対馬の神社はどんな場所にある?
神社ガイドブックの作成にあたって多くの神社を訪問しましたが、対馬の神社は山頂近くや海岸部に位置していることが多いようです。
かつては各地の神山で神事が行われていたようですが、その険しさゆえか、時代
が下がるにつれ、山腹やふもとの集落に神社が建てられるようになります。標高は
あまり関係なく、低山の山頂にも石の祠などがよく祭られています。
無人島・岬や、船でしか往来できないような海岸部にも神社は多く、また、現在
は市街地であっても、かつては海岸線が迫っていたと考えられる八幡宮神社(番号
1)のような場所もあります。
これらの場所は、航海の拠点として古くから海神が祭られていたようですが、対
馬は元寇など外国の脅威にさらされることも多く、祭神が神功皇后などの武神に代
わったケースも見られます。「天」と「海」はともに「あま」とも読み、神々は天
から山頂に降臨し、海から岬や無人島に寄りつくと考えられていたようです。
神社の鎮座地や祭神の移り変わりを見ていくと、国境の島・対馬の歴史と、そこ
に暮らす人々の関心のありかが見えてきます。地図を見ながら、あるいは現地の神
社で、そこにどんな人々が暮らしていたのか、想像してみるのも対馬の神社めぐり
の楽しみのひとつです。
厳原八幡宮神社(八幡宮神社)
※神社の名称については、現地の通名と神社庁の登録神社名が異なっている場合が
あります。現地の方に場所を訪ねる際は、「峰町木坂の海神神社」など、地名も
あわせてお伝えください。
太陽神・アマテラス
【日本神話】 三貴子の誕生
イザナギが黄泉の国の穢れを祓うために禊(みそぎ)を行った際、左目を洗うと太陽神アマテラス、右目からは月神ツクヨミ、鼻をすすぐと暴風神スサノオが生まれました。スサノオの粗暴な振る舞いに嫌気がさしたアマテラスが天岩戸(あまのいわと)に隠れると、世界は闇に包まれてしまい、神々は知恵を絞って天岩戸を開き、世界に光を取り戻します。
スサノオは追放され、アマテラスは孫にあたるニニギを支配者として地上に送り、その血脈が天皇家につながっていきます。いわゆる天孫降臨です。アマテラスは神宮(伊勢神宮)に祭られています。
【対馬の伝承】
対馬では、美津島町小船越にアマテル(阿麻氐留)という太陽神が、厳原町阿連の山中にはオヒデリ(御日照)という太陽の女神が鎮座しています。また、対馬固有の天道信仰の中心人物である天道法師は、その母が太陽光に感精して産まれたとされ、太陽の化身と考えられていました。
神社のプロフィール
古代航路の拠点に鎮座する古社です。 祭神のアメノヒノミタマ(天日神)は日神(太陽神)で、厳原町豆酘に鎮座する至高神タカミムスビの5世の孫とされています。 日本書紀によると、5世紀、遣任那使・阿閉臣事代(あべのおみことしろ)が神託を受け、対馬のアマテル・タカミムスビを磐余(奈良県)に、壱岐のツキヨミ(月神)を京都に遷座させています。対馬・壱岐の祭祀集団を中央に移動させる政治的意図があったのかもしれません。 中国には、太陽はもともと10個あり、旱魃が起きるため英雄が9つを射落としたという神話がありますが、阿麻氐留神社にも弓で的を射る神事が伝えられており、その関連が指摘されています。
周辺の雰囲気・環境など
美津島町小船越は、対馬海峡と浅茅湾をつなぐ海上交通の拠点で、かつて船を陸上げして狭い陸峡部を越えていたことが「小船越」の地名の由来です。
仏教など重要な大陸文化がここを経由して日本に伝わり、浅茅湾側の西漕手は古代の港の雰囲気を残し、また日本最初の寺といわれる梅林寺(最初の仏教伝来地)などの史跡も豊富です。
対馬歴史異聞伝「小船越」(こふなこし) ~日本最初の寺と太陽神の集落~
対馬の中央に広がる浅茅湾の東岸に、古代から江戸時代まで港町として栄えた「小船越」(こふなこし)という集落があります。
対馬は、泣く子も黙る荒海・玄界灘(げんかいなだ)と、異国に接する恐ろしい朝鮮海峡(対馬海峡西水道)に挟まれており、対馬の波穏やかな内海・浅茅湾は、まさに海上のオアシスと呼べる天然の良港でした。
小船越には、いにしえの雰囲気をそのまま残す西漕手(にしのこいで)という古代の港跡があります。
ここは、浅茅湾と対馬海峡が接する陸峡部であり、古代より日本本土と朝鮮半島・中国大陸を往来する海上交通の要衝でした。
日本本土からやってきた船はまず鴨居瀬(かもいせ)に着き、岸沿いに小船越へ。
小船越に着くと、小さな船は陸揚げして対岸へ運ばれ、大きな船は人と荷物だけを対岸の別の船に載せて、朝鮮半島・大陸を目指しました。
小さな船が丘を越えていったので、「小船越」という地名になった、とされています。
もちろん、半島・大陸から戻ってくる船は、逆の行程を辿るわけです。
当時の航海は命がけであり、対馬に残る無数の海神系の神社は、海上の安全祈願のために祭られたと考えられています。
それでは、日本最初のお寺の話です。
日本への公式な仏教伝来は、538年(または552年)、百済の聖明王から仏像や経典が送られたのが始まりとされています。
仏像を捧持する使節は、小船越で上陸し、ここから日本本土を目指すために風待ち・波待ちをする必要がありました。
その間、大切な仏像を粗末に扱うわけにはいかないので、小さなお堂を建てて仏像を保管し、その小堂が日本最初の寺・梅林寺になった、と伝えられているのです。
海を渡った仏像は、在来の神道を信仰する物部氏によって難波の堀江に打ち捨てられますが、聖徳太子の時代に再出現し、やがて本田善光という人物の背中に乗って旅をし、現在の長野県(現在の善光寺)に落ち着きます。
善光寺は、激動の戦国時代には、武田信玄、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などの錚々たる面々に信仰され、現在では年間約600万人もの参拝者を集める名刹となりました。
善光寺 山門
善光寺 本堂
面白いことに、善光寺の仏像(如来)は654年頃より絶対秘仏となり、その姿を見たものはいません。
数えで7年に1度、前立本尊という、分身仏が御開帳されますが、本尊そのものが秘仏ゆえに誰にも確認はできないのです。
日本に渡来し、この国を仏教国家へと導き、戦国武将や天下人たちに信仰され、この国の歴史を変えたともいえる絶対秘仏の旅。
その最初の日本上陸地が対馬であり、小船越だったのです!
そして、古代航路の要衝であった小船越には、先に紹介した「アマテル神社」があります。
※「阿麻○留神社」 ○=氏の下に一。
天皇家の祖神である「アマテラス大神」にもよく似た響きで、しかも祭神は「天日神命(あめのひみたまのみこと)」という太陽神なのです。
ちなみにお隣の壱岐には、月神である「月読(ツクヨミ、ツキヨミ)」が祭られており、第23代顕宗天皇の時代(5世紀後半)に、 それぞれの対馬と壱岐の祭祀集団ごと京都・奈良に上京しています。
暴風神スサノオが出雲、太陽神アマテルが対馬、月神ツクヨミが壱岐の出身だとすると、日本神話のアナザーストーリーが見えてくるのですが・・・
暴風神・スサノオ
【日本神話】 スサノオ
芸北神楽 スサノオの怪物ヤマタノオロチ退治(北広島町)
イザナギの禊により誕生したスサノオは、粗暴で無思慮な振る舞いにより天界を追放されますが、地上に降りてからは性格が変わり、怪物ヤマタノオロチを退治するなど、英雄として活躍します。樹木の用途を定めて植樹を行い、日本初の和歌を作るなどの文化的側面もあり、その性質は非常に複雑です。
地上に降りてから英雄になったというよりも、もともと英雄神であったものが、出雲地方(島根県)が大和朝廷の勢力下におかれていく過程で、粗暴さなどの負の側面が付け加えられたのかもしれません。
ちなみに、日本書紀の異伝(一書)には、天界を追放されたスサノオはまず朝鮮半島にあった新羅のソシモリに降りるが、その地が気に入らず日本に渡った、と記されています。
神社のプロフィール
上対馬豊(豊漁港)の北東、椎根島の白水山(しろみずやま)に島大國魂神社、東に1キロの海辺に若宮神社が鎮座していましたが、現在は集落内の那祖師神社に3社が合祀されています。 白水山は禁足地としてのタブーが激しく、立ち入ると大風が吹く、腹痛に見舞われる、災害が起きる、さらには、白水山には老人が住んでおり、そこで見聞きしたことを他言すると死んでしまう、という怖い伝承もあります。
白水山に続く海岸沿いの道は、不通浜(とおらずがはま)と呼ばれています。
南部の龍良山などと同様に、神聖ゆえに近づくことすら許されず、遥拝所
(遠くから拝むための建物など)を造り、それが神社になっていく、という古い信仰のあり方をよく示しています。
周辺の雰囲気・環境など
上対馬町豊は、鰐浦とならぶ対馬最北端の集落です。今は静かな漁村ですが、かつては大陸航路の拠点で、豊崎郷の中心地でした。北西には対馬海峡西水道(朝鮮海峡)が広がり、朝鮮半島までの近さを実感します。
【対馬の伝承・異伝】
実は、対馬北端の上対馬町豊(かみつしままち・とよ)には、スサノオ(島大国魂神社)とイタケル(若宮神社)、さらにはソシモリ(那祖師神社)が祭られています。
那祖師神社 東の海岸にはイタケルが祭られていました。 豊の漁港近くにはソシモリが祭られており、現在はここに3社がまとめられています。
おもに対馬の北部から北東部にかけてスサノオおよび子神のイソタケル渡来の伝承地がいくつもありますが、いずれも強烈なタブーの地とされ、植樹に関する伝承が残されています。
本来は出雲の神であるスサノオが、どのような経緯で対馬に祭られるようになったのかは不明ですが、ヤマタノオロチを退治してその尻尾からクサナギの剣を得る、という神話は、暴れ川の治水および川から得られる砂鉄と、熱源となる樹木を利用した製鉄の比喩とされています。
想像をたくましくすれば、朝鮮半島の森を刈りつくした製鉄者集団の首長スサノオが、対馬を経由して出雲に渡っていった、という物語も見えてきます。
島大国魂神社があったとされる豊北部には、「不通浜」(とおらずがはま)という、オソロシドコロなみにインパクトがある場所があり、スサノオが通った場所として立入禁止・絶対タブーの地になっています。
信長・秀吉と津島信仰
尾張 津島神社秋祭り
津島神社(愛知県津島市)は、東海地方を中心に約3000社ある津島神社・天王社信仰の総本社です。織田信長・豊臣秀吉などからも崇敬された神社ですが、神社の由緒によると、欽明天皇元年(540年)、西国対馬より大神が来臨したのがその始まりとされています。
祭神であるスサノオの和魂は、新羅から対馬へ、さらに津島へと移ったものだったのです。移祭は、それに仕える祭祀集団の移動をともなうはずなので、対馬から津島へ、人の流れがあったのかもしれません。
ちなみに、スサノオは疫病神である牛頭天王と習合し、津島神社のほか、祇園祭で有名な京都・八坂神社などの祭神となり、信仰を集めます。疫病を蔓延させる神を癒し、和ませることで疫病の拡大を防ぐ、という逆転の発想が信仰の基本であり、スサノオの複雑な性格は、中世になっても変わっていなかったようです。
続く・・・
【寄稿文】西 護
一般社団法人 対馬観光物産協会 事務局長
番外編(大分 御許山)
謎
宇佐神宮の遥拝所からの眺め。御許山(大元神社)
御許山9合目(ここまでしか登ることができない)金色に輝く宇佐神宮の奥宮「大元神社」
宇佐神宮奥宮「大元神社」女の神様です
宇佐神宮奥宮「大元神社」の御神木(大元神社は御神木より左側で御神木にかかる影の元のあたり)。それでは、御神木の右側の神社は?
大元八坂神社。京都の八坂神社の奥宮では?ということは・・・
奥に進んで行くと、祠らしきものが・・・
ここが京都 八坂神社の奥宮 ?
西氏のご寄稿、最後に[津島神社]が出て来ました。津島神社?と言えば本サイト発信地愛知県民にはかなり、馴染みのある名前です。調べてみると何と、全国には3000社もあるというのですが、多くは、八幡神社に名前がすり替わったり、他の名前に習合したりで、正確には分かりませんが、一番その名前が残っているのは東海地方なのです。それも愛知県‼
津島神社の総本社が愛知県にあるのです。
県下には73社も存在したとか…当然、我が春日井市にもれっきとした津島神社が二社存在しており、対馬との深いご縁を再認識しております。
しかも西氏のご推察通り、初源の御祭神はスサノオ命でも、やがて牛頭天王へと変化し、これが祇園の八坂神社の主祭神ですから、習合化されたのですね〜。
スサノオが何故牛頭天王に?
諸説あって、素人の私は??ですが、
『日本書紀』巻第一神代上第八段一書によると、素戔嗚尊が、その荒々しい性格故に高天原から追放された後、新羅の曽尸茂利(ソシモリ)という山地に降臨したが、「ここにはいたくはない。」と言い残して、すぐに出雲国に渡ったとする記述があります。
朝鮮半島には幾つも牛頭山という地名が残っていることから考えると、その土地から大挙して渡来した秦一族系の信仰対象と関係ありそうです。スサノオとは荒ぶる神でしたが、元来古代新羅国の牛頭山(ソシモリ)の地に祀られおり、職能集団秦一族の渡来とともに、我が国の疫病防災神として、今の京都八坂神社の主祭神となり祀られたというのが、大筋一致していますね?
もう少し、詳細に踏み込むと…
古代新羅国に牛頭山という山があり、熱病に効く栴檀を産したことから、この牛頭山の名を冠した神と同一視した説があるようです。
何れにしても、出雲系の神様であり、織田、豊臣、徳川御三家という、武家社会の天王山を配した愛知県ですから、大和朝廷を意識しながら、ルーツを大切に守ったということでしょうかね〜
(番外編)鎹八咫烏 記
協力(順不同)
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