基調講演・コーディネーター
西村 幸夫氏(神戸芸術工科大学教授)
パネラー
「亀山市歴史的風致維持向上計画」の概要
亀山市の維持及び向上すべき歴史的風致
東海道53次関宿の歴史的町並み(重伝建)を背景として行われる「関の山車」(市指定有形・無形民俗文化財)の祭り、「旧亀山城多聞櫓」(県指定史跡)などがある旧亀山城内において伝承される「亀山藩御流儀心形刀流武芸形」(県無形文化財)、坂下宿から鈴鹿峠にいたる峠道で伝承される「正調鈴鹿馬子唄」(市指定無形民俗文化財)や「坂下獅子舞」(市指定無形民俗文化財)などが一体となって形づくっている、市内の東海道沿道の特色ある風情としました。
重点区域の位置及び区域
亀山市の歴史的風致の維持・向上を図るため、重点的かつ一体的に施策を推進する区域である重点区域は、重要伝統的建造物群保存地区に選定される亀山市関宿伝統的建造物群保存地区を中心として、亀山宿・亀山城周辺地域、坂下宿を含む、亀山市域の東海道沿道約19.5キロメートル、面積約500ヘクタールとしました。
計画期間
平成20年度から平成32年度まで(13ヵ年)
今後実施する事業等
亀山市の歴史的風致の維持及び向上を図るため、重点区域内において、旧亀山城多聞櫓・旧舘家住宅・亀山藩主石川家家老加藤家屋敷跡などの文化財の復原整備、東海道沿道や亀山公園を含む旧亀山城周辺の歴史的環境の整備、関宿や東海道沿道における市民・散策者の休養・案内・交流施設の整備等を一体的・重点的に実施するとともに、景観計画の策定 など景観形成に関する諸施策による歴史的景観の保護を進めます。
亀山市における歴史的風致の維持及び向上に関する基本方針
「富士山には月見草がよく似合う」と井伏鱒二は言う!
「古い町並みには山車と法被がよく似合う」と答えたい!
亀山市の古い町並み。都会では味わうことのできない懐かしい夏まつり。若者は今日はどんな出会いが?ウキウキと!ご高齢者はお孫さんを連れて里帰りの娘夫婦と楽しいひと時を!
ご夫婦は村祭りの若かりし頃を想い出し・・・そんな東海道亀山宿に今年の夏がやってくる!
戸口の提灯に灯がともると、誰だったかな?よく思い出せないけれど何となく懐かしい顔が浮かび上がる・・・
高知県佐川町
高知県佐川町計画策定の背景と意義
平成20年5月に公布された「圪域における歴史的風致の維持及び向上に関する法律」ではその目的として、「地域におけるその固有の歴史及び伝統を反映した人々の活動とその活動が行われる歴史上価値の高い建造物及びその周辺の市街地とが一体となって形成してきた良好な市街地の環境(以下「歴史的風致」という。)の維持及び向上を図る」としている。
事実、多くの地域では、市街地などで歴史的な建造物が失われつつあり、また、高齢化等により地域の伝統行事が維持できない状況があるなど、歴史的風致が失われる例があり、我が国固有の伝統的文化の喪失、郷土意識や地域の活力の低下が懸念されている。
本町も、江戸期以来、郷校名教館(めいこうかん)を中心とした文教施策に重点を置き、「文教のまち」として人づくり・まちづくりを進めてきたが、高齢化に伴い伝統行事の保存や継続に困難を来したり、建物の老朽化が進む中で建て替えや取り壊しが行われるなど、歴史的風致の喪失が進みつつあるといった同様の課題を抱えている。一方、竹村家住宅の国重要文化負指定を契機として歴史的文化の重要性の再認識やその保護・活用に対する地域住民の関心は高まりつつあり、特にそれらを活用したまちづくり活動が盛んになりつつある。失われつつある文化財や歴史的建造物、伝統行事を適切に保護し活用することと、そこに携わる地域住民の活動が相乗効果を生み、佐川町固有の歴史的風致を維持向上させることで、文教のまちづくりがさらに推進されることが期待されている。
佐川町の歴史
佐川の歴史は古く、不動ガ岩屋洞窟(国指定史跡)より隆起線文系に属する土器をはじめ縄文時代以降にわたる土器、石器が多量に出土したことから約1万2千年前より、人類の生活が営まれていたことがわかる。
文献で佐川の歴史が確認できるのは、南北朝動乱の時代からだが、数箇所の遹跡や窯跡などから律令制度に組み込まれていく様子や、文化財として残る仏像などから当時の文化が佐川まで及んでいたことがしのばれる。中世を経て、元亀2年(1571)頃の長宗我部元親による佐川の陣により、高北地区諸豪の盟主的存在であったと伝えられる中村氏はその地位を久武内蔵助に奪われ、彼を筆頭とした長宗我部直臣団(佐川番衆)が高北における支配体制の要となり、久武氏は松尾山(上郷地区)の松尾城へ入った。
天正初年頃(1573)、長宗我部氏の重臣筆頭久武内蔵助は松尾山の水不足を嫌い、古城山(現奥の土居 )に城を移した。久武氏の城主時代は僅々30年で、しかもその間は長宗我部の四国制覇、朝鮮出兵と転戦に次ぐ転戦で高北経営の落ち着いた期間がなく、長宗我部の滅亡とともに久武領主時代は終わった。
関ヶ原の戦いを経て、山内一豊 の土佐入封時にその筆頭家老職深尾和泉守重良が佐川城付一万石に封ぜられ、以来11代約260余年間明治維新に至るまで高吾北18か村の要としてその城下である佐川に封建文化の花を咲かせた。深尾氏は土居付家老で、その土居下町佐川に家臣団と町人を集住せしめ、領内の政治と経済を支配することになる。高北盆地から土予国境の山村に及ぶ佐川領は、他支配を混えない地域的完結性をもち、その領民に対する
権限も強大で、死罪を含む重罪裁判権を行使し得るなど、あたかも藩内の小大名とも言うべき存在であった。こうした例は全国的にみても希少な部類に属し、土佐近世史の中でも特異な佐川の歴史・風土を形成することになった。
佐川の経済は、里分9か村・山分9か村といわれた両地域の異質な生産力を基盤に、流通機能を土居下町人町へ集中することにより成り立っていた。
里分からは米、山分からは紙、茶などの特産品または代納銀を徴収した。
佐川町の自然と風土
佐川町は、四国山地の支脈である虚空蔵山(674.7m)、勝森(544.8m)、蟠蛇森 (796.2m)などの山に囲まれた中央盆地状の地形で、盆地内は丘陵や低山と斗賀野・永野・尾川・佐川・黒岩の各平坦地からなっている。盆地内の海抜高度は、斗賀野で約100m、佐川で約80m、黒岩で約60mである。丘陵の尾根や盆地周辺の山脚は、ほとんど東西方向に並び、その間に谷底平坦地が形成されている。また、南北方向にも、丘陵を横切る幅広い平坦地が広がっている。このように佐川盆地には、諸外国の例に比べるとコンパクトであるが、日本では代表的な構造盆地が形成されている。
岡山県高梁市
写真左上「備中松山城(重要文化財)と 城下町高梁」。右上「備中神楽(重要無形民俗文化財) 猿田彦の舞」。左下「渡り拍子(高梁市指定重要文化財)」。右下「高梁市吹屋伝統的建造物群保存地区(重要伝統的建造物群保存地区)」
計画策定の背景
高梁市は、平成 16 年 10 月1日、旧高梁市、旧有漢町、旧成羽町、旧川上町、旧備中町の1市4町が合併し、新しい高梁市として誕生した。高梁市は岡山県中西部に広がる吉備高原に位置し、高梁川とその支流である成羽川・有漢川などの流域や山間部の豊かな自然は、人々に多くの恵みをもたらし特有の文化が育まれてきた。
古来より備中国の中核を占め、山間部が多いこの地域では山城や砦が築かれ、その麓には城下町がいくつか形成されてきた。近世は幕藩体制のもとに備中松山藩を中心に繁栄してきた。近代以降も政治、経済、教育の中心地として発展してきている。
また、銅山とベンガラの町として繁栄した特徴的な歴史的町並みもあり、先人が築いたその風情を残す歴史的町並みと伝統や文化が今も大切に守られている。
民俗文化では、重要無形民俗文化財の備中神楽が古くから神社などで奉納され、現在では高梁市を代表する伝統芸能となっている。市指定重要文化財の渡り拍子や松山踊りなど五穀豊穣を願い生まれた祭礼行事が、数百年に亘り今日に受け継がれている。
このように、高梁市では歴史ある町並みや寺社などの建造物と豊かな自然の恵みを願う祭礼行事などが一体となって醸し出す風情、情緒、たたずまいが、今も各地域で大切に受け継がれ、市民一人ひとりの財産となっている。
しかし、数多くの歴史的建造物や町並み、伝統行事が伝わっている一方で、過疎化や高齢化が進む中、空き家や空き地が目立つようになってきており、町並みの連続性が失われつつある。生活スタイルの変化により、現代的な家屋や駐車場などが増え、歴史的町並みの維持が困難になってきている。さらに伝統行事や伝統芸能についても、過疎・少子高齢化が進み地域では人々のつながりが希薄化する傾向の中で、伝承も重要な課題となってきている。これまでにも、伝統文化を育み、貴重な文化財の保護・保存・整備に努めるとともにその活用を図り、周辺との調和を優先させた景観の形成に努めてきたが、高梁市における固有の歴史及び伝統を反映した人々の活動とその活動が行われる良好な市街地の環境を維持及び向上していくためには、今まで以上に市民と行政が協力して取り組むことが必要とされている。
高梁市吹屋伝統的建造物群保存地区(重要伝統的建造物群保存地区)
計画策定の意義
高梁市は、重要文化財である備中松山城、風情や情緒あるたたずまいのある城下町、重要伝統的建造物群保存地区である吹屋ふきや地区の銅山とベンガラで繁栄した町並み、備中神楽、渡り拍子、そして松山踊りなどの伝統的な文化や芸能など、長い歴史と伝統を誇るものを育みつつ、まちづくりを展開してきた。
平成 20 年 11 月、「地域における歴史的風致の維持及び向上に関する法律」が施行されたことが、高梁市が抱える歴史的風致に関する課題を整理し、対策を打っていく契機となった。
本市の目指すまちづくりの柱である、地域文化と心豊かな人を育むまちづくりを
一層実効的に推進するために、歴史的風致維持向上計画を策定し、本計画を文化施策とまちづくりの指針とすることで歴史的風致の維持及び向上を図っていく。
計画期間
平成 22 年度~平成 31 年度の 10 年間とする。
高梁市吹屋伝統的建造物群保存地区の町並み紹介
吹屋周辺の歴史的建造物
川越
時の鐘
川越の町並み
商家
川越は、武蔵野台地の東北端にあり、入間川が西部から北部、東部へと流れ、古代から自然環境にたいへん恵まれたところでした。
現在の川越のまちづくりの基は、江戸城を築いた太田道真・道灌父子が扇谷上杉氏の居城として、長禄元年(1457)に河越城を築いたころからといわれています。江戸時代になり、江戸の北辺の要衝として重要視され城下町として隆盛を極めました。特に知恵伊豆と呼ばれた松平信綱は、寛永 15 年 (1638) の「川越大火」の翌年に城主となり、復興にあたり「町割」を行いました。城の南北や城下の出入口にあたる街道筋に武家地が配置され、町人地では十ヵ町四門前の制度を定め、商人町の上五ヵ町、職人町の下五ヵ町による十の町と四つの門前町で構成されました。寺社地においては、城下町の北部から西部にかけて外側から町人地を保護するように意識的に配列し、外防御線が形成されました。なお、川越では町の周辺に村が町場化した町と村の中間的地域の郷分が形成されました。また、町割の根幹をなす街路は、十字路の他に丁字路やカギ型路、袋小路を含む五の字型を基本として計画され、この街路形態は、現在も色濃く残っています。
川越の伝統的な町並みは間口が狭く、奥行きの長い敷地割りのため、表は連続的に軒を連らねながらも、奥には中庭を取り、さらに裏手には寺社のオープンスペースがあるなど、商業地としてのにぎわいの演出と快適な住環境を両立させる知恵が活かされたものとなっています。
大沢家住宅(重要文化財)
川越を代表する歴史的景観である「蔵造りの町並み」の形成は、明治 26 年(1893)の川越大火を契機としています。この大火でまちは3分の1以上を焼失し、たいへん大きな被害をうけました。まちの復興にあたり川越商人は、当時表通りで唯一残り現在重要文化財となっている大沢家住宅(1792)の蔵造り(店蔵)を範として、東京(江戸)に多く建てられていた日本の伝統的な防火建築である土蔵造りを主に採用しました。
首都圏の多くのまちでは、かつてあった歴史的な町並みが壊されていきましたが、このまちでは、住民主体のまちづくりによって「小江戸」と呼ばれるにぎわいをみせた当時の面影を「蔵造りの町並み」として今に伝えています。
また、まちのシンボルである「時の鐘」、大正・昭和期に建築された洋風町屋や銀行などの近代建築が調和した町並みは、わが国の都市建築の変遷をうかがわせるものであり、全国的にもたいへん貴重な町並みとして評価されています。
本日はこのあたりにて、ご紹介した四都市に加えあと四都市、計八都市の首長による
「歴史まちづくり法10周年記念シンポジウム」です、詳しくは当日会場にてご聴講ください。
今朝、文化庁のご協力で日南市を追加ご紹介いたします。
日南市
伝建地区と歴史文化基本構想
飫肥の魅力は,周囲の山々と酒谷川に囲まれた飫肥城下の町並みに数多くの文化遺産が残され,歴史的風致が良好に維持されていることにあります。さらには,山と植林,川と舟運,街道と周辺の町場や農村など,近代から現代にかけての社会構造の変化等に伴い,飫肥の城下町は,市内の様々な土地,様々な有形・無形の文化財とつながっていくことでしょう。
宮崎県南部の海岸に位置する日南市は、日向灘に臨む都市である。保存地区は桃山期以降に整備された伊東氏の城下町のうち、一部城跡の一部とかつての武家町にあたる。道路に沿って石垣を整然と積み上げた上に石塀等を設け、薬医門や長屋門を開き、その奥に主屋を配している。地方の小藩の城下町の典型的な景観を保ち、江戸時代当時の地割もよく残している。
飫肥は、伊東家5万1千石の城下町。こけむした石垣、大手門、長屋門、その他の門・長屋塀をはじめ種々の植栽や木立ちに覆われ、武家屋敷の名残をしのばせている。街区は、江戸時代初期に完成して以来、小規模な城下町として侍町と町人町が城址を中心にまとまっている。
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」の明和町観光大使
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国土交通省 〒100−8918 東京都千代田区霞が関2-1-3 (代表電話) 03-5253-8111
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文部科学省 〒100-8959 東京都千代田区霞が関三丁目2番2号 電話:03-5253-4111
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