ZIPANG TOKIO 2020「日本遺産 伊賀忍者の史跡 そのⅠ (参の巻)」

忍術の歴史は、紀元前4000年頃に古代インド文化が中国大陸に伝えられ、そして西暦6世紀頃に、中国から朝鮮半島を経て日本に伝わった「兵法」に求められる。大陸的な兵法は日本で山岳的な兵法へと発展し、今日知られるような忍術が完成しました。

歴史を通じて発展した忍術の流派はいろいろありましたが、その中でも伊賀流(三重県伊賀市・名張市)と甲賀流(滋賀県甲賀市)の忍術は、その起源が同じで、もっとも優れた忍術といわれている。

忍者たちから忍者の祖として崇められていた「役行者」

服部半蔵か?

伊賀流忍者博物館内「伊賀流忍者屋敷」の隠し扉

伊賀流忍者博物館内「伊賀流忍者屋敷」来館者飛び入り参加による実演

伊賀流忍者博物館内「伊賀流忍者屋敷」忍者による実演


伊賀忍者に関する「史跡」紹介

史跡

大光寺

伊賀地侍衆の集会場のひとつとされ、南北朝時代には既に開基されていたと伝わっている。岡山の頂上付近に本堂があり、参道には「三体地蔵」等の石仏が数多く点在。戦国時代には本堂だけでなく回廊や仁王門、庫裏(くり)があったとされるが、天正伊賀の乱の際に焼失したと伝えられている。


雨乞山城跡

天正9(1581)年9月27日、近江国日野の城主「蒲生氏郷」(がもううじさと)を大将とした織田軍7,000の兵は、玉瀧口から攻め込み伊賀衆が籠る「雨乞山城」を攻めました。雨乞山城は、その名の通り雨乞いの山を城に転用したもので、山頂を中心に曲輪(くるわ)を配置し、山城に仕立てたものでした。


平楽寺

上野公園にあった寺院で、伊賀衆の結集の場であったと伝えられている。記録によっては「平楽寺城」と書かれたものもあり、城としての機能も兼ね備えていたと考えられている。上野公園内に点在する五輪塔や石仏は、ここが寺院であったころの面影を偲ばせている。


滝仙寺

天正7(1579)年9月17日、青山の滝村(たきむら)に住む伊賀衆、滝三河保義(たきみかわやすよし)は青山峠を越えてきた敵将、柘植三郎左衛門(つげさぶろうざえもん)尉の首を打ち取る程の活躍をしたにも関わらず、討ち死にしました。それを悲しんだ弟の宥海法印(ゆうかいほういん)は、本能寺の変後、兄を供養するためにこの寺を建てたと言われている。


阿波口

天正7(1579)年9月17日、織田信雄は8,000の兵を率いて阿波口(長野峠)から伊賀の国へと攻め込みました。地の利のある伊賀衆は、迫り来る夕闇を利用して弓や鉄砲、槍で応戦。信雄軍はやむなく長野(津市美里町)まで退却したと言われている。


北畠神社

伊賀の隣国、伊勢を治めていた北畠家。「北畠具教」(きたばたけとものり)は織田信長との戦いに降伏し、実質的な権力を織田家に奪われてしまいました。その後、具教は、天正4(1576)年11月25日、信長と信雄の命を受けた旧臣「長野左京亮」(ながのさきょうのすけ)らに襲撃され、北畠家は断絶。北畠神社は、江戸時代前期に北畠家の末裔が祠を建てたのがはじまり。神苑の一部には北畠家の居舘の一部であった庭園が今も残り、戦国武将らしい素朴で、野趣にあふれた枯山水を見ることができる。


竹島氏城跡

藤堂藩に伊賀者として仕えた竹島氏の居城。竹島三太夫が伊賀者として、伊勢の一揆や異国船の探索を行ったとの記録が残されている。また、竹島氏は、松尾芭蕉の姉の嫁ぎ先でもある。


西音寺

忍術名人・城戸弥兵衛が生前崇敬していたといわれる役行者像が残されている。城戸は織田信長を2度にわたって狙撃し、いずれも失敗しますが、捕まることはありませんでした。


西光寺

浄土宗の寺で、藤堂藩に伊賀者として仕えた柘植氏の菩提寺。天正伊賀の乱で一度は消失しますが、柘植氏が再興しました。柘植三之丞清広は、徳川家康の伊賀越えの際、護衛を務めました。


神幢寺

臨済宗東福寺派の寺で、藤堂藩に伊賀者として仕えた曽我氏の菩提寺。天正伊賀の乱で焼失しますが、その後、山伏の林昌院により再興されました。


西連寺

伊賀上野城城代家老として藤堂藩に仕え、鉄砲組や忍び衆などを組織した藤堂采女一族の菩提寺。最澄が創建した寺で、国指定重要文化財の絹本著色藤堂高虎像をはじめ、多数の仏像や寺宝が収蔵されている。


御斎峠

標高約600mにある伊賀市西山と甲賀市信楽町多羅尾を結ぶ峠。徳川家康が、伊賀越えの際、伊賀衆・甲賀衆の案内で超えた峠といわれており、小説『梟の城』の冒頭にも登場している。


滝川氏城跡

第二次天正伊賀の乱における織田勢による柏原城攻めの際、織田信雄配下の滝川勝雅が築城。四方を高さ約3mの土塁が囲む、三重県内最大級の単郭式城郭です。現在も土塁と空堀がよく残っている。


雨請山砦跡

第二次天正伊賀の乱の際、北部の伊賀衆が立てこもった砦跡。織田勢に対し、城主の山内左衛門尉をはじめとする伊賀衆はゲリラ戦法で応戦しますが、落城しました。麓には山内氏の石碑が建てられている。


福地氏城跡

第二次天正伊賀の乱の際、城主であった福地伊代守は、織田方に与し、侵攻の手引きをしました。松尾芭蕉が福地氏の出身であったことから、現在は芭蕉公園として整備されている。


千賀地城跡

服部半蔵保長によって築かれた城で、服部半蔵と一族で代々伊賀上野城代家老を務めた藤堂采女の生誕地碑が建てられている。


花垣神社

服部半蔵一族の氏神。御祭神は天兒屋根命(アメノコヤフネノミコト)・經津主命(フツヌシノミコト)・武甕槌命(タケミカヅチノミコト)。境内には、「一里は皆花守の子孫かや」の芭蕉句碑も残されている。


正覚寺

浄土宗の寺で、藤林長門守一族の菩提寺です。墓碑約20基は、正覚寺近くの藤林一族の館跡にあったものが、大正時代にこの場所に移されたものである。


西念寺

藤林長門守の孫で『萬川集海』の著者である藤林(冨士林)保武一族の菩提寺。数少ない忍術秘伝書の中でももっとも有名な『萬川集海』は、伊賀流・甲賀流忍術を集大成したもので、伊賀と甲賀の双方に数種の写本が伝えられている。


赤目四十八滝

「赤目」の名は、役行者がこの地で修業をしている時、不動明王が赤い目の牛に乗って現れたという伝説に由来する。古来、役行者をはじめとする山伏の修行の地として知られ、三大上忍の百地丹波守も修行をしたといわれている。


赤岩尾神社

藤原千方が戦勝祈願したとされる神社。お俵石と呼ばれる奇岩がご神体。近くには千方窟までつながっているとされる風穴も残されている。


千方窟

4匹の鬼を部下に従えた豪族・藤原千方が朝廷に反乱を起こした際立てこもり、激しい戦闘を繰り広げたと伝わる岩城。4匹の鬼たちが堕ちて行ったといわれる跡には今でも風が吹き抜け、どこかにつながっているといわれている。


甲賀稲荷社

甲賀衆がお祀りしていた稲荷神社

鳩森八幡神社境内に甲賀稲荷神社があります。 青山権田原にあった甲賀衆の鉄砲演習場、そこに建立されていた甲賀稲荷は明治になって青山練兵場を作る際、鳩森八幡神社境内に遷座されました。 鳩森八幡神社と甲賀衆、後世になって神社が神像を調べたところ、その中から「御修覆記」と「奉納、甲賀百人姓名書」が見つかり、米や酒を鳩森八幡神社に寄進した記録などが見つかりました。 住所:東京都渋谷区千駄ヶ谷1丁目1-24


島原城

《安土・桃山様式の壮麗な面影を残す島原城》

築城以来250年にわたる島原藩の歴史遺産やキリシタン史料及び郷土が誇る芸術家、北村西望氏の作品、また、約198年振りに噴火活動を開始し、尊い生命や甚大な被害をもたらした「平成3年雲仙普賢岳噴火災害」の資料など過去から現在までの島原を知ることができる。


大宝山 恵運寺

「名取三十郎正澄」菩提寺

 「名取三十郎正澄」菩提寺。創建1619年。曹洞宗寺院。紀州徳川家初代藩主徳川頼宣公の武運長昌と山本勘助ゆかりの山本家を祀ために建てられた。名取三十郎正澄(別名:藤一水、名取正武)は、紀州藩軍学流派「名取流」の中興の祖として知られる。名取三十郎が書いた「正忍記」は日本三大忍術伝書に数えられ、日本の忍術研究においてなくてはならない史料である。名取家は、甲州武田家と縁があり山本家とも交流があったとされる


箱根関所

江戸時代交通史の重要な遺跡、箱根関所。当時の匠の技や道具を使い、およそ140年の時を経て、再び芦ノ湖畔にその姿を現しました。箱根関所が設置されたのは、東海道を往来する人々の移動を厳しく制限することで、江戸を守るためでした。


比自山砦

天正伊賀の乱で北伊賀の地侍達が立籠もり最も果敢に戦った

天正伊賀の乱では北伊賀の地侍達が立籠もり最も果敢に戦った比自山風呂谷の合戦は有名である。 『三国地志』には「比自山或いは愛宕山とも云う。
観音廃堂の址あり、天正乱の時に本郡の処士に屯す」とある。
比自山の頂上にはかつて観音寺があり、此処を本丸にし土居を築き、数重の柵や逆茂木をめぐらし門戸を構え櫓を設けた。
山頂には櫓を二カ所設け南を朝屋丸といい福喜多将監が、北を長田丸と呼び百田藤兵衛が守った。蒲生氏郷、筒井順慶軍が攻撃し激しい攻防戦をくり返したが後、落城し火を放ち田山、柳生に逃げたと云う。
「大聖歓喜天」の碑から、比自山砦がよく見える。


式部塚

百地丹波守と恋愛関係になったため、嫉妬に狂った本妻に殺された女性を弔った塚。この女性が式部の官職にあったため式部塚と呼ばれ、はさみを供えると夫や恋人との悪縁が切れるといわれている。


百地砦跡

百地丹波守が多くの下忍たちと住んでいた砦跡。忍者が修業した丸型池と呼ばれる堀跡が残されている。


伊賀四十九院 【弥勒寺廃寺】

『伊水温故』によると田守とも称した。木津川支流久米川下流の地にあり、行基が聖武天皇の勅を奉じ諸国に四十九院を創建しその一院が当地に建てられ四十九院村と呼ばれる。

伊賀は大和と共に現世仏教が布教れた地であり、その土台になったのが伊賀四十九院であった。弥勒菩薩を本尊とし平安朝の中頃から山伏達が兵法、武術、忍術を教える学塾になった。

生み出した第一号の山伏兵法習得者は藤原千方と云う。

弥勒寺は四十九院の一つであったが天正伊賀乱で兵火を経て明治40年(1907)に廃寺となった。しかし今も乳授けの祈願者が多い。

中世の土豪として増田氏、中森氏、知高氏の城跡が残っている。明治5年(1872)に弥勒寺は廃寺となる。


無量寿福寺

伊賀国惣国一揆の12人の評定衆が評定を開いた場所の一つです。第一次天正伊賀の乱の際、伊賀衆はここを拠点に丸山城の織田勢を攻めました。


丸山城跡

第一次天正伊賀の乱の舞台となった城。織田信雄による丸山城築城を知った伊賀衆がこれを攻撃し、撃退しました。


敢国神社(あえくにじんじゃ)

忍術名人・瀬登八右衛門が、祭礼の日に、ある男から腰の刀を盗み取るという賭けをしたところ、替え玉を使って岩の上で休んでいると見せかけて、老婆に変装して近づき、見事刀を盗み取ったという逸話が『萬川集海』に残されている。


名張藤堂家邸

天正伊賀乱の後、簗瀬村の現丸の内が城下町として発展。慶長13年(1608)藤堂高虎・家臣梅原勝右衛門が名張に赴任。寛永13年(1636)藤堂高吉が伊予から名張城主になる。

名張藤堂家が支配するが、実情は家臣格で独自の行政は行えなかった。大火で全焼したが大名屋敷を再建。現在、寿栄神社にある太鼓門が当時のまま。

名張陣屋町として丸之内、中町、上本町、柳原町、鍛冶町、本町、新町、元町、豊後町、木屋町、榊町、松崎町、上八町、東町がある。

旧細川邸は、薬商細川家(奈良県宇陀市大宇陀)の分家として建てられる。細川家は樟脳を扱っていた。樟脳は『萬川集海』の火術としても使われていた。

上野城下に忍町があったわけで名張にも伊賀者は在住しただろう。薬に関わる忍者や名張藤堂家を監視していた忍者が考えられる。


永福寺

全国にいくつか「伊賀町」がある。滋賀県彦根市にも、昭和47年まで「伊賀町」があった。現在は錦町になっている。

慶長19年(1614)大坂冬の陣で、彦根藩士三浦右衛門元貞は伊賀者を特別隊として真田幸村の大坂城真田丸に奇襲攻撃。これが大成功する。井伊直孝は元貞に感状を与えた。

しかし、伊賀者には、その活躍に見合う論功行賞を与えなかった。そのため、伊賀に帰還する伊賀者が続出した。忍者なしでは戦えない。そこで、元貞はわざわざ名張下比奈知にある永福寺に赴き、彼らを説得しに行った。

給与をアップ、土地を譲与。新たに長福寺を創建し、永福寺僧、能賢を初代住職に迎え、本尊薬師如来も設置する。

これで気をよくした伊賀者は彦根に移住する。ただ、なぜ永福寺に伊賀者と大きく関わっていたのであろうか。この寺は伊賀者のアジトであった可能性がある。


杉谷神社

御祭神は主祭神の天之穂日命(アメノホヒノミコト)と、菅原道真公他10柱で、黒田の悪党・大江氏の氏神です。


柏原城跡

第二次天正伊賀の乱で伊賀衆の残存勢力が集結し、最後に立て籠った城。石垣で固めた土塁と深い空堀を巡らした強固な城でしたが、織田勢の最初の攻撃でほぼ壊滅し、降伏しました。


下山城

地元では、兼前(カマエ)の城山という。滝之原の西、夏見の東に位置する。下比奈知は昔から土地争いがよく起こった地。 ここに下山甲斐守城は兼前の城山と呼ばれる。東西150m南北130m。東南隅に見張り台、本郭は四方に土塁を巡らし周囲に空堀。 『勢州軍記』には、下山甲斐は伊賀守護の仁木氏が滅びた後、伊賀を支配した66人衆の1人で、伊勢国司北畠氏の旗頭だった。天正4年(1576)北畠具教を謀殺し伊勢の実権を手中に収めた北畠信雄は、同7年伊賀に侵入。下山甲斐は信雄勢に味方するように勧められたが、これを拒否し獄中で舌を噛み切り自ら命を絶ったという。 『伊乱記』に、信雄が伊賀攻略を決断したのは下山甲斐が手引きしたとあるが、同9年、織田勢伊賀侵略に対し土豪として種生国見山に籠城して戦っている。 裏切り者なら、伊賀勢にはつかなかったが、伊賀勢として戦うわけで『伊乱記』の記述は矛盾しているのではないだろうか。


弥勒寺

鎌倉時代から室町時代に作られ、木造で162cmの伊賀で最も古くて大きい役行者像があります。他にも国指定重要文化財で、平安時代に作られた木造聖観音立像や、木造十一面観音立像も収蔵されています。


加納神社

美波多神社(境内社 加納神社)

美旗新田にある、『日本書紀』には、この辺り一帯は皇室の狩猟所ないし薬草採集地の禁野とある。 江戸時代、ここで新田開発を提案したのが、加納藤左衛門直盛。直盛の父は藤堂髙虎に仕え朝鮮役や関ヶ原、大坂陣に活躍。その跡を継ぎ直盛は伊賀加判奉行として1800石を有し「伊賀者」を創設した人物だ。 一方、美旗新田開発は直盛の最も大きな功績であったが、完成直前に死去。息子直堅が引き継ぎ、美旗新田を完成。 ところが、延宝8年(1680)年、伊賀で銅山事件という大事件が起こる。その責任を取らされ直堅が切腹することになる。 加納神社は享保16年(1731)に、新田村開発恩人加納直盛の遺徳を顕彰するために創建。村民の内心は表向きは直盛を祀るが、不遇の死を遂げた、直堅の霊を祀る心に、より傾斜していたのは想像にあまりある。


本日は、伊賀忍者の活躍した足跡をたどり、史跡41箇所のご紹介をいたしました。時間の関係で、本日ご紹介できなかった処は、明日の「伊賀忍者の史跡 そのⅡ (四の巻)」でご紹介いたします。伊賀市、名張市の伊賀忍者ご関係者(ひょっとすると、ご先祖様は忍者?)の皆様のご協力に感謝いたします。

     

鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
石川県 いしかわ観光特使


協力(順不同)

伊賀流忍者観光推進協議会 TEL:0595-22-9670
〒518-0869 三重県伊賀市上野中町2976-1 上野ふれあいプラザ2階

伊賀市観光戦略課 Tel:0595-22-9670
〒518-0869 三重県伊賀市上野中町2976-1 上野ふれあいプラザ2階 

一般社団法人 伊賀上野観光協会 TEL:0595-26-7788
〒518-0873 三重県伊賀市上野丸之内122-4

伊賀流忍者博物館  電話:0595(23)0311
〒518-0854 三重県伊賀市上野丸之内117


 ※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。


ZIPANG TOKIO 2020

2020年、東京でオリンピック・パラリンピックが開催されます。 この機会に、世界の人々にあまり知られていない日本の精神文化と国土の美しさについて再発見へのお手伝いができればと思います。 風土、四季折々の自然、衣食住文化の美、伝統芸能、行事、風習、ものづくりの技の美等、 サイトを通じて、平和な国、不思議な国、ZIPANG 日本への関心がより深かまるならば、私が密かに望むところです

もしもこのサイトに同じ思いをお持ちの皆様から、素敵な情報や画像をお寄せ戴ければこの上ない喜びです。以下のEメールアドレスへご連絡下さい。

E-mail aromajinja@gmail.com ( ZIPANG 2020 編集部 )。

2020, will be held the Olympic Games and Paralympic in Tokyo.

On this occasion, for the little-known beauty of the spiritual culture and national land of Japan to the people of the world I think that if we help to re-discover.

Climate, nature of the four seasons, of food, clothing and shelter cultural beauty, traditional arts, events, customs, beauty, etc. of the work of making things,

Through the site, peaceful country, a strange country, if the interest is more depth or round to ZIPANG Japan, is where I want secretly.


写真ご協力:高山祭(高山市)/ 富士山(富士市)

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