畳の向こうに、徳川美術館の前景が見えてきます。 公園と美術館とが一体となったゆったりとした雰囲気は、そのまま館内へと続いてゆきます。 当時の最先端技術を駆使した建築でありながら、日本文化の伝統の薫りに浸ることのできる雰囲気は、徳川美術館の最高の魅力といえましょう。 平成16年(2004)11月には、隣接する池泉回遊式の日本庭園「徳川園」と尾張徳川家旧蔵書を収蔵する「名古屋市蓬左文庫」がリニューアルオープンし、 美術館をとりまく一帯が整備されました。徳川美術館と蓬左文庫の展示室は一体化し、近世武家文化を体感できる歴史文化拠点となりました。


建物は国の登録有形文化財

徳川美術館は建物の外観デザインを公募して昭和7年(1932)に着工、昭和10年春に完成し同年の秋に開館。 近代的設備を備えた画期的美術館としてヨーロッパの建築界にも紹介されました。 当時の展示棟と収蔵庫である今日の企画展示室(第7・8・9展示室)と南収蔵庫は、城閣を想わせるような帝冠様式建築で、昭和初期の我が国の美術館建築を代表する建造物として国の有形文化財に登録されています。


空間復元方式による展示

名品コレクション展示室(第1~5展示室)では、尾張藩主(大名)の公的生活の場であった名古屋城二之丸御殿を、部分的ながらも時代考証に基づいて、そのまま復元してあります。 美術品とそれらが使われた空間との一体的な体系展示によって、美術品単体の美にとどまらず、日本の伝統美である「構成の美」あるいは「取り合わせの美」が鑑賞できます。


王朝の華

国宝「源氏物語絵巻」は徳川美術館を代表する収蔵品のひとつですが、原本は保存のため、年間の展示日数はきわめて短期間に制限しています。 そこで、多少なりとも来館される方々のご期待にそえるよう、名品コレクション展示室(第6展示室)を設け、映像システム、複製(レプリカ)を中心にご鑑賞になれるようにしています。


さまざまな企画展

建物が登録有形文化財に指定されている企画展示室(第7・8・9展示室)では、年間を通じてテーマを絞ったさまざまな企画展を催しています。 常設展示室とは一味違った重厚な雰囲気の中で、その時々のテーマのもとに、質量ともにそろった美術品の数々、大名の生活や文化をより深く味わえるよう工夫を凝らしています。


ミュージアム・ショップ

徳川美術館の思い出に、記念に、おみやげに、オリジナル・グッズを豊富に揃えました。 鑑賞の手助けとなる展覧会図録や DVD、より深くお知りになりたい方向けの専門的な各種出版物もお求めいただけます。


徳川美術館のあゆみ

徳川美術館は、江戸時代の大名家・尾張徳川家に伝えられた重宝、いわゆる「大名道具」を収蔵する美術館です。徳川義親によって昭和6年(1931)に設立された公益財団法人徳川黎明会が運営する私立美術館で、昭和10年に開館しました。

総石高61万9500石を領した大大名・尾張徳川家に伝えられた重宝のほか、明治維新後は徳川宗家(将軍家)や紀伊徳川家など大名家の売り立て品を購入、また岡谷家や高松家など多くの篤志家からの寄贈品を収めてさらに充実し、戦中戦後の災難混乱を免れて現在に至っています。昭和62年(1987)秋には開館50周年を記念して実施された増改築工事が完成、名品コレクション展示室が加わることによって、より一層充実した展示をご覧いただけるようになりました。

収蔵品は徳川家康の遺品をはじめ、初代義直(家康9男)以降の尾張徳川家の歴代当主やその家族らの遺愛品を中心に、総数およそ1万件余りにおよびます。世界的にも有名な国宝「源氏物語絵巻」をはじめ国宝9件、重要文化財59件、重要美術品46件を含み、徳川美術館ならではの種類の豊富さ、質の高さ、そして保存状態の良さを誇っています。明治維新や第二次世界大戦の戦災などによって、多くの大名家の伝来品が散逸してしまった今日、徳川美術館の収蔵品は大名家のコレクションとして唯一まとまった存在です。また尾張徳川家の記録や文書類を収める研究機関・徳川林政史研究所を姉妹機関にもつ点でも、他に例を見ない美術館です。

大名の生活と文化を紹介する名品コレクション展示室では、尾張徳川家当主の生活の場であった名古屋城二之丸御殿を、時代考証に基づいて部分的に復元しています。美術品とそれらが使われた空間との一体的な体系展示によって、美術品単体の美にとどまらず、日本の伝統的な「構成の美」「取り合わせの美」を鑑賞することができます。さらに有形文化財として登録されている本館では、特別展や企画展示を随時開催しています。

平成16年(2004)には、近世大名庭園を再現した池泉回遊式の日本庭園が隣接する徳川園内に作られ、尾張徳川家伝来の古書籍を収蔵する名古屋市蓬左文庫に完成した展示棟と徳川美術館が連絡通路によって一体化し、徳川園一帯は大名文化を総合的に体感できるスペースとなりました。

徳川美術館は「大名道具とは何か?」「近世大名とは何か?」という問いに答えることのできる我が国唯一の美術館です。江戸時代の大名文化と、日本が誇る歴史遺産を今に伝える中心的施設として、徳川美術館はあゆみを続けています。


おもな収蔵品

徳川美術館は、徳川家康の遺品を中心に、初代義直(家康九男)以下代々の遺愛品、いわゆる「大名道具」1万件余りを収める美術館です。 国宝「源氏物語絵巻」をはじめ、国宝9件、重要文化財59件など、当館ならではの種類の豊富さ、質の高さ、保存状態の良さを誇ります。



漆工

国宝・初音の調度 【江戸時代 寛永16年(1639)】

千代姫は三代将軍家光の長女で、寛永16年(1639)、わずか数え年三歳で尾張徳川家二代光友にお嫁入りしました。千代姫の婚礼調度は、調度の意匠が『源氏物語』の「初音」の帖に因んだ「初音の調度」が47件、同じく「胡蝶」の帖に因んだ「胡蝶の調度」が10件、さらに染織品・金工品を加えた総計70件が現存し、一括で国宝に指定されています。


秋の野蒔絵手箱【鎌倉時代 13~14世紀】

蓋表には、流れを挟んで萩・藤袴・桔梗・芒(すすき)の秋草と鹿をあらわし、空には飛び交う小鳥たちを配しています。鹿は、日本では、春日大社や厳島神社などでは神鹿(しんろく)と呼ばれ神の使いとして信仰されたほか、「奥山に 紅葉踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋は悲しき」(『古今和歌集』巻四・猿丸太夫)で知られるように、秋の情趣と結びつけられてきました。

また螽斯(きりぎりす)・蟷螂(かまきり)・蜘蛛の巣など秋草にすだく虫たちをも描き込み、小さな虫たちにまで美を見いだす当時の趣向をよく示しています。秋の野を意匠化した手箱の遺例はいくつか知られていますが、その中でも最もすぐれた意匠の作品です。


重要文化財・長生殿蒔絵手箱 【鎌倉時代 13~14世紀】一合 高17.9 縦23.5 横37.9

『和漢朗詠集』慶賀に所収の、慶滋保胤(よししげのやすたね)の佳句「長生殿裏春秋富 不老門前日月遅」を葦手文字を交えて意匠化した手箱です。長生殿は唐の華清宮(かせいきゅう)の宮殿の一つ、不老門は洛陽城門の一つで、この佳句は、万歳長久を慶賀する慣用語として用いられました。

鶴・亀・松などの様々なおめでたいモチーフのほか、梅・柳・松にかかる藤・橘・紅葉・咲き乱れる秋草などによって日本の美しい四季が表されており、小さな手箱に祝福された世界が広がっています。

法華曼荼羅蒔絵経箱 【鎌倉~南北朝時代 14世紀】
一合 総高14.6/台 高3.3 縦28.6 横17.9/箱 高11.6 縦27.2 横16.1

法華経・開結経十巻を収める経箱。格狭間(こうざま)のある入角の基台に、法華経法の本尊法華曼荼羅を意匠化した甲盛蓋(こうもりぶた)、入角の二段重ねからなる豪華な経箱です。蓋表中央に丸い水晶を嵌め込み、下には極彩色の多宝塔の絵を納められています。その周囲に12個の水晶を、身の側面にも同様に水晶が嵌められ、各水晶下には、法華曼荼羅の諸尊を表す梵字が置かれています。

絵画

国宝・源氏物語絵巻 【平安時代 12世紀】

12世紀前半に宮廷を中心として製作されたと考えられる『源氏物語』現存最古の遺品で、原作に近い時代の雰囲気をよく伝えている作品です。また爛熟した王朝文化の伝統を踏まえて、研ぎ澄まされた感性による絵画表現、美麗に装飾された料紙にしたためられた詞書の優美な書など、多くの「源氏絵」の中でも、ひときわ高い格調と説得力をもって、見る者を魅了します。現在、阿波国の蜂須賀家に伝来した一巻分(鈴虫・夕霧・御法)が東京の五島美術館に、尾張徳川家伝来の三巻分(蓬生・関屋・絵合・柏木・横笛・竹河・橋姫・早蕨・宿木・東屋)が徳川美術館に所蔵されていますが、諸家に分蔵された詞書の断簡を含めても『源氏物語』五十四帖のうち二十帖分が知られるに過ぎず、製作当初には相当な巻数にのぼるセットであったと考えられます。尾張徳川家19代義親は、昭和7年(1932)に保存を図って巻物装を解き、額面貼付に装幀し直しました。


重要文化財・葉月物語絵巻 第五段・絵【平安時代 12世紀】紙本著色 縦23.4cm 横27.9cm

平安貴族の男女の恋愛を主題とした逸名物語の残巻で、現在の名称は詞書の冒頭に「八月(はづき)十よひしもつかたなる所に...」の語句にちなんで、便宜的に名付けられました。物語は、現存部分から二組の男女の複雑な恋愛物語とする見解が示されています。

絵は、各段にわたり補筆が認められますが、古様を示す筆致、装束・文様などの有職(ゆうそく)からみて、12世紀半ば頃の製作とみなされます。詞書は、後二条天皇(1285~1308)筆と伝えるものの確証はなく、書風や料紙の装飾から見て14世紀初期頃に詞書のみが何らかの理由で書き改められたと考えられます。

第五段では、高欄(こうらん)の一角、御簾(みす)を巻き上げて端近に衵襲(あこめがさね)姿の帝、簀子(すのこ)には笛を吹く大将と琵琶を弾く宮が対坐し、階(きざはし)に箏(そう)を弾く人物の後ろ姿が描かれます。前栽(せんざい)には秋草が咲き乱れ、画面の上部に墨の霞を引いて夕景をあらわしています。

重要文化財・天皇摂関御影 二巻の内上巻【鎌倉時代 14世紀】
紙本着色 縦33.0 甲巻長541.0 乙巻長607.5

上巻に鳥羽院から亀山院までの天皇14人、下巻には後宇多・伏見・後伏見の三天皇と9人の法体(法親王)像、藤原忠通をはじめ摂政・関白や大臣を歴任した貴族11人の肖像を収めています。もとは一巻の巻物でしたが、近年保存のため二巻に改装されました。細線重ね描きで面貌を捉えた「似絵」の名品の一つに数えられます。本巻の筆者は似絵の名手・藤原信実と伝えられていますが、筆者は一人ではなく幾人かの手になったもので、製作年代も鎌倉時代末期頃と考えられます。


染織

重要文化財・淡浅葱地葵紋付扇地紙文辻ヶ花染小袖 【桃山~江戸時代 16~17世紀】
所用者: 徳川家康(駿府御分物)着用 材質: 淡浅葱練貫地 員数: 一領 法量: 丈133.5 総裄121.4

徳川家康の遺産「駿府御分物」として尾張徳川家に譲られた家康着用衣類の一つです。浅葱練緯を表地とした、綿入の小袖で、扇地紙の輪郭を線絞りと鹿の子絞りの中間的な形状の絞りで表しています。製作当初の裏地は濃茶練緯であったと推定されますが、昭和12年(1937)の修理で生地が新調されて取り替えられたため、平成20・21年度の文化財関係国庫補助事業による修理の際、中綿より裏地の残欠を採取・調査して当初の裏地の色を復元しました。


重要文化財・紫地葵紋付葵葉文辻ケ花染羽織 【桃山~江戸時代 16~17世紀】
所用者: 徳川家康(駿府御分物)着用 材質: 紫練貫地 員数: 一領 法量: 丈112.0 裄58.8

葵紋の基になった二葉葵の繊細な葉と細い葉柄が2本ないし3~4本を組にして、折枝文のように散らされた意匠です。枝や葉についた白抜きの露もかわいらしくあらわされ、縫い絞りで細い線や、曲線を見事に表現しています。あでやかで高貴な紫に染めた練貫地で、裏地は浅葱の海黄とした綿入の袷です。葵紋を辻ヶ花染の縫い取りと墨描きで描き、配色も鮮やかです。家康の羽織の多くは袖口が大きい広袖だが、この羽織は袂のある袖口の狭い小袖仕立です。


重要文化財・刺繡阿弥陀三尊来迎図【鎌倉時代 14世紀】材質: 平絹地総繡 員数: 一幅 法量: 縦72.7 横32.1

本紙・表装ともに全面を刺繡で表した阿弥陀三尊来迎図です。中央には阿弥陀三尊の来迎と、『大無量寿経』の阿弥陀四十八願の第十八願の偈を、また中尊の光背には、種子「ア」が四十八個配されています。上段には、二十五菩薩の種子、下段には蓮池をはさんで、不動明王と毘沙門天の立像、さらに左右柱中央には釈迦と薬師の種子を蓮華唐草文の中に配しています。偈・種子・螺髪には人髪が用いられています。色のぼかしや線の躍動感を、高度な刺繡の技法を駆使して仕上げています。毘沙門天や不動明王を護法神としているので、鎌倉時代後期の天台宗系浄土教信仰から生み出された作品と考えられます。


彫刻

能面 白式尉【室町時代 16世紀】縦19.8 横16.3

「〈翁〉は能にして能にあらず」と言われるように、一つのストーリーをもった演劇ではなく、天下太平・国土安穏・五穀豊穣・子孫繁栄を祈る神聖な儀式としての性格を持っています。

白式尉は、翁のシテが直面に翁烏帽子(おきなえぼし)をいただき、翁狩衣(おきなかりぎぬ)姿で登場し、舞台上で舞う時だけ掛ける面(おもて)です。


能面 父尉 刻銘 「子部」 伝日光作【室町時代 15~16世紀】縦17.7 横13.9

父尉は、現在の「翁」ではほとんど演じられない「式三番」の父尉用の面(おもて)です。白式尉(翁)に似るが、中太のつり上がった眼の表現が異なり、笑みの表情のなかに家長的な尊厳さが示されています。

翁面には、日光とか弥勒の作と伝える作品が多くあり、この面にも日光作の伝称があります


能面 黒式尉 伝越智吉舟作【室町時代 16世紀】縦16.4 横13.9

黒色尉ともいい、「翁」の三番叟(さんばそう)に使用されます。三番叟は狂言方から出て、直面(ひためん)で揉ノ段(もみのだん)を舞った後、この面(おもて)をかけて鈴ノ段を舞います。伝称では、越前の越智山の僧で、十作(鎌倉~室町時代の作家)の一人である越智吉舟の作とされています。尾張徳川家伝来の面のうちでも屈指の名品です。


書蹟

重要文化財・紫紙金字金光明最勝王経巻 第六【奈良時代 8世紀】
彩牋金字 2巻 (上巻)縦25.8 全長484.8 (下巻)縦25.8 全長355.7

『金光明最勝王経』は、『法華経』『仁王経』とともに国家を鎮護する経典すなわち護国三部経の一つとして、奈良時代から重んじられてきました。この写経は天平13年(741)聖武天皇の発願によって諸国に建立された国分寺・国分尼寺の塔中に納入された経巻の一部であると考えられています。あざやかな紫色に染められた紙に、繊細な金界罫を引き、端正な楷書で書写された奈良時代を代表する装飾経です。


重要文化財・法華経普門品【平安時代 12世紀】縦25.0 全長260.0 一巻 彩牋墨書

平安時代後期には、末法到来の思想を背景に浄土思想や法華経信仰が宮廷貴族たちの間に浸透するようになりました。特に現世利益・悪人往生・女人往生を説く『法華経』に対する信仰は篤く、写経の功徳を積極的に説いているため数多く書写され、善美を尽くした華麗な荘厳がこらされました。

本巻もその遺例で、『法華経』第25章にあたる「普門品」(「観音経」とも)が書写されています。表紙・見返・経の天地にいたるまで装飾がこらされ、金截金による界罫線を引き、まろやかな和様の書体で書写された経文が見どころです。見返絵には観音力によって災難からのがれうるというたとえのうち、水難、すなわち経中の「波浪不能没」の情景が描かれています。


紺紙金字華厳経 巻第四【高麗時代 14世紀】一帖 縦31.0 長11.0

唐の実叉難陀訳の『華厳経』80巻の内の一帖です。高麗時代は仏教が隆盛し、仏画・経典が数多く製作されました。ことに紺紙金字経は独得の様式を持っており、日本・中国とも異なり一見してそれと知られます。折本装であること、縦が31cm前後と大きく、界高が20cm前後と余白の部分が広いこと、精緻な線描の見返絵を持つことなどがその特徴です。


陶磁

大名物 曜変天目(油滴天目)【中国・金時代 12~13世紀】
〔伝来〕樋口屋紹札―油屋紹佐―油屋浄祐―徳川家康―尾張徳川家初代義直 一口 高7.6 口径13.3 高台径4.5

一般的な天目形とは異なり、側面が丸みを持った椀形をしており、高台は高く大きめで中央が刳られています。釉も暗紫色で、銀色の大小さまざまな油滴がびっしりと浮かんでおり、中国・山西省懐仁窯の産と考えられています。古くから「曜変」と呼ばれてきましたが、銀の班文がびっしりと表れた釉調は、現在の分類では「油滴」に入ります。


大名物 油滴天目(星建盞)【中国・南宋時代 12~13世紀】一口 高6.8 口径12.1 高台径4.0

尾張徳川家で古くより「星建盞」と称された茶碗です。中国・建窯産の天目で、現在では油滴に分類されます。碗の内外共に無数の油滴斑が浮かび、油滴斑が流下して禾目状になった部分も多く斑・禾目共に銀色に発色しています。室町時代の座敷飾りの規式書『君台観左右帳記』には「ゆてきのごとくほしのあるもの」「如星薬有」と記され、本碗もこのような茶碗の一例として珍重されてきました。


大名物 灰被天目 【中国・南宋時代 13世紀】
[伝来]油屋浄祐-徳川家康-尾張徳川家初代義直 一口 高6.8 口径13.3 高台径4.2

見込と釉溜まりには黒釉の色が見られますが、二重に掛けられた釉薬が腰のあたりで変化し、他の灰被とは異なり柿色を呈しています。表面には、銀色の細かな班文が散っています。灰色の堅く焼締まった土と、浅く、シャープに整えられた高台の特徴から、建窯の産ではないかと考えられています。この灰被天目は、『山上宗二記』に記載された天目のうち、唯一の現存作例です。


刀剣

国宝・太刀 銘 光忠【鎌倉時代 13世紀】

5代将軍綱吉が、元禄11年(1698)に尾張徳川家の江戸屋敷へ御成をおこなった際に、尾張徳川家三代綱誠が拝領した太刀です。備前長船鍛冶の祖である光忠の、数少ない在銘品として貴重な作品です。


国宝・太刀 銘 国宗【鎌倉時代 13世紀】

国宗はもと備前の刀工で、鎌倉に移住して相州鍛冶の基を開いたと伝えられます。本作は地刃ともに健全で出来ももっとも優れた、国宗の代表作といえる一口です。 尾張家二代光友が、次男で高須松平家初代となった義行に与えた一口で、同家三代の義淳が元文四年(1739)正月に本家・尾張家を相続して八代宗勝となった際、高須松平家から持参しました。


国宝・太刀 銘 正恒【平安時代 12世紀】

古備前を代表する名工 正恒作の太刀。腰反り高く、踏張りの強いこの太刀には、古雅の風があると賞賛されています。八代将軍吉宗の将軍退職祝いとして、延享2年(1745)10月19日に尾張家八代宗勝の嫡子宗睦(後の尾張家九代)が拝領しました。


国宝・太刀 銘 長光 名物 津田遠江長光【鎌倉時代 13世紀】

鎌倉時代の名工、長船長光の代表作の一つです。もとは織田信長が所用し、天正10年(1582)本能寺の変の際に明智光秀が安土城より奪い、家老の津田遠江守重久に与え、のちに加賀前田家二代利長・五代将軍綱吉が所持し、さらに六代将軍家宣より尾張徳川家四代吉通が拝領しました。


国宝・太刀 銘 来孫太郎作【鎌倉時代 正応5年(1292)】

鎌倉時代後期の名工 来国俊作の太刀。来国俊は、京都の刀鍛冶で多くの名刀を残しましたが、「孫太郎」の銘を入れた作はこの太刀が唯一。製作した年まで記された太刀として資料的価値は極めて高く、出来映えも完璧に近い優品です。徳川家康が所有した太刀として尾張徳川家に伝来しました。


国宝・短刀 無銘 正宗 名物 庖丁正宗【鎌倉時代 14世紀】

徳川家康遺品(駿府御分物)の名刀で、一時期名古屋城天守内に保管されていました。名工正宗作の短刀の中でも特に有名な作品です。刀身に剣を透かし彫りにした珍しい彫刻が施されています。


国宝・短刀 銘 吉光 名物 後藤藤四郎【鎌倉時代 13世紀】

徳川光義(後の尾張家二代光友)と、三代将軍家光の長女・千代姫との婚礼を祝して、寛永16年(1639)9月、家光より光義へ贈られた短刀


武具・金工

石首魚石入蠟色塗刀拵・脇差拵【江戸時代 〈刀拵〉安政4年(1857) 〈脇差拵〉安政元年(1854)】所用: 徳川慶勝(尾張家14代)所持 員数: 一口

尾張家14代慶勝のために作られた大小拵(だいしょうごしらえ)で、拵の鞘塗には石首魚(いしもち)の耳石(じせき)が嵌入(かんにゅう)されています。石首魚はニベ科の海魚で、その名前は頭部に大きな耳石(骨)を持つことに由来します。慶勝が慶応2年(1866)、42歳の時に本拵を帯びて撮影した写真が残っています。


葵紋散黄金造毛抜形太刀拵【江戸時代 18世紀】
所用: 徳川将軍家伝来 員数: 一口 法量: 総長96.9 作品番号: 太刀拵25、太刀掛11

柄や鐔などの金具は全て金無垢とし、鞘は金の沃懸地(いかけじ)に金銀の葵紋と唐草を高蒔絵で配した豪華な造りの太刀拵です。重要文化財「太刀 銘 国綱」に付属する太刀拵で、八代将軍吉宗以降、代々の徳川将軍が所持しました。昭和19年(1944)に徳川宗家(将軍家)より徳川美術館が譲り受けました。


葵紋散螺鈿黄金造飾太刀拵【江戸時代 17世紀】
所用: 徳川義直(尾張家初代)所持・浅野但馬守献上 員数: 一口 法量: 総長89.8 作品番号: 太刀拵1

葵紋唐草を透彫りにして宝石を散りばめた純金の金具を付け、鞘は梨子地に平蒔絵で唐草が施され、金貝・蒔絵・螺鈿で葵紋を配した豪華絢爛な太刀拵です。この太刀拵は、尾張徳川家初代義直所用の「小太刀 銘 吉用(よしもち)」(重要美術品)に附属する一口で、義直が浅野家二代幸長(よしなが)の娘・春姫と婚約した際、幸長の弟で幸長の養子となって浅野家三代を嗣いだ長晟(ながあきら)から贈られました。


工芸・その他

竹茶杓【江戸時代 17世紀】作者:古田織部作
所用者: 前田玄以所持 (小堀遠州箱書) 材質: 竹 員数: 1本 法量: 長18.0

白竹で経年による美しい色艶がある茶杓です。節裏に虫喰いの跡があり、典型的な織部の茶杓とは趣が少し異なり、利休写しを思わせる作行きです。面取りの筒に墨で「宗句参 古織部」と書かれています。いわゆる贈筒で、古田織部が宗句すなわち前田玄以に贈った茶杓です。 


竹茶杓 銘 虫喰【桃山時代 16世紀】作者:伝 千利休作
所用者: 徳川光友(尾張家2代)・綱誠(同家3代)・松平義行(高須松平家初代)所持 材質: 竹 員数: 1本 法量: 長18.0

白竹で中節と切止の部分と2つ節があり、中節の下方と切止に穴が空いています。いずれも虫喰の痕と思われ、奇形の竹を用いて、見所としています。

筒は共筒・桧蓋で、〆印のところに「宗易」と「花押(ケラ判)」があります。

桐箱蓋表に、桧製の古箱の蓋表の一部がはめ込まれ、そこには「宰相様より被進候御数奇(寄)道具五色之内 御茶杓 利休虫喰 元禄六年酉五月九日」と墨で記されています。宰相様とは尾張徳川家3代綱誠であり、綱誠が松平義行(高須松平家初代)に御数寄道具(茶の湯道具)5種の1つとして与え、後に尾張家に戻った茶杓です。


名物 竹茶杓 銘 泪【桃山時代 16世紀】作者:千利休作
所用者: 古田織部・徳川家康(駿府御分物)・徳川義直(尾張家初代)所持 材質: 竹 員数: 1本 法量: 長16.8

天正19年(1591)2月、豊臣秀吉に切腹を命ぜられた千利休が、自ら削り、最後の茶会に用いた後、古田織部に与えられ、織部は長方形の窓をあけた筒をつくり、その窓を通してこの茶杓を位牌代わりに拝んだと伝えられています。 

『駿府御分物御道具帳』四「色々御道具帳」には「一 利求茶さく 壱本」とあり、ここでは「泪」の銘は見られませんが、元和9年(1623)2月に、2代将軍秀忠が江戸の尾張屋敷を公式訪問した際の記録『元和御成記』には「涙の茶杓」、尾張家2代光友が初代義直から遺産を譲り受けた際に編纂された『慶安四年御数寄御道具帳』では「一 御茶杓 利休 涙」と記されています。『玩貨名物記』・『古今名物類聚』所載。



尾張徳川家について

尾張徳川家は、江戸時代に創設された大名家です。徳川将軍家に連なる御三家の筆頭格で、諸大名の中でも最高の格式(家格)を誇っていました。

初代は徳川家康の9男義直(1600~50)です。義直は慶長12年(1607)、父・家康の命で尾張国(現在の愛知県西部)の大名となり、名古屋城を居城としました。61万9500石の石高を領し、尾張国や美濃国の一部などを領地としていました。御三家の重要な役割として、徳川将軍家に跡継ぎが無い時には、尾張徳川家は紀伊徳川家とともに将軍後継者を出す資格がありましたが、尾張徳川家からは将軍を出すことはありませんでした。

初代義直は学問を好み、儒教に傾倒して文治政策を推し進め、2代光友(1625~1700)以降の歴代当主もまた、学問に励みました。7代宗春(1696~1764)は、8代将軍吉宗がかかげる質素倹約政策に反して積極的な自由放任政策をとり、城下町名古屋に繁栄をもたらした結果、「芸どころ」名古屋と呼ばれるきっかけを作りました。

7代宗春が8代将軍吉宗の命で隠居謹慎を命ぜられたあと、8代宗勝(1705~61)が分家の高須松平家から尾張徳川家に入り家督を継ぎました。宗春の治世の放漫財政と風紀の乱れを一掃し、人心の刷新をはかった宗勝の政治改革は、9代宗睦(1732~99)へと継承され、その後尾張徳川家は、将軍家や御三卿から養子を迎えながら、幕末へと向かいました。

幕末維新期の尾張徳川家のかじ取りを担ったのが、分家の高須松平家出身で尾張徳川家の家督を相続した14代慶勝(1824~83)でした。慶勝は将軍継嗣や外交問題で時の大老・井伊直弼と衝突して隠居謹慎を命ぜられ、慶勝の弟・茂徳(1831~84)が尾張徳川家の家督を継いで15代となりました。慶勝も謹慎解除後は復権し、年少の14代将軍家茂を補佐しました。15代将軍慶喜が大政奉還した慶応3年(1867)当時、尾張徳川家は慶勝の子の16代義宜(1858~75)が当主で、慶勝は隠居ながらも義宜を後見する立場にいました。

16代義宜の早世により、慶勝は高松松平家より義礼(後の尾張徳川家18代 1863~1908)を迎え、その後、越前松平家から迎えられたのが19代義親(1886~1976)でした。

義親は、歴史学者・生物学者であったと同時に、政治家・事業家としても盛んに活動しました。その一方で伝来の美術品の保全を図るため、昭和6年(1931)財団法人尾張徳川黎明会を設立、同10年名古屋の地に美術館を建設し、尾張徳川家伝来の宝物の公開を始めました。徳川美術館の開館です。義親の後は20代義知(1911~92)・21代義宣(1933~2005)が継ぎ、現在22代義崇(1961~)が美術館の館長を務めています。



尾張徳川家歴代の系図


徳川美術館館長メッセージ

            徳川美術館館長 徳川義崇 氏


徳川美術館は、尾張徳川家2代当主の徳川光友の隠居所であった大曽根別邸の跡地に昭和10年に開館した、日本の私立美術館の中では4番目に歴史のある美術館です。 また、旧大名家のコレクションをもとに旧大名家自らが設立した日本で最初の美術館であり、愛知県の登録博物館第1号でもあります。 創設者は私の曽祖父にあたる尾張徳川家19代当主徳川義親で、大正から昭和初期にかけて関東大震災や戦争などの影響で不安定な社会情勢が続く中、大名文化を後世に伝える文化財の散逸を防ぐために私財を寄附して財団を作り、徳川美術館を設立しました。

徳川美術館のコレクションは、徳川家康の没後に尾張徳川家に形見分けされた家康の遺愛品を中心に、歴代当主の遺愛品なども遺されており、御三家筆頭という家格とあいまって、質・量ともに全国屈指の大名道具コレクションとなっています。 また、単に鑑賞目的の美術品として蒐集されたものではなく、大名家の生活の中で実際に使われた道具として伝わったことを物語る文献資料が遺されていることも、徳川美術館のコレクションの大きな特長となっています。

個々の作品を展示ケースに並べて鑑賞していただくだけでは、そこから得られる知識・経験は限られたものになってしまいます。 徳川美術館では、第二展示室に名古屋城二之丸御殿にあった茶室を、第三展示室に同じく二之丸御殿にあった広間を、そして第四展示室には二之丸御殿にあった能舞台を復元し、大名道具が実際に使われた空間の中に作品を置いてご鑑賞いただく体系展示の手法を全国の美術館の中でもいち早く採り入れ、茶道具の取り合わせの美や書院飾りの様式美、そして能舞台に映える能装束の華やかさなどをご鑑賞いただけるようになっています。

戦前の帝冠様式建築の代表的な例として有形文化財に登録されている本館では、大名文化を様々な観点からご紹介する企画展示を行っています。 同じ作品でも、視点を変えれば違った側面が見えてくる面白さをお楽しみいただければと思います。 また、毎年2月初旬から4月初旬にかけては、恒例となった雛道具が展示され、名古屋の春の風物詩となっています。

ときどき、「源氏物語絵巻を見に行ったのですが展示されていなくて残念でした」というお話を耳にすることがあります。 わざわざ徳川美術館まで足をお運びいただいたのにご覧いただけなかったことは大変心苦しく思いますが、国宝源氏物語絵巻をはじめとする一部の作品は脆弱なため、作品保護の観点から展示期間が制限されております。 また、展示期間に制限がない作品においても、限られた展示スペースの中でより多くの作品をご紹介させていただくためには、定期的に展示替えを行う必要があります。 美術品をご鑑賞いただいてこその美術館ではありますが、その一方で貴重な文化財を後世に遺す使命もあり、いつでもご希望の作品をご鑑賞いただけるものではないことをご了承いただければ幸いに存じます。

またときには、「源氏物語絵巻は見られなかったけど、素晴らしい作品が数多く展示されていて感激しました」というようなご感想をいただくこともあります。 約260年にわたって泰平の世が続いた江戸時代には、様々な芸能や工芸が育まれました。 泰平の世だからこそ育むことができた日本独特の文化や美意識を、徳川美術館のコレクションを通じで感じていただけたとしたら、これに勝る喜びはありません。

2020年に開催が予定されている東京オリンピックに向けて、観光立国という言葉をよく耳にするようになりました。 徳川美術館としても、大名文化を海外の方々にご紹介する役割をしっかりと担っていきたいと思います。 また、海外の方々ばかりでなく、若い世代の方々をはじめとして、より多くの方々に徳川美術館に足を運んでいただけるように、様々な側面から情報発信を行うとともに、新たな試みの企画にも積極的に取り組んでいく所存です。


群雄割拠した戦国時代、諸豪族は、その勢力を保持するために城郭を築き、均衡を保ちつつ抗争を繰り返してきました。尾張国では、織田信長が天下統一を目指して勢力を拡大し本拠を清須から安土へ移す過程で、石垣を主体とし、「天守」という高層建築を擁する独特の城郭が生まれました。信長が安土城を建造して以降、築城技術は飛躍的に発展し、信長に続いて天下を統一した豊臣秀吉は、大坂城・伏見城・聚楽第をはじめとする空前の規模の巨大城郭を出現させました。築城技術の粋を結集し、城郭普請の到達点に位置づけられるのが、徳川家康によって築かれた名古屋城です。  この展覧会では、織田信長の居城の変遷を軸に、秀吉・家康へと繋がる天下人の系譜をたどりながら、三人に関わる城や武将の遺品・史料の紹介を交えつつ、天下の名城として名高い名古屋城の歴史と構造と魅力に迫ります。特に名古屋城天守台を築いた秀吉恩顧の武将・加藤清正について、徳川美術館に遺されるゆかりの品々を通して、その生涯を垣間見ます。


激動の幕末、江戸幕府の権威が失墜していくなか、天璋院と和宮はそれぞれ政治的な使命を帯び、徳川将軍家に御台所として嫁ぎました。島津分家に生まれ近衛家養女として13代将軍家定に嫁いだ篤姫、公武一和をはかるため天皇家から14代将軍家茂に降嫁した和宮、同じ将軍御台所といえども、その生まれや育ちは対照的です。二人は当初こそ対立しましたが、やがて訪れる幕府崩壊の危機に面して徳川家の家名存続に尽力し、江戸無血開城を成し遂げ、その難局を乗り越えました。  二人が生活の場とした幕末の江戸城大奥は、将軍と御台所を取り巻く側室や女中など多くの女性たちの住まう場でもあり、細かなしきたりのもと、日々の日課や年中行事が行われ、爛熟を極めました。武家と公家という二人の出自の違いを反映しつつも、いずれも勝るとも劣らない華麗さを誇った大奥での暮らしぶりを再現し、徳川の世の終焉を見届けた二人の波乱の生涯を振り返ります。 


古今東西、美術品・芸術品は、為政者が権力を視覚化するために蒐集され、あるいは製作されてきたという一面を持ちます。この展覧会では、将軍家をはじめ大名家に仕え、権力の表象に関わった匠たちの作品に注目します。工芸では政常など、お抱えの刀工による刀剣や、後藤家代々による刀装具、幸阿弥家などによる蒔絵を中心に展観します。絵画では、狩野・住吉・南蘋・板谷派などを紹介します。そして、どのような目的で美術品が生み出され、どのような図案が取り込まれてきたのかについて考えながら、徳川家をはじめとする大名家に仕えた職工の芸術美を探ります。


徳川美術館館内マップ



徳川園

徳川園は、池泉回遊式の日本庭園で、江戸時代の主だった大名庭園もこの様式です。 清流が滝から渓谷を下り海に見立てた池へと流れるありさまは、日本の自然景観を象徴的に凝縮しています。

さらに徳川園は、高低差の大きな地形、既存のまま取り入れた樹林、立体的に迫る大きな岩組みが特徴で、変化に富んだ景観を大胆に切り替える構成を用いて大名庭園の「荘厳さ」を大観できるようにしています。 新緑や紅葉、牡丹や花菖蒲の花々など四季を通じて楽しめる庭となっています。

徳川園散策マップ



ガーデンレストラン徳川園

徳川園の緑豊かな自然と、壮大で清らかな大地「龍仙湖」を望む、メインダイニング。 料理は地元の食材を中心に選び、シェフの感性と確かな技術が凝縮されたフランス料理。

 厳選された300種類のワインと共に、上質なひとときをお過ごしください。


宝善亭

季節毎に表情を変える小径、ゆったりと時流れる中で季節を感じながら宝善亭の心づくしのお料理をお楽しみ下さい。


蘇山荘

汎太平洋博覧会(昭和12年)の迎賓館を移築した歴史的建造物の蘇山荘。 カウンター、ソファ席、個室を設けており、草庵的な緑の庭園を眺めながら昼は喫茶、夜はバーとしてお楽しみ頂けます。

少人数パーティー、披露宴の二次会などもご利用できます。


徳川美術館交通アクセス


電車・バス




鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使



協力(敬称略)

徳川美術館 〒461-0023 名古屋市東区徳川町1017 TEL 052-935-6262



※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。  

ZIPANG TOKIO 2020

2020年、東京でオリンピック・パラリンピックが開催されます。 この機会に、世界の人々にあまり知られていない日本の精神文化と国土の美しさについて再発見へのお手伝いができればと思います。 風土、四季折々の自然、衣食住文化の美、伝統芸能、行事、風習、ものづくりの技の美等、 サイトを通じて、平和な国、不思議な国、ZIPANG 日本への関心がより深かまるならば、私が密かに望むところです

もしもこのサイトに同じ思いをお持ちの皆様から、素敵な情報や画像をお寄せ戴ければこの上ない喜びです。以下のEメールアドレスへご連絡下さい。

E-mail aromajinja@gmail.com ( ZIPANG 2020 編集部 )。

2020, will be held the Olympic Games and Paralympic in Tokyo.

On this occasion, for the little-known beauty of the spiritual culture and national land of Japan to the people of the world I think that if we help to re-discover.

Climate, nature of the four seasons, of food, clothing and shelter cultural beauty, traditional arts, events, customs, beauty, etc. of the work of making things,

Through the site, peaceful country, a strange country, if the interest is more depth or round to ZIPANG Japan, is where I want secretly.


写真ご協力:高山祭(高山市)/ 富士山(富士市)

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