海の女神・トヨタマヒメ
【日本神話】 海幸山幸
兄・海幸彦(うみさちひこ)は海の漁師、弟・山幸彦(やまさちひこ)は山の猟師です。ある日、弟の要望で、弓矢と釣竿を交換して猟・漁を行いますが、山幸彦は兄の大事な釣針を無くしてしまいます。兄に責められた山幸彦は、釣針を探す旅に出て、潮の神シオツチの案内で海底の海宮(わたつみのみや)に辿りつき、そこで大海神の娘・豊玉姫(トヨタマヒメ)と結ばれます。大海神の力を借りて釣り針を見つけた山幸彦は地上に戻り、豊玉姫の助力を得て兄を屈服させます。この後、豊玉姫は出産のため山幸彦のもとを訪れ、「海神の一族である自分は、出産の際に本来の姿に戻ってしまうので、決して覗かないように」と伝えます。山幸彦が産屋を覗くと、巨大なワニ(鮫)あるいは竜の姿に戻った豊玉姫が出産の苦しみでのたうちまわっていました。約束を破られ、恥じた豊玉姫は子神ウガヤフキアエズ(以下ウガヤと省略)を置いて海宮へ帰り、通路を閉ざしてしまいますが、夫と子を忘れられず、妹の玉依姫(タマヨリヒメ)を乳母として送ります。ウガヤは、叔母・乳母である玉依姫と結ばれ、初代天皇となるカムヤマトイワレビコ (神武天皇)が誕生する場面で、古事記の上巻(神話編)は終わります。
【対馬の伝承】
対馬の伝承では、釣針を探す旅の途中、山幸彦がまずたどり着いたのが
美津島町鴨居瀬(かもいせ)で、しばらく隠れ住んだのが同町濃部(のぶ)とされています。濃部には、潜(しのぶ)の里=濃部という地名伝承があり、集落奥にある天神神社(番号48)には山幸彦が祭られています。山幸彦と豊玉姫の出逢いの場は豊玉町仁位の和多都美神社(番号63)で、子神であるウガヤが誕生したのは鴨居瀬。豊玉町千尋藻の六御前神社
(番号78)にはウガヤと6人の乳母が祭られています。上記の地域を並べると、鴨居瀬(放浪)→濃部(隠棲)→仁位(出逢い)→鴨居瀬(子の誕生)→千尋藻(子の養育)となり、山幸彦の人生を辿るように神社が点在していることに気づきます。 また、兄の海幸彦は九州南部(鹿児島・宮崎)の隼人(はやと)の祖先とされており、対馬をふくめた九州北部の海洋民が信仰していたのが海神・豊玉姫だとすると、天皇家の祖先である山幸彦の一族と、九州北部の海洋民が手を結び、九州南部の隼人勢力を征服したという歴史物語が見えてきます。山幸彦と豊玉姫の別離の物語は、力をあわせて九州を平定した2つの部族の間で、なんらかの抗争が発生したことを暗示しているのかもしれません。孫にあたるカムヤマトイワレビコは東征を行い、磐余(奈良県)で、初代天皇・神武天皇として即位することになります。
和多都美神社は、対馬の中央に広がる浅茅湾(あそうわん)北岸の最深部にあり、もともとは船でしか行けない地形ですが、現在は拝殿前まで車道が整備されています。
周辺の雰囲気・環境など
拝殿(はいでん)横には、竜神のような老松が生えています。よく見ると、本殿(ほんでん)の下から這い出てきているのがわかりますか?
ちなみに、拝殿は氏子さんたちが参拝・神事などに利用する建物、本殿は神様が鎮座する(とされている)建物です。
磐座
通常、拝殿・本殿だけ参拝して帰る方が多いのですが、雰囲気のよい裏参道を5分ほど歩くと・・・。
「豊玉姫の墳墓」といわれる磐座(いわくら)があります。
拝殿・本殿などの建築物は、仏教建築に対抗する形で誕生したと考えられており、野外のこうした神域が、神道本来の祭祀(さいし)の場でした。
対馬市豊玉町仁位(とよたままちにい)は、対馬の中央に広がる浅茅湾北岸に位置する、同町の中心部です。仁位川沿いに古くから集落が形成され、弥生時代後期には対馬の中心地だったと考えられています。また、室町時代にも宗家の館が置かれ、栄えました。和多都美神社から1.6キロ南下する(坂道を登る)と烏帽子岳展望所です。展望所から波穏やかな浅茅湾を一望すれば、古代の海人族が、この地こそが海神に守られた竜宮だと考えたことが納得できます。
神社のプロフィール
和多都美神社・海神神社には、もっとも古い神楽の一種とされる命婦(みょうぶ)の舞が伝承されています。
海神の力が文字通りの「最高潮」に達するとされる秋の大潮の満潮時に古式大祭が執り行われ、舞が奉納されます。
和多都美神社は、浅茅湾北西岸の最奥部に鎮座しています。この地に大海神・豊玉彦の海宮(わたつみの宮=竜宮)があり、祭神の山幸彦と豊玉姫はここで出逢ったとされています。秋の大潮の満潮時、海の女神の力が文字通り「最高潮」に達するころ、古式大祭が催行され、中世に起源をもつ、女性が舞う神楽「命婦(みょうぶ)の舞」が奉納されます。拝殿前にならぶ5つの鳥居のうち2つは海中にあり、満潮時は海中に、干潮時は干潟の上に基台まで露出し、また秋の大潮の満潮時には拝殿近くまで海面が上昇するなど、海神を祭るにふさわしい雰囲気です。
【祭神】
和多都美神社の祭神は、日子穂彦穂出見命(ヒコホホデミノミコト)と豊玉姫(トヨタマヒメ)。
ヒコホホデミは、通称の「山幸彦」の方が有名で、「ミコト」は尊称です。
【伝承】
古事記の「海幸山幸」伝承は以下のとおり。 ・海幸彦(山の猟師。兄)と山幸彦(海の漁師。弟)の兄弟がいて、山幸の提案で猟・漁の道具を取り替える。 ・山幸彦は釣り針をなくし(兄に責められ)、釣り針を探す旅に出る。 ・海辺で老人(塩の神)と出会い、海底の竜宮へ行くと、そこで大海神(オオワタツミ)の娘・豊玉姫と恋に落ち、ともに暮らすようになる。 ・竜宮での3年が過ぎ、故郷を思い出した山幸がため息をつくと、大海神はその理由を問いただす。 ・大海神が釣り針探しのためすべての魚を竜宮に集めると、釣り針は、鯛(タイ)の喉に引っかかっていた。 ・釣り針を得た山幸は地上に戻り、豊玉姫の力で豊かになっていくが、海幸はどんどん貧しくなり、ついに弟を攻めてくる。 ・山幸は海神の力で兄を降伏させ、兄は服従を誓い、その証として舞(隼人舞)を舞う。 というもの。
【神話と歴史】
山幸彦は初代天皇・神武天皇の祖父(豊玉姫は祖母)にあたり、海幸彦は九州に大きな勢力を持っていた隼人(はやと)の一族なので、この神話の裏には、天皇家の祖先が、海神を信仰していた九州北部の海洋民の協力を得て、九州を制圧していった、という歴史が重ねられているようです。
また、式内社の認定に際しては、九州北部の朝廷サイドの勢力(対馬・壱岐などはこちら)が重要視され、たびたび反乱を起こしていた九州南部の勢力は無視されているようです。
鹿児島・宮崎唯一の名神大社は、鹿児島県霧島市隼人町にある「鹿児島神宮」ですが、祭神はなんと山幸彦と豊玉姫。
隼人の祖神ではなく、征服者側の神々が祭られていることになります。
【伝承その2】
ちなみに「海幸山幸」の神話の続きは・・・。
・豊玉姫は山幸彦の子を身ごもっており、出産の時が近づくが、「出産の際、自分は本来の姿に戻るので、決して覗かないように」と伝え、作りかけの産屋(うぶや)に入る。
・山幸彦が覗くと(お約束)、巨大なワニザメが出産の苦しみでのた打ち回っていた。
・子神(ウガヤフキアエズ)は無事産まれたものの、約束を破られた恥ずかしさと恨みのため、豊玉姫は海の国・竜宮へ帰り、その道を塞いでしまう。
・子どもを案じた豊玉姫は、妹の玉依姫(たまよりひめ)を乳母として遣わし、のちにウガヤフキアエズと玉依姫の間(叔母と甥ですが)に、カムヤマトイワレビコが産まれる。
古事記上巻はここで終わり、中巻ではカムヤマトイワレビコが九州から近畿へ「東征」を行い、神武天皇=初代天皇となっていく姿が描かれます。
「神話」に何らかの歴史的事実が隠されているならば、九州北部の海洋民族と手を組んで九州を制圧した天皇家の祖先が、そのまま東進して近畿まで勢力を延ばし、やがて日本の支配者になっていく、という歴史が見えてくるのですが、古代史論争に首をつっこむと大変なので(殴)、想像の範囲で。
【海幸山幸と竜宮伝説の地】
海幸山幸というと宮崎県の青島神社が有名ですが、古文書が焼失してその由来は判然とはしないとのこと。 対馬に住むものとしては、式内社に名を連ねる和多都美神社が海幸山幸の舞台だと信じているのですが、対馬の伝承地をいくつか紹介して、あとは読む方の判断にお任せしたいと思います。
※追記 因みに宮崎の裸まつりでは 突然帰還した山幸彦を住民が迎える際、服を着る時間もなく、裸で迎えたことに由来する、という説明だったのですが、対馬では山幸彦は島外からやってきて、また去っていったのに対し、宮崎では「戻ってきた」という説明になっているのが興味深いです。
釣り針を探す旅に出た山幸彦は、まず美津島町鴨居瀬(みつしままちかもいせ)に到着。 鴨居瀬~小船越(こふなこし)は、古代の大陸航路の重要な港でした。
美津島町濃部(のぶ)の集落奥にある天神神社。 山幸彦がしばらく忍び住んだ=忍ぶ=「のぶ」の地名伝承があります。
祭神は山幸彦(だけ)。この時点で、まだ独身なわけです。
豊玉町仁位の和多都美神社。山幸彦はここで豊玉姫と出逢いました。
祭神は、山幸彦と豊玉姫。カップルになりました。
鴨居瀬の住吉神社。山幸彦の到着地で、豊玉姫の出産地でもあります。鶏知の住吉神社の元宮。紫瀬戸とも呼ばれる古くからの景勝地。祭神はウガヤフキアエズ。子どもが産まれました。
美津島町鶏知(けち)の住吉神社です。隣りに小さな和多都美神社もあります。
祭神は、豊玉姫・玉依姫・ウガヤフキアエズ。山幸彦(お父さん)はどこかへ行ってしまいました。
豊玉町千尋藻(とよたままちちろも)の六御前(むつのみまえ)神社。巨大なイチョウが目を惹きます。
祭神は、山幸彦と、ウガヤフキアエズを養育した6人の乳母。お父さんとベビーシッターが祭られているわけです。
厳原町久田(いづはらまちくた)の志々岐(ししき)神社。志々岐は神功(じんぐう)皇后関係の神社ですが、祭神は豊玉姫。
豊玉姫の出産の際、産屋に入ってくるカニをほうきで掃き出した、という故事にちなみ、ほうきを奉納すると安産に恵まれるとか。
和多都美神社の境内にある「磯良」(いそら)の霊石。
磯良は、神功(じんぐう)皇后伝説に登場する海神で、古代の有力な海洋民族・安曇(あずみ)氏の祖神ですが、豊玉姫の子=磯良という伝承があるようです。
ちなみに安曇氏の拠点は福岡の志賀島(しかのしま。金印で有名)ですが、遠く信州まで勢力を伸ばし、安曇野(あずみの)という地名を残し、対馬にも大きな影響を与えた白村江の戦いで戦死したと伝えられる将軍・安曇比羅夫(あずみのひらふ)は長野県の穂高神社の祭神となっています。
神功皇后と磯良は対馬に色濃く足跡を残しており、そのお話は、対馬一の宮「海神神社」で!
続く・・・
【寄稿文】西 護
一般社団法人 対馬観光物産協会 局長
協力
一般社団法人 対馬観光物産協会
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