宇佐神宮は全国に4万社あまりある八幡様の総本宮である。
八幡大神(応神天皇)・比売大神・神功皇后をご祭神にお祀りし、神亀2年に創建された。
皇室も伊勢の神宮につぐ第二の宗廟(そうびょう)として御崇敬になり、
一般の人々にも鎮守の神として古来より広く親しまれてきました。
八幡総本宮 宇佐神宮について
由緒
八幡さまは古くより多くの人々に親しまれ、お祀りされてきました。
全国約11万の神社のうち、八幡さまが最も多く、4万600社あまりのお社(やしろ)があります。
宇佐神宮は4万社あまりある八幡さまの総本宮である。
御祭神である八幡大神さまは応神天皇のご神霊で、571年(欽明天皇の時代)に初めて宇佐の地に ご示顕になったといわれます。応神天皇は大陸の文化と産業を輸入し、新しい国づくりをされた方です。725年(神亀2年)、現在の地に御殿を造立し、八幡神をお祀りされました。
これが宇佐神宮の創建である。
宇佐の地は畿内や出雲と同様に早くから開けたところで、神代に比売大神が宇佐嶋にご降臨されたと『日本書紀』に記されています。比売大神様は八幡さまが現われる以前の古い神、地主神として祀られ崇敬されてきました。八幡神が祀られた6年後の731年(天平3年)に神託により二之御殿が造立され、宇佐の国造は、比売大神をお祀りしました。
三之御殿は神託により、823年(弘仁14年)に建立されました。
応神天皇の御母、神功皇后をお祀りしています。神功皇后は母神として神人交歓、安産、教育等の守護をされており、そのご威徳が高くあらわれている。
八幡大神の御神徳は強く顕現し、三殿一徳のご神威は奈良東大寺大仏建立の協力や、勅使・和気清麻呂(わけのきよまろ)公に国のあり方を正してゆく神教を賜ったことで特に有名です。皇室も伊勢の神宮につぐ第二の宗廟としてご崇敬になり、勅祭社16社に列されています。また、一般の人々にも鎮守の神として広く親しまれてきました。
八幡信仰とは、応神天皇のご聖徳を八幡神として称(たた)え奉るとともに、仏教文化と、我が国固有の神道を習合したものとも考えられています。その長い信仰の歴史は宇佐神宮の神事や祭会、うるわしい建造物、宝物などに今も見ることができます。千古斧(おの)を入れない深緑の杜(もり)に映える美しい本殿は国宝に指定されており、総本宮にふさわしい威容を誇っている。
古来様式の八幡造「国宝 宇佐神宮本殿」
八幡造は切妻造の2つの屋根が前後にならぶことを特徴としている。
国宝 宇佐神宮本殿の側面。格式のある、現代に通じるモダンさを感じるデザインである。
ご祭神
勅使門(ちょくしもん)の奥に本殿があり、左より順に一之御殿、二之御殿、三之御殿と並んでいる。一之御殿から順に八幡大神、比売大神、神功皇后をお祀りしてある。
八幡さまは古くより多くの人々に親しまれ、お祀りされてきました。
全国約11万の神社のうち、八幡さまが最も多く、4万600社あまりのお社(やしろ)があります。
宇佐神宮は4万社あまりある八幡さまの総本宮です。
八幡大神[誉田別尊(応神天皇)]
東大寺の大仏建立や道鏡の神託事件の時など、数々のご神威をあらわし皇室を護られたことで朝廷から厚く信仰されてきました。また皇室だけでなく、清和源氏をはじめ全国の武士も武運の神「弓矢八幡」として崇敬を寄せ、一般の人々にも鎮守の神として親しまれてきました。6世紀、菱形池のほとりに初めてご顕現された八幡大神は「誉田天皇広幡八幡麿」また「護国霊験威力神通大自在王菩薩」 と名乗られたと伝えられている。仏教の世界でも八幡大菩薩として崇(あが)められ、元寇の時に神風を吹かせた神は八幡様であるとされている。
元寇 元・高麗連合軍が襲来したが、1281年(弘安4年)7月30日の夜、総勢4千4百隻の船と14万人ともいわれる元軍の大半が神風が吹き一夜にして、鷹島周辺の海底に沈んだ。
「護国霊験威力神通大自在王菩薩」の名の通り自在なる御働きをお顕(あらわ)しになる。
また、「八幡神」をお祀りしている八幡神社は全国に存在し、
八百万(やおよろず)の広がりを持つ強いご神力でご守護されている。
比売大神[多岐津姫命・市杵嶋姫命・多紀理姫命]
天照大御神(あまてらすおおみかみ)と素戔嗚尊(すさのおのみこと)の誓約によって誕生したとされる神で、多岐津姫命(たぎつひめのみこと)・市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)・多紀理姫命(たぎりひめのみこと)の三女神のことを言います。筑紫の宇佐嶋(宇佐の御許山)に天降られたと伝えられており、八幡様のあらわれる以前の古い神様、地主神であるとされている。
海北の道中の主として筑前(福岡)の宗像大社や宮地嶽神社、
安芸(広島)の厳島神社などにも祀られており、学問・芸術の上達から財運や
交通安全(航海の安全)など幅広くご守護をされている。
宇佐市御許山には宇佐神宮「奥の院」がある。
神功皇后(息長帯姫命)
神功皇后は、香椎(かしい:福岡県)の斎宮(いわいのみや)で天神地祇(てんじんちぎ)の教えを仰いで熊襲(くまそ)を鎮められた後、皇祖の神助(しんじょ)を得て大陸との交渉を成し遂げられました。『日本書紀』には皇后の敬神(けいしん)の様子や、後に宇美(うみ:福岡県)でご誕生になる応神天皇が胎中天皇であられたこと等が記されています。
神功皇后は母神として神人交歓、安産、教育などの守護をされており、
そのご威徳が高くあらわれています。
5世紀神功皇后が三韓征伐の折に発見し我が子応神天皇に産湯を使わせたという伝説の湯。
数十年前に同じ湯につからせていただいたのを思い出しました。
また、大変に恐れ多いのですが、近くにある、今上天皇陛下と皇后美智子様が皇太子殿下、美智子皇太子妃の折にご入浴されたという温泉(当時は縁起の良い瓢箪形でした)にも・・・・・。
建物の前庭には、現在も当時記念に建てられたお二人の優しいお姿の銅像が立っている。
八幡大神ゆかりの伝承
鍛冶翁
欽明天皇の29(569)年、宇佐神宮境内の菱形(ひしがた)池のほとりの泉のわくところに、ひとつの身体に八つの頭という奇異な姿の鍛冶をする翁があらわれて、この姿を見た者はたちまち病気になったり死んだりしました。
大神比義(おおがのひぎ)が見に行くと老人の姿なく、かわりに金色の鷹(たか)が見えました。比義が『誰かによって鷹に変えられたのか、自分の意志で鷹になったのか』と問うと、鷹は金色の鳩(はと)となって比義の袂の上にとまりました。
神が人を救済されようとして自ら変身されたことを知った比義が、3年あまり断食をして祈り続けたところ、ついに欽明天皇32(571)年2月初卯の日に、この泉のかたわらの笹の上に光かがやく3才の童子があらわれ『われは誉田の天皇広幡八幡麿(ほんだのすめらみことひろはたのやはたまろ)なり。
わが名は護国霊験威力神通大自在王菩薩(ごこくれいげんいりょくじんつうだいじざいおうぼさつ)で、 神道として垂迹せし者なり』と告げられました。
そしてたちまち黄金の鷹になって駅館川(やっかんがわ)の東岸の松の上にとどまったといわれます。 そこに和銅元年(708)鷹居社をつくり八幡さまを祀り、のち霊亀2年(716)小山田の林に移られ、ここに小山田社を造営。神亀2年(725)年に現在の社地、亀山(かめやま)(菱形(ひしがた)山とも小椋(おぐら)山ともいう)に移されて八幡大神様が鎮座されたのが宇佐神宮の創立である。
上宮の裏、菱形池のほとりに三つの霊泉があります。
これを御霊水(ごれいすい)、または御鍛冶場(おかじば)、下井の霊水とも言い、八幡大神が御現れになったところであるとされています。
ここには八角の影向石(ようごうぜき)があり大神が神馬に召され、天翔けられたと伝えられる馬蹄の跡がある。また、奈良朝の末ごろ、社僧の神息(しんそく)が御霊水の前に三個の井戸を掘り、この水で八幡大神の神威を頂いて刀を鍛えました。これが社宝となっている『神息の刀』と伝えられている。
宇佐神宮境内の菱形(ひしがた)池
社宝となっている『神息の刀』が収められている。宇佐神宮の由来を伝える託宣集によると、八幡神は刀鍛冶と深い関係があり、奈良時代の社僧・神息は刀工の祖と伝えられている。
東大寺の大仏建立
奈良の大仏は聖武天皇の発願で天平17年(745年)に制作が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会(かいげんくようえ)が行われました。
大仏を作るために使われた金属は銅499.0トン、すず8.5トン、金0.4トン、水銀2.5トンである。
聖武天皇は疫病や社会不安から国を鎮護するための国家的大事業として東大寺を建立していましたが、天皇が沢山の費用を使って仏教寺院を建立すれば、貴族からどんな反対の意見が出るかもしれません。そんな心配のある時に、宇佐の八幡神から「われ天神地祇(てんしんちぎ)を率(ひき)い、必ず成し奉(たてまつ)る。銅の湯を水となし、わが身を草木に交(まじ)えて障(さわ)ることなくなさん」という協力の託宣が出されました。
八幡神は天の神、地の神を率いて、わが身をなげうって協力し、東大寺の建立を必ず成功させるというのですから、聖武天皇にとって、これほど心強いことはありません。大仏に塗(ぬ)る金が不足すると金は必ず国内より出るという託宣を出し、やがて陸奥国から金が献上されてきました。
奈良の国宝「東大寺と大仏」
神輿発祥の地 宇佐
また、大仏鋳造直後の天平勝宝元(749)年12月に八幡大神とお供の宇佐宮の女禰宜(めねぎ)・大神杜女(おおがのもりめ)が大仏を拝するため、紫の輿(こし)に乗って転害門(てがいもん)をくぐりました。これが「神輿(みこし)」の始まりとされています。
紫の輿とは天皇が使用する高貴なものでした。転害門では大勢の僧侶、文武百官(もんぶひゃっかん)が出迎えました。東大寺では八幡神を迎え、聖武太上(しょうむだいじょう)天皇、考謙(こうけん)天皇、光明皇太后(こうみょうこうたいごう)の行幸のもと、僧侶5000人の読経(どきょう)、呉楽(くれがく)、五節舞(ごせちのまい)などの法要が賑々しく営まれました。
※『神輿』は宝物館にてご鑑賞いただけます。
また、三年後の天平勝宝4(752)年に行われた東大寺大仏開眼法要について、『東大寺縁起(えんぎ)』には、次のように記されています。開眼法要のため聖武太上天皇・孝謙天皇が大仏殿に入御され、続いて八幡神も入御になりました。そのとき、「神明霊威」により内裏に「天下太平」の文字が出現しました。おめでたいということで、年号を天平勝宝から天平宝字に改元したといわれている。
大仏建立の協力の褒美(ほうび)として朝廷から八幡神へ封戸800戸・位田60町がおくられ、東大寺が完成すると東大寺を護(まも)る神として、寺の近くに手向山(たむけやま)八幡が分霊(ぶんれい)として祀られました。八幡神は奈良の人々に強力な印象を与え、国家神としての第一歩を踏み出したのでした。
東大寺を護(まも)る神、奈良の手向山(たむけやま)八幡
和気清麻呂とご神託
神護景雲3(769)年、女帝・称徳天皇 (復祚:孝謙天皇)の寵愛を受け、しばしば政治に介入していた僧・弓削道鏡(ゆげのどうきょう)は皇位を狙い、「道鏡を皇位に就かせたならば国は安泰である」とするお告げが宇佐八幡大神よりおろされたと太宰主神(だざいのかんづかさ)習宣阿曾麻呂(すげのあそまろ)という者にうその奏上をさせます。
宇佐神宮を深くご崇拝になっておられた天皇は、真相を確認するため、すぐに官僚であった和気清麻呂公を派遣します。公は出発に際して次のような歌をお作りになりました。
西の海たつ白波の上にして なにすごすらんかりのこの世を
清麻呂公は都を立って10日余りの旅程で宇佐神宮に着き、斎戒沐浴して神殿にぬかづき、神護景雲3年(769)7月11日、
「我が国は開闢(かいびゃく)以来、君臣の分定まれり。臣を以って君と為すこと未だあらざるなり。天津日嗣(ひつぎ)は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除(そうじょ)すべし。」とのお告げを受けます。
そこで八幡大神託宜奏記二通を作り、一通は神宮に納め、一通を陛下へご報告するものにして、同月の21日に都に帰り着き御所へ報告しました。このとき清麻呂公は37歳でした。
道鏡の怒りをかった清麻呂公は、別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させられて脚(あし)の腱(けん)を切られた上、大隅国へ流されました。
その途中、暗殺を謀って送られた道鏡の刺客(しかく)から、突然の天地雷鳴や300頭あまりの猪の大群が和気清麻呂を護り、さらに宇佐へ詣でたところ、道鏡に傷つけられた脚が回復するなど、八幡大神のご守護により数々の奇跡がおきたと伝えられている。
翌年の神護景雲4年8月4日(770)天皇が西宮神殿で崩御、光仁天皇が御即位になって年号を宝亀と改め、同年9月6日清麻呂公は召し返され、翌宝亀2年3月29日(771)には元の位に着き、9月16日に薩摩の国員外の介に任ぜられたが、間もなく豊前の守(かみ)に還されました。
公は古事にも通じ「民部省例(みんぶしょうれい)」や「和氏譜(わしふ)」を著し、当時の大事業である平安遷都の大功を残しました。又道鏡は冠位をはがれ、下野国薬師寺別当として赴任(ふにん)させられましたが、宝亀3年4月7日にその生涯を閉じました。
このようにして、宇佐神宮の国体擁護のご神徳と、和気公の至誠の精神とが皇室をご守護することとなりました。
この後、宇佐神宮への勅使を宇佐使(うさづかい)また和気使(わけづかい)といい、和気氏が派遣されるのが例となりました。
清麻呂公は当宮末社、護皇(ごおう)神社に祭祀されている。
清麻呂公を祀る護皇(ごおう)神社
神仏習合のはじまり 隼人の乱と放生会
奈良時代のわが国は、中国の唐(とう)にならって、律令国家の建設を進めていました。しかし、東北の蝦夷(えみし)と南九州の隼人(はやと)はその中に組み込まれることに強く抵抗しました。『八幡宇佐宮御託宣集』(以後『託宣集』という)には、8世紀のはじめころに起きた隼人の反乱を制圧するため、八幡神を神輿(みこし)に乗せ、宇佐の人々も参加されたことが記しています。
その歴史は、宇佐神宮の重要な祭礼(さいれい)である「放生会(ほうじょうえ)」として今日に伝えられており、隼人との戦いで殺生の罪を悔(く)いた八幡神が、仏教に救いを求めたことに起因しています。これを契機に、宇佐での神と仏が習合した先進的な思想が成立しました。
仏教と銅と新羅神
宇佐での神仏習合を考えるうえで注目されるのが、7世紀の末ころに建立されていた古代寺院です。『託宣集』には、隼人征討には八幡神とともに、虚空蔵寺と法鏡寺の関係者も加わっていたことが記されている。 また、放生会では、下毛郡の古要(こひょう)社(大分県中津市)と上毛郡の古表社(福岡県吉富町)が傀儡子舞(くぐつのまい)を奉納し、さらに田川郡からは、香春岳(かわらだけ)(福岡県香春町)の銅で作った鏡が奉納されていました。8世紀の『豊前風土記』には、「むかし新羅の神が渡ってきて、この河原に住んだので鹿春郷(かわらのさと)と名づけた」ことなどが記されている。つまり、田川郡には銅を産する香春岳があったので、新羅国(しらぎのくに)の神を祀る技術集団が住んでいたことが分かる。八幡神の誕生伝説に見える、「辛(韓)国の宇豆高島」や「鍛冶翁」との関係で注目されている。
弥勒寺
宇佐宮関係の史料によると、神亀2(725)年に宇佐宮を現在の小倉山に移した際、東方の日足の地に弥勒禅院を建立している。そして、天平9(737)年には宇佐宮社殿の西に移し、天平10(738)年に金堂・講堂を建立しました。この事業には聖武天皇の大きな援助がありました。初代の別当(長官)には虚空蔵寺の法蓮がなったとも伝えています。以後、弥勒寺は宇佐宮とともに、神仏習合の輝かしい歴史を続けることになる。
フィトンチッドが浮遊する「弥勒寺の境内 西参道」に癒される
現在の神宮庁や参集殿などがある正参道の西側は、弥勒寺の境内でした。呉橋を渡った西参道の南側には、寺跡の遺構が保存されています。発掘調査によって、金堂の前面に東塔と西塔を並べた、奈良の薬師寺と同じ伽藍配置であることが確認されています。出土する瓦(かわら)の文様は、宇佐の伝統的なもの以外に、大宰府系のものもあり、国の援助で造営されたことを示している。
10年に一度の勅使祭。天皇の使者が派遣されて行われる神社の祭祀「勅使祭」そのときにだけしか扉が開かれることのない美しい神橋「呉橋」は大分県指定有形文化財である。
何故、国宝でないのかが不思議なくらいである。
参拝について
宇佐神宮オリジナル御朱印帳
宇佐神宮御朱印
お問い合わせ
宇佐神宮庁 〒872-0102 大分県宇佐市大字南宇佐2859
TEL:0978-37-0001
交通アクセス
協力(順不同)
宇佐神宮 〒872-0102 大分県宇佐市大字南宇佐2859 TEL:0978-37-0001
一般社団法人宇佐市観光協会 〒872-0102 大分県宇佐市南宇佐2179-3
TEL:0978-37-0202
文化庁 〒100-8959 東京都千代田区霞が関3丁目2番2号 電話番号(代表)03(5253)4111
鎹八咫烏 記
0コメント