雛祭りは、古代中国において3月の最初の巳の日に、水辺に出て穢れや災いを祓う行事が起源と考えられています。この行事は、古く7世紀にはわが国にもたらされ、上巳の節供として3月3日に行われるようになりました。平安時代には宮廷の年中行事として定着し、この日に曲水の宴を催したり、桃酒を飲んだりしました。また、自分の罪や穢れを、息を吹きかけたり身肌にすりつけて人形に託し、水辺に流す風習がわが国の俗信仰として全国各地域にも古くからあったようです。これとは別に『源氏物語』をはじめとする王朝時代の文学作品の中では、幼い子どもたちの遊びに用いられた人形を「ひいな」と呼んでいます。これらの風習が何時の頃から始まったのかは明らかではありませんが、3月3日の雛祭りの源流となったと考えられています。
江戸時代になると、次第に雛祭りは盛んになっていきました。今日みられるような雛祭りの形式は、江戸時代の初め頃には形成されたと考えられています。
尾張徳川家の雛まつり
お内裏様とお雛様、三人官女に五人囃子、さまざまなお人形や雛道具が飾られる雛祭りは、「桃の節句」とも呼ばれ、春のおとずれを告げる華やかな行事であります。
「尾張徳川家の雛まつり展」は今回で31回を迎えます。
徳川美術館には、尾張徳川家の姫君のためにあつらえられた雛人形や雛道具が今も伝来しており、毎年2月〜4月にかけて展示が行われています。他では類を見ないほどの徳川御三家筆頭の名にふさわしい質の高さである。また、明治・対象・昭和にかけて制作された大雛段飾りも見所の一つであります。
徳川家ならではの豪華で気品ある雛の世界をお楽しみ下さい。
尾張徳川家 三世代雛段飾り
徳川美術館の創始者である、尾張家19代義親の夫人米子(1892~1980)、20代義知の夫人 正子(1913~1998)、そして21代義宣の夫人三千子(1936~)の三世代にわたる夫人たちの、高さ約2メートル、間口約7メートルに及ぶ尾張徳川家の豪華な雛段飾りです。数組の内裏雛を上段にすえ、三人官女・五人囃子をはじめ、節供の祝儀としてさまざまな方々から贈られた御所人形・毛植え人形などの人形、さらに多種多様の道具揃えが並べられ、江戸時代以降の大名家の雛段飾りのありかたがよく示されています。
矩姫さまの雛飾り
矩姫(貞徳院・1831~1902)は福島・二本松丹羽家10代長富の三女として生まれ、嘉永2年 (1849)に尾張家14代当主慶勝にお嫁入りしました。 矩姫の雛人形は、束帯姿三対・直衣姿一対・狩衣姿一対の有職雛(公家の装束を正しく考証して作られた雛人形)で、高さはおよそ30センチあり、当時製作された大名家のお雛様のなかでも、ひときわ格調高い作品です。
福君さまの雛道具
菊折枝蒔絵雛道具(鏡台)
五摂家の筆頭・近衛家から尾張徳川家11代斉温に嫁いだ福君(俊 恭 院・1820~40)の雛道具を公開。
梨子地に菊の折枝を配し、所々に近衛家の家紋である抱牡丹紋と徳川家の葵紋を散りばめたデザインを施し、金具にはすべて銀が用いられています。福君の婚礼調度として伝来する、等身大の菊折枝蒔絵調度の諸道具と遜色のない精巧な出来映えを示しています。
現存する大名家伝来の雛道具の中で、最も大揃えで豪華な一組です。
江戸時代以降の町なかを飾ったお雛さまは、尾張徳川家に伝えられた、大名家ならではの豪華で格式のある雛とは趣が異なり、素朴で身近な親しみやすさが感じられます。近年徳川美術館にに寄贈された、江戸時代から昭和に至るさまざまなお雛さまをご覧になることが出来ます。
企画展
ひなを楽しむ ー旧家の雛飾りー
御殿雛飾り
志村家寄贈
京都で造り酒屋を営んでこられた志村家より、平成24年に寄贈の御殿雛飾りです。
御殿雛飾りは、京都御所の紫宸殿(ししんでん)をモチーフに作られた御殿をともなう雛人形で、江戸時代末期に京都・大阪で流行し、明治時代以降も関西圏で人気がありました。御殿は畳一畳からはみ出すほど大きく、寝殿に脇御殿が附属し、上段奥には大和絵の障子がはめ込まれ、上部が付けられるなど細部までこだわった本格的な作りです。男雛女雛とともに三人官女・随身などのお人形や様々な道具類も附属する、明治時代の京都の旧家を代表する御殿雛であります。
御殿雛飾り
小見山家・柴田家寄贈
京都の旧家より寄贈を受けた雛飾りです。男雛・女雛・三人官女・御殿などは明治40年(1907年)に、五人囃子・灯台などは昭和3年(1928年)に、それぞれ母と娘の初節句に合わせてあつらえられました。
内裏雛飾り
越智恵津子氏寄贈
男雛・女雛・三人官女・随身・仕丁の人形に加え、犬張子(いぬはりこ)や几帳(きちょう)・灯台、そのほかの調度類も揃った雛飾りです。人形は福々として愛らしく、表情もあどけない子どもそのものです。木製の人形の表面に布を被せる。「木目込(きめこ)み」の技法で作られています。
板雛・紙雛
名古屋東照宮祭礼山車
花魁(おいらん)
さまざまな人形・雛道具
鉄線唐草蒔絵懸盤
立涌に松竹梅蒔絵雛道具
黒棚飾り 厨子棚飾り 書棚飾り 耳盥・輪台 長持 帯簞笥 櫛台 など
犬張子(犬筥) 名古屋市・建中寺蔵 二対
市松人形 瀧沢光龍斎作 徳川正子(尾張家20代義知夫人)所用 一体
御所人形 東京・西光庵寄贈 一組
染付食器 一組
合 貝
貝合わせは蛤の身と蓋を合わせる遊びです。二枚貝は特定の一片としか合わないため、
合貝とそれを納める貝桶は、貞節の象徴として婚礼道具の中で最も大切にされました。
合貝 俊恭院福君(尾張家11代斉温継室)所用 江戸時代 19世紀
合貝 武蔵野蒔絵貝桶附属 徳川義直(尾張家初代)・京姫(義直娘)ほか筆
相応院(尾張家初代義直生母)所用 江戸時代 17世紀
<特別公開>
大正天皇ゆかりの御台人形
小さい台が付属する御所人形は江戸時代より製作されてきましたが、明治時代に入ると
草木や小道具などを配した大型の台に飾られた御所人形が登場する。この御所人形は、
「御台人 形 」と呼ばれ、皇族の子女が初参内・初節供・初誕生日などの慶事の折々に、天皇・皇后より賜る特別な御所人形であります。題材は皇族の慶事にふさわしい吉祥的説話
や謡曲などに取材しています。
今回展示する2つの御台人形は、久邇宮朝彦親王の第九子稔彦王(1887~1990)が明治39年(1906)に創始した宮家・ 東 久邇宮家旧蔵の品であります。
用語解説
黒棚(くろだな)
厨 棚(台所棚)から発生したといわれ、室町時代に厨子棚と共に成立した。主に女性の化粧道具を飾る。厨子棚と同じく四段の棚からなり、二と三の棚の間に局があります。厨子棚・黒棚・書棚をあわせて三棚という。室町時代には厨子棚・黒棚の二棚の組合わせであったが、江戸時代初期に書棚が加わり、婚礼調度には三棚を一組として扱うようになった。
書棚(しょだな)
厨子棚・黒棚が室町時代に形式が定まったのに対して、書棚は江戸初期になって婚礼調度に加えられた。飾り付けには特別な決まりがなく、冊子や巻物を飾る。形態や大きさも幾分自由であり、最下段には二本引または四本引の引戸が付く。
厨子棚(ずしだな)
平安時代の公家の調度であった二階棚と二階厨子が変化して、室町時代に成立していたとい われている。手箱・香道具・硯箱などを飾る。上段から一の棚・二の棚・三の棚・四の棚の四段からなり、一の棚は左右の両端が端反りである。二と三、三と四の間の二箇所に観音開きの扉がつく局がある。
挟箱(はさみばこ)
外出の際に必要な衣類・調度・装身具を納めて従者に担がせる箱。方形で被蓋造、棒を蓋かぶせぶたづくりの上に通して肩に担ぐ。近世の武家独自の旅行用具。語源は昔、衣服を竹に挟んで運んだためという。大名行列で先頭を挟箱が行く場合は、先箱とも呼ぶ。
伏籠(ふせご)
格子状の方形の箱形、または棒を緒でつないで組んだ柵状で、これに衣服をかける。中に香炉を入れ、衣服に香をたきこめるために用いる。
長持(ながもち)
衣服・調度などを納める長方形の大型の箱。吊り金具が両端に付き、棒を通して前後二人で担ぐ。大中小の大きさがあり、数も数個以上揃えられた。
耳盥(みみだらい)
半球状の盥で、左右に耳状の把手が付く。歯黒染の際に用いられ、渡金を耳盥の口縁に渡しとっ てその上で鉄漿(お歯黒の墨)を溶く。
広蓋(ひろぶた)
元来は衣服を入れる箱の蓋の転用であったが、発展して身は作られず衣服用の大型の盆とし て作られるようになった。また衣服に限らず贈答品や客人へ供する物品なども載せる。
楾・角盥(はぞう・つのだらい)
角盥は半球状の盥に四本の角状の手が付くところからこの名称がある。二人でこの手をもって運ぶのに便利な構造で、水指の楾と一対をなす。
行器(ほかい)
外居とも書く。「ほがい」とも読む。食物を入れて運ぶ容器。通常は二個一対。外反りの四 脚が付き、円筒形と四角柱形がある。身から蓋にかけて紐で結び、棒を通して担ぐこともあ る。
指樽(さしだる)
酒を入れる箱形の容器。上部に注口をつける。
尾張徳川家とは
尾張徳川家は、江戸時代に創設された大名家である。徳川将軍家に連なる御三家の筆頭格で、諸大名の中でも最高の格式(家格)を誇っていました。
初代は徳川家康の9男義直(1600~50)です。義直は慶長12年(1607)、父・家康の命で尾張国(現在の愛知県西部)の大名となり、名古屋城を居城としました。61万9500石の石高を領し、尾張国や美濃国の一部などを領地としていました。御三家の重要な役割として、徳川将軍家に跡継ぎが無い時には、尾張徳川家は紀伊徳川家とともに将軍後継者を出す資格がありましたが、尾張徳川家からは将軍を出すことはありませんでした。
初代義直は学問を好み、儒教に傾倒して文治政策を推し進め、2代光友(1625~1700)以降の歴代当主もまた、学問に励みました。7代宗春(1696~1764)は、8代将軍吉宗がかかげる質素倹約政策に反して積極的な自由放任政策をとり、城下町名古屋に繁栄をもたらした結果、「芸どころ」名古屋と呼ばれるきっかけを作りました。
7代宗春が8代将軍吉宗の命で隠居謹慎を命ぜられたあと、8代宗勝(1705~61)が分家の高須松平家から尾張徳川家に入り家督を継ぎました。宗春の治世の放漫財政と風紀の乱れを一掃し、人心の刷新をはかった宗勝の政治改革は、9代宗睦(1732~99)へと継承され、その後尾張徳川家は、将軍家や御三卿から養子を迎えながら、幕末へと向かいました。
幕末維新期の尾張徳川家のかじ取りを担ったのが、分家の高須松平家出身で尾張徳川家の家督を相続した14代慶勝(1824~83)でした。慶勝は将軍継嗣や外交問題で時の大老・井伊直弼と衝突して隠居謹慎を命ぜられ、慶勝の弟・茂徳(1831~84)が尾張徳川家の家督を継いで15代となりました。慶勝も謹慎解除後は復権し、年少の14代将軍家茂を補佐しました。15代将軍慶喜が大政奉還した慶応3年(1867)当時、尾張徳川家は慶勝の子の16代義宜(1858~75)が当主で、慶勝は隠居ながらも義宜を後見する立場にいました。
16代義宜の早世により、慶勝は高松松平家より義礼(後の尾張徳川家18代 1863~1908)を迎え、その後、越前松平家から迎えられたのが19代義親(1886~1976)でした。
義親は、歴史学者・生物学者であったと同時に、政治家・事業家としても盛んに活動しました。その一方で伝来の美術品の保全を図るため、昭和6年(1931)財団法人尾張徳川黎明会を設立、同10年名古屋の地に美術館を建設し、尾張徳川家伝来の宝物の公開を始めました。徳川美術館の開館です。義親の後は20代義知(1911~92)・21代義宣(1933~2005)が継ぎ、現在22代義崇(1961~)が美術館の館長を務めている。
徳川美術館の建築
徳川園の入り口・・・かっての尾張徳川家名古屋別邸の表門、通称「黒門」をくぐると、緑に囲まれた石畳の向こうに、徳川美術館の前景が見えてくる。公園と美術館が一体となったゆったりした雰囲気は、そのまま館内へと続いていく。
徳川美術館本館(国の登録有形文化財)
設計競技の1等案をもとに吉本与志雄が実施設計を行った。施工は竹中工務店。外観の意匠は城壁を思わす外壁を巡らし、屋根は緑色釉薬瓦葺とし鯱を置く。全体としていわゆる帝冠様式のデザインをもつ建物で、尾張徳川家の所蔵品を展示する。
徳川美術館山の茶屋(国の登録有形文化財)
上段の間と中段の間を置く東西棟と、下段の間と茶室を置く南北棟を矩折に接続する。東西棟は面皮柱、南北棟はスギの四方柾柱を多用するほか、掛込天井や砂壁、下地窓を採用し、部屋の隅を斜めに切るなど数寄屋の好みを表現する。大名庭園の面影を伝える。
徳川美術館餘芳軒東屋(国の登録有形文化財)
九尺四方の方形平面で、隅柱を出節丸太とし、皮付丸太の間柱を立てる。軒は化粧屋根裏で、皮付小丸太を扇状に配して傘天井とし、方形造の屋根を軽快に架ける。内部は東側面に腰掛を置くのみの簡素な設えで、雅客の腰掛待合として供される。
徳川美術館心空庵及び餘芳軒(国の登録有形文化財)
四畳半本勝手の茶室心空庵と、その東側の十畳広間を中心とした餘芳軒からなる。心空庵は茶室に三畳の水屋と矩折の腰掛待合を付ける。材木商を営んだ大寶正鑑の設計になり、霧島スギや神代材などの銘木や奇木を多用する。数寄屋の趣向を凝らした近代和風建築。
徳川園の流し雛
2月24日(土)正午~午後3時 徳川園ガーデンホール前
「流し雛」は「雛祭り」の原型とされています.。
手作りの作品を徳川園の龍仙湖に浮かべます。先着150名様。
お問い合わせ 徳川園事務所 TEL 052-935-8988
交通アクセス
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」の明和町観光大使
協力(順不同・敬称略)
徳川美術館 〒461-0023 愛知県名古屋市東区徳川町1017 電話: 052-935-6262
文化庁 〒100-8959 東京都千代田区霞が関3丁目2番2号電話番号(代表)03(5253)4111
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