ZIPANG TOKIO 2020「日本初!伊賀忍者が活躍した城郭を巡るスタンプラリー 是非ご参加を!(弐の巻)」

伊賀・甲賀はもちろん、全国の忍者ゆかりの地には忍者屋敷がある。


伊賀流忍術発祥の地 【伊賀市・名張市】 忍術 忍者は、世界中で日本をイメージする国際語となっている。 映画、テレビそしてマンガでおなじみの「忍者」や「忍術」。超人的で神秘的なイメージの強い忍者は、空を飛んだり、消えたりと、まるで忍者がスーパーマンであるかのよう、あるいは忍術が格闘技であるかのように、間違って解釈されている。 戦乱の時代に必要とされ、発達した忍術は、武術や謀略、破壊工作なども当然含まれますが、心理学や呪術、占術を利用して人間の心理をあやつり、また薬学、医学、天文学など生きるための知識と、人間の能力を最大限に引き出す技術の集大成が本来の忍術なのです。 忍者、忍術とは 封建時代の日本では、戦乱が頻繁に起きていました。その当時、忍者は主に情報収集をおこなうスパイとして雇われ、敵対勢力の動きを察知するという任務を果たしていました。彼らはしばしば、敵を混乱させ、その勢力を低下させるという使命をも帯びていました。「忍者」とは、忍術を駆使してこれらの目的を達成する者たちに対する呼び名でした。 忍術では、武力を行使するのではなく、知力を使った戦術に重きが置かれる。 忍術のある分野においては、敵の心理状態をあやつるために、呪術や占術、心理学、そして超心理学に精通することが求められました。また別の分野においては、自然を熟知して任務を遂行しやすくするために、天文学や薬草などの知識が求められました。 特に、この地域では、呪術と火薬の知識に秀でていました。忍術とは、戦闘のみに限られたものではありませんでした。 歴史を通じて発展した忍術の流派はいろいろありましたが、その中でも伊賀流(三重県伊賀市・名張市)と甲賀流(滋賀県甲賀市)の忍術は、その起源が同じで、もっとも優れた忍術といわれている。 忍術の歴史は 忍術の歴史は、紀元前4000年頃に古代インド文化が中国大陸に伝えられ、そして西暦6世紀頃に、中国から朝鮮半島を経て日本に伝わった「兵法」に求められる。大陸的な兵法は日本で山岳的な兵法へと発展し、今日知られるような忍術が完成しました。


忍の活動 

伊賀忍術

変装術、密偵術、剣術、火術、呪術、薬学、天文学など忍びの技術を紹介します。

忍術には25流派あるといわれているが、その中で伊賀流と甲賀流が群を抜いて優れている 

忍術には25流派あるといわれているが、その中で伊賀流と甲賀流が群を抜いて優れている。伊賀と甲賀は隣接していて、その術技もほとんど同じだが、伊賀は甲賀に比べて特に呪術に秀でていた。  伊賀で呪術が発達したのは、伊賀が盆地で古代から都からの亡命者が多かったからである。古代大和朝廷の呪術をつかさどっていた物部氏や、奇術や軽業などの諸芸を得意とした服部氏などが伊賀に住みつき、呪術を伝えたと考えられる。  忍術は、戦乱の世に必要とされて発達したため、武術、謀略、破壊工作などが含まれるが、心理学、薬学、医学、天文学、呪術、占術など、戦いに直接必要でないものが圧倒的に多い。忍術は、まさに生きるための知恵と技術の集大成であったのである。


忍者研究「忍びの館」

鈴降稲荷神社 (港区赤坂5丁目)

鈴降(ふり)稲荷神社はTBSの入っている赤坂サカスのある丘の裏手に位置し、住宅地に囲まれた一角にある。

天正10年神君伊賀越えの際に家康が伊賀の山中を彷徨っていると、どこからともなく鈴の音が聞こえた。その方向を探って行き着くと、観音堂があり、堂主の山名孝倫という者がいた。山名は厨子の中より三個の鈴を取り出して家康に献じるとともに、付近の住民を集めて家康の道案内と警護をしたという。その後伊賀者が家康に召し抱えられて四谷の地に住む時、彼らは祠を建立し、さきの鈴を神鈴とし、鈴降稲荷神社として祀ったという。

鈴降稲荷神社は元々四谷仲殿町にあり、仲殿町・伊賀町一帯(両町併せて、おおよそ現在の新宿区若葉1丁目。かつて伊賀者が住んだ)が氏子であった。元禄8年上知(土地が御用地として召し上げ)となった際には現在の赤坂一ツ木に替地を給され遷座している。赤坂一ツ木の一部は当時伊賀者の所領であったので、たしかに伊賀者の鎮守社であったのだろう。

ちなみに、四谷仲殿町(新宿区若葉1丁目東部)は、かつて服部半蔵と共に伊賀者を率いた服部仲の下屋敷があったことに由来する地名である。服部仲に属した伊賀者がこの付近に居住したと推測される。

遷座した鈴降稲荷神社は社殿を設け、任命された別当は鈴降山神宮寺別当願性院と称して毎年1月4日に徳川家武運長久を祈願した御札を将軍に献上していた。しかし明治に入って社殿を焼失し建て直すものの関東大震災で大破したため、現在は祠が安置され、赤坂氷川神社が管理されている。今なお地元の信仰を集め、私が訪れたときも2人連れの参拝者がお参りされていた。


氷川稲荷神社 (練馬区大泉町5-15-5)

氷川稲荷神社は大泉氷川神社の境内にある稲荷神社。かつて橋戸村を知行していた伊賀者から信仰を集めた。もとは近くの愛宕神社にあったという。 ここには伊賀者が嘉永2(1849)年に奉納した御手洗石と石鳥居(破損しているものの境内に残る)があり、由緒と伊賀衆108名の名前が刻まれる。 現在は練馬区によって有形文化財に指定されており、氷川神社の境内にはその標示が立っている。

そもそも橋戸村は服部半蔵配下の伊賀者に与えられた7ヶ村に入っておらず、服部半蔵が知行した土地であった (服部正就が知行していたことを示す文書が存在する)。服部正就が伊賀者の頭を罷免された後、何かしらの由縁で伊賀者が直接支配することになったと考えられる。 伊賀者は初め、服部半蔵正成と服部仲保次のどちらかに配属されたが、この地を支配したのは元服部半蔵の配下だった伊賀者であった。 実際に伊賀者の家々の由緒書を調べてみても、氷川稲荷神社に寄進した伊賀衆108名が、かつて服部半蔵正成の下に配属された伊賀者たちであったことを確認することができる。 


 西念寺 (新宿区若葉2丁目)

西念寺は服部半蔵正成が建立した安養院を前身とする寺である。天正7(1579)年、服部半蔵正成は家康の長男である岡崎信康が織田信長から無実の切腹を命じられた際、 介錯役を任じられた。しかしながら実際その時になると正成は涙にむせび介錯することができず、隣にいて見ていられなくなった天方通経が代わって介錯したという(『三河物語』)。 それから15年後の文禄3(1594)年、正成は徳川信康の慰霊のため安養院を建立すると共に出家して「西念」と号した。安養院は麹町清水谷にあったが、 正成の死後、寛永11(1634)年に現在の所在地である四谷に移転し、正成の号である「西念」をとって西念寺と改称した。

境内には服部半蔵正成の墓(写真)と岡崎三郎信康の供養塔があり、どちらも新宿区指定史跡になっている。 また同寺には正成が家康より拝領したといわれる長槍(もとは現存の物より長い槍であったが、火災や震災で破損し約2.6mほど)が残され、新宿区の有形文化財に指定されている。


正忍記

延宝九年(1681)藤一水子正武によって著された忍術の三大秘伝書の一つ。 延宝九年(1681)藤一水子正武によって著された忍術の三大秘伝書の一つ。 紀州流(楠流)忍術の技術を諸伝として、その用術上の心構えを説いている。


忍秘傳

 永録三年(1560)服部半蔵正成によって著された忍術の三大秘伝書の一つ。

永録三年(1560)服部半蔵正成によって著された忍術の三大秘伝書の一つ。 伊賀・甲賀流の伝書として人具を分かり易く説いている。


萬川集海

延宝四年(1676)伊賀の藤林保武によって著された忍術の三大秘伝書の一つ。

延宝四年(1676)伊賀の藤林保武によって著された忍術の三大秘伝書の一つ。 甲賀・伊賀忍術四十九流派の秘伝・忍具を体系的に詳述した忍術の全てを集大成したものである。 1789年に甲賀者によって幕府に献上された。本書には延宝四年甲賀隠士藤林保義序とある。


結縄 ゆいなわ

縄の結び目の形や数によって文字や文書を作る暗号の一つ。

「けつじょう」とも読む。暗号の一つで縄に結び目をつけ軒下にぶら下げておく。結び目の形や数によって文字や文書を作った。


伝達方法

昔の情報の伝達方法は「人から人へ」が基本で、歩く速度と情報の伝達速度は同じであった。そのため、急いで知らせたい情報は、あらかじめ相手と約束事を決めておいて合図で知らせた。合図には、鐘、太鼓、ドラなど音を使うもの、狼煙を使うもの、旗を使うものなどがあった。

忍者は、情報の伝達速度よりも、第三者に知られずに、確実に仲間だけに情報を伝えることを優先した。そのために、忍者は情報を暗号化した。暗号化の方法として、石を並べて文字を表現する「石置き」、木の枝を折る、米粒を青、黄、赤、黒、紫に染めた五色米をまいて色の組み合わせで知らせる、結んだ縄を軒下にぶら下げ「先に行く」「北に行く」などを結び目の形で知らせる「結縄文字」などがあった。


火術・火縄

忍者は火術を得意としていた。鉄砲と共に種子島に火薬が伝来する以前に、すでに甲賀では大陸からの渡来人が火薬を製造していたといわれている。


伊賀と甲賀は、もぐさ、ショウノウ、馬ふんなどの火薬の原料が手に入りやすく、火薬の知識が豊富な渡来人も多かったため、火術が飛躍的に発達した。忍者は、戦国時代まで輸入に頼っていた火薬の原料硝石も、神社の縁の下の古い土などから、独自に採取することができた。

忍者は鉄砲も得意としていた。忍者が戦国大名に重用されていたのは、当時の最新兵器であった、火薬と鉄砲の専門知識を持っていたからでもある。

織田信長を鉄砲で狙撃しようとして処刑されたのも、甲賀や伊賀の鉄砲の名手だった。江戸時代になると、甲賀流砲術は「自知流」、伊賀流砲術は「威風流」「柘植流」として伝えられ、江戸時代の中期以降、忍者は鉄砲部隊として活躍した。


秘密文字(忍者文字)

忍者は、漢字が伝来する以前に存在した文字を秘密文字として、仲間同士の連絡に使った

神代文字は、漢字が伝来する以前に日本に存在した文字。 そしてそれは縄を結んで作り出した「結縄」から生まれたとの説もある。

忍者が活躍した戦国時代には廃れ、解読できる者もいないこの文字を、秘密文字として仲間同士の連絡に使った忍びの知識の深さには驚かされる。


五色米

忍者の仲間同士だけにわかる伝達法として、米を染めその組合せで暗号を作った。

忍者たちは青、黄、赤、黒、紫に染めた米粒の組合せで暗号にしていました。 野球のサインのようにそのつど決めていたのかもしれません。


忍者のくらし

睡眠

忍者は、忍びに適した日や、人の「睡眠」についての研究を重ねた。月明かりのない日や、人の眠りが深い日を選んで忍ぶと、発見されずに目的を達成することができるからだ。 敵が熟睡しているかどうかは、「聞き筒」という筒で寝息を聞いて確かめた。忍者は万一の襲撃の時にも命だけは助かるように、心臓を下にして寝た。


忍者の一日

忍者にとって生活すべてが修行だった。

忍者であることをカモフラージュする為、薬草の栽培、また実益をかねて忍者たちは普段農業に従事していた。そして薬草からさまざまな薬を作るのも日課であった。その中には武器に必要な火薬の製造という大切な仕事も含まれていた。そして修行。体を鍛え、記憶術を研き、寝るときは音をたてず、左向きに横になったり。斬り付けられても心臓だけは守るために。忍者にとって生活すべてが修行だった。


忍者屋敷

伊賀・甲賀はもちろん、全国の忍者ゆかりの地には忍者屋敷がある。


伊賀・甲賀はもちろん、全国の忍者ゆかりの地には忍者屋敷がある。

忍者屋敷は外観は平屋造りで内部は三階建てになっていて、隠し部屋や抜け穴、落とし穴など、いろいろな工夫が凝らされている。

忍者はこの屋敷の隠し部屋で、火薬を調合した。忍者屋敷に仕掛けがしてあるのは、当時の最先端軍事機密であった火薬の調合法を盗もうとして侵入する敵を撃退するためである。忍者屋敷は、忍者の住まいであると同時に、機密の「火薬研究所」でもあった。


七方出

忍者は敵地に潜入する時、正体と目的を隠すために変装した。

忍者は敵地に潜入する時、正体と目的を隠すために変装した。変装は、「虚無僧」「出家」「山伏」「商人」「放下師」(曲芸人)「猿楽師」「常の形」(農民や武士)の7つとされ、忍術伝書では「七方出で立ちの事」または「七化」と呼ばれた。


「雪が降ると伊賀者が泣く」という言い伝え


春日局の頃にあった話です。 
家康の伊賀越えに功績があった伊賀・甲賀の忍を江戸城警備として徳川家は召し抱えました。そのうち甲賀者は大奥の外を、伊賀は大奥の内側の担当になりました。ところが外界から隔離された女の牢獄である大奥では将軍以外男子禁制です。ですから汚れた外の男の姿を見せないよう、伊賀者は後ろ向きで手を繋いで輪になり、女たちに顔を見せないように警護したそうです。これはかなり苦行だったらしく、さらに雪が降る寒い日には意地悪で陰湿な女たちが伊賀者たちに雪をぶつけて苛めることで外に出れない鬱憤を晴らし悦に入ったと言われています。当然振り返ることも怒ることも許されない伊賀者たちは雪が降らないことを祈るしかなかった、という悲しいお話です。



鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
石川 いしかわ観光特使


協力(順不同)

伊賀流忍者観光推進協議会 TEL:0595-22-9670
〒518-0869 三重県伊賀市上野中町2976-1 上野ふれあいプラザ2階

伊賀市観光戦略課 Tel:0595-22-9670
〒518-0869 三重県伊賀市上野中町2976-1 上野ふれあいプラザ2階 

一般社団法人 伊賀上野観光協会 TEL:0595-26-7788
〒518-0873 三重県伊賀市上野丸之内122-4


※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。


ZIPANG TOKIO 2020

2020年、東京でオリンピック・パラリンピックが開催されます。 この機会に、世界の人々にあまり知られていない日本の精神文化と国土の美しさについて再発見へのお手伝いができればと思います。 風土、四季折々の自然、衣食住文化の美、伝統芸能、行事、風習、ものづくりの技の美等、 サイトを通じて、平和な国、不思議な国、ZIPANG 日本への関心がより深かまるならば、私が密かに望むところです

もしもこのサイトに同じ思いをお持ちの皆様から、素敵な情報や画像をお寄せ戴ければこの上ない喜びです。以下のEメールアドレスへご連絡下さい。

E-mail aromajinja@gmail.com ( ZIPANG 2020 編集部 )。

2020, will be held the Olympic Games and Paralympic in Tokyo.

On this occasion, for the little-known beauty of the spiritual culture and national land of Japan to the people of the world I think that if we help to re-discover.

Climate, nature of the four seasons, of food, clothing and shelter cultural beauty, traditional arts, events, customs, beauty, etc. of the work of making things,

Through the site, peaceful country, a strange country, if the interest is more depth or round to ZIPANG Japan, is where I want secretly.


写真ご協力:高山祭(高山市)/ 富士山(富士市)

ZIPANG TOKIO 2020

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