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国際陶磁器フェスティバル美濃 名誉総裁秋篠宮眞子内親王殿下 おことば
1986年から3年毎に開催されている「国際陶磁器フェスティバル美濃」が、このたび10回目の節目を迎えますことを、誠に喜ばしく思います。ここに至るまで、陶磁器産業の振興と文化の高揚に寄与してこられた多くの方々のご尽力に対し、深く敬意を表します。
陶芸の産地として名高い美濃で開催される「国際陶磁器フェスティバル美濃」は、陶磁器に関わる各種の事業から構成されておりますが、その中心的な事業として、国際的な規模で開催される「国際陶磁器コンペティション」があります。本年は、世界の60の国と地域から2, 579作品の応募があり、国内外の審査員による審査を経て、入賞作品と入選作品が選出されました。ご観賞いただく皆様には、これらの作品を通じ、陶磁器の多様な「美」を感じ取っていただけることと思います。
また、本フェスティバルにおいては、産業界と地域の芸術家が創意工夫をこらして企画した事業が多数開催されておりますので、多くの方々にご来場いただき、これらの活動に触れ、楽しまれることを期待いたしております。
「国際陶磁器フェスティバル美濃」が、今後とも、新たな陶磁器産業と文化を創造する中心的な存在でありつづけることを、そして、この機会に地域や国を超えた交流が広がり、陶磁器文化の発展に大きく貢献していくことを願っております。
いよいよ9月15日(金)から多治見市、土岐市、瑞浪市において「国際陶磁器フェスティバル美濃’17」が開幕いたします。今回は、前回ご紹介した以降に決定した特別イベントを中心にご案内いたします。
はじめてご覧になられる方もおられますので、まず、簡単に「国際陶磁器フェスティバル美濃」について。
国際陶磁器フェスティバル美濃とは
「国際陶磁器フェスティバル美濃」は、日本を代表する陶産地である岐阜県多治見市・瑞浪市・土岐市を舞台に、1986年から3年に1度開催している世界最大級の陶磁器の祭典です。 「土と炎の国際交流」をメインテーマに、陶磁器のデザインと文化の国際的な交流を通じて、更なる陶磁器産業の発展と文化の高揚を目指しています。
メインイベントである「国際陶磁器展美濃」は、国際的に認知された陶磁器コンペティションで、世界中の国と地域の作品が一堂に会す展覧会です。 そのほか、来場された方々が、美濃焼の歴史や魅力、地域の風土を存分に感じ、楽しむことができる、3市の陶磁器産業・地域に密着した事業を多数開催します。
美濃焼とは
7世紀の古墳時代後期、岐阜県東濃地方では山の斜面を掘ってつくった窖窯(あながま)で、土器とは異なる硬質のやきもの「須恵器(すえき)」が焼かれていた。それが、美濃焼の起源と言われている。
窖窯(五斗蒔窯)
やきものの焼成には、素焼き・本焼き・上絵焼成などがあるが、これらを焼成するための窯もいろいろある。窖窯は、その中のひとつで斜面に横穴を掘り、奥に煙突機能の煙出し小穴をあけたのもの。この窖窯(五斗蒔窯)からも、数々の作品が生まれた。
須恵器
その後、平安時代の10世紀初め頃からは、やはり穴窯を使って「白瓷(しらし)」と呼ばれる灰釉をかけたやきものがつくられるようになった。それらは、中国の唐・宋時代の優れた白磁を写したもので、貴族や寺社などに流通していた。
白瓷(しらし)
やがて、白瓷の生産は平安時代の終わり頃から次第にかげりが見られ、釉薬を掛けない、もっぱら碗と小皿のみの生産へと転換していく。このやきものは「山茶碗(やまぢゃわん)」と呼ばれ、このことはやきものが庶民にまで普及しはじめたのと、国内の各地でも生産が始まったためと考えられている。また鎌倉時代から室町時代(13~15世紀)にかけて、隣の瀬戸窯で焼かれていた「古瀬戸(こぜと)」とよばれる灰釉や鉄釉をかけた瓶子(へいし)、四耳壺(しじこ)などと同種のやきものも、わずかであるがつくられていた。
山茶碗(やまぢゃわん)
15世紀末の戦国時代になると、それまでの窖窯とは構造が大きく異なり、熱効率の良くなる工夫がなされた大窯(おおがま)が出現する。安土桃山時代までの約130年間使用され、製品の種類から大きく前期と後期に分けられている。
前期は灰釉や鉄釉を掛けた製品が焼かれ、この頃より茶華道が盛んになったため、中国から輸入されていた唐物(からもの)を写した茶碗や茶入、花瓶などが焼かれていた。
後期には茶道が隆盛を極めるなかで、それまでとは全く異なる「黄瀬戸(きぜと)」「瀬戸黒(せとぐろ)」「志野(しの)」などが生産され、次代の「織部(おりべ)」に至るまで最も華やかな美濃桃山陶の時代を迎える。
古瀬戸系施釉陶器
慶長10年(1605年)ころ、大窯とは異なる量産が可能な連房式登り窯(れんぼうしきのぼりがま)が、佐賀県の唐津(からつ)から導入された。焼成室(しょうせいしつ=製品を焼く部屋)が階段状にいくつも連なる構造となっており、下の部屋の余熱を上の部屋で利用しながら順に焼き上げていくため、熱効率が格段に増した。美濃で最初に導入された窯は土岐市久尻(くじり)の元屋敷(もとやしき)窯であった。この窯で織部が焼かれ、それまでの常識を破った形、幾何学的で斬新な文様をもつものが多くつくられていた。やや遅れて、青磁をまねた御深井釉(おふけゆう)のやきものも現れている。
こうした茶道とのかかわりが次第に薄れていくと、庶民に向けたやきものの生産に転換していった。江戸時代中期には鉄釉による日用食器などが量産され、江戸を中心とした地域に販売されていた。また、江戸時代後期の文化・文政(1804年~1829年)のころには、美濃においても磁器の生産が開始されている。
久尻元屋敷窯跡 美濃窯最古の連房式登窯。
昭和42年、国の史跡に指定された。
明治時代になると美濃焼の生産・販売が自由になったため、窯屋や陶器商が増加した。製品は染付磁器が主流となり、量産するための絵付けの転写技術が開発される一方、手仕事の妙技を見せるものが、当時欧米で盛んに開催されていた万国博覧会に出品されて好評を博した。とくに加藤五輔(かとうごすけ)や西浦圓治(にしうらえんじ)が高い評価を受け、輸出も盛んに行われた。
大正3年(1914年)に起こる第一次世界大戦時では、交戦国の生産減少、供給不足から開戦とともに世界の市場を獲得して好況を迎え、この波に乗って生産業者は増加し、工場施設も拡張されていった。窯については、連房式登り窯から近代的な石炭窯へと転換、成形に関しては電動ロクロの使用に拍車をかけた。
昭和6年(1931年)の満州事変勃発後、日中戦争へと発展していく中で、軍需産業への優先によって石炭が不足し、石炭窯へと移行していた業界は窮地に追い込まれた。さらに、価格等統制令により物価が凍結、太平洋戦争開戦による貿易の途絶えなどの中、多くの陶磁器業者は企業整備令により転業や廃業を余儀なくされていった。
終戦直後、陶磁器業界も大きな打撃を受けていたが、その生産を促したのは被災地からの注文であった。ただし、石炭の不足は戦時中と変わりなく、当初その確保は容易でなかった。輸出も間もなく再開され、円相場が円安ドル高だったことから好調となったものの、不安定な状況はしばらく続いた。しかし、昭和30年代に入ると高度経済成長の波に乗って美濃焼は年々生産を増大させ、生産技術の進歩と上絵付技法の向上などがそれを支えた。
近年になりバブル景気後の長引く不況や、中国などの安価な陶磁器生産地の台頭、食空間におけるライフスタイルの変化などにより、大量生産を主力としてきた美濃焼業界は大変な苦境に直面している。現在は安価な外国製品では対応しづらい多品種少量生産への転換などにより、美濃焼再生が試みられている。一方で、異業種交流や産業観光など多面的な取り組みも行われている。
美濃焼は1300年という伝統と歴史を下地とし、新しい産地へと大きく変わり出している。
前回の会場の様子
前回イベントの様子
食と器と音楽と
様々なアーティストが集う音楽ステージをバックに、屋上広場全体を使用して美濃焼の提案及びフードコートを展開。 絵本作家あだちなみさんと一緒に散策路を散歩して妖精のモチーフを探し、陶磁器に絵付け体験する「森の妖精を探そう! ワクワク絵付け体験」も同時開催。
~美濃焼製品の品評&商談会~
美濃陶磁器企業による、エンドユーザーに対するプレゼンテーション企画。
テーブルコーディネートコンテスト~美濃焼のある日本食卓~
バリエーション豊かな美濃焼を取り入れたテーブルウェアコーディネートコンテストを開催・展示。来場者をおもてなしするテーマテーブルや使用した美濃焼の販売コーナーも設置。
アール・ブリュット美濃展
"アール・ブリュット"とはフランス語で"生の芸術"という意味。陶産地で生きる障がい者の純粋な心を表現。陶磁器を通じ、健常者と障がい者を結ぶ展覧会。
最新情報
ようこそ世界最大級 の陶磁器の祭典へ
「国際陶磁器フェスティバル美濃’17」
鎹八咫烏 記
協力(順不同)
宮内庁 〒100-8111 東京都千代田区千代田1-1 電話:03-3213-1111(代表)
国際陶磁器フェスティバル美濃実行委員会
〒507-0801 岐阜県多治見市東町4-2-5 セラミックパークMINO内 TEL:0572-25-4111
美濃焼伝統産業会館・美濃焼伝統工芸品協同組合
〒509-5142 岐阜県土岐市泉町久尻1429-8 TEL 0572-55-5527
土岐美濃焼卸センター「織部ヒルズ」
〒507-5171岐阜県土岐市泉北山町3-1 TEL:0572-55-1322
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