伊達家墓所瑞鳳殿
伊達政宗と仙台藩の文化
仙台藩を築いた伊達政宗については、戦国大名として政治・軍事面での活躍は広く知られているところですが、その一方で時代を代表する文化人でもありました。
上方に負けない気概で自らの“都”仙台を創りあげようと、政宗は古代以来東北の地に根づいてきた文化の再興・再生を目指しました。
伊達家で育まれた伝統的な文化を土台に、上方の桃山文化の影響を受けた豪華絢爛、政宗の個性ともいうべき意表を突く粋な斬新さ、さらには海外の文化に触発された国際性、といった時代の息吹を汲み取りながら、新しい“伊達”な文化を仙台の地に華開かせていったのです。
そして、その文化は政宗だけに留まらず、
時代を重ねるにつれ、後の藩主に、さらには仙台から全国へ、
武士から庶民にまで、さまざまな方面へ広がり、定着し、熟成を加えていきました。
政宗による文化の確立
大崎八幡宮/国宝/仙台市
伊達政宗は、政治の拠点として新たに仙台城を築くにあたり、これまでの伝統を重視する姿勢をみせました。仙台は古代陸奥国府の所在地である宮城郡に位置することもあり、この地の名所・旧跡の再興と再生に力を尽くしています。 奈良時代の陸奥国分寺跡に薬師堂を建立し、平安時代の坂上田村麻呂にゆかりがあり、室町時代には奥州探題大崎氏の崇敬を受けた大崎八幡宮を仙台に移転させました。また、鎌倉時代以来、陸奥国随一の名刹と称される松島円福寺を瑞巌円福禅寺として再興しています。その際、畿内から当代一流の技術者を呼び寄せ、手の込んだ彫刻や極彩色からなる装飾性豊かな建造物や、金地に色彩豊かな濃絵で描かれた豪華絢爛な障壁画といった、桃山文化の豪壮華麗な手法を取り入れました。
瑞巌寺 五大堂
その一方で、伝統的な水墨画の世界も取り入れられ、具足や衣装などにも斬新な美意識が徹底されています。さらには南蛮文化の影響も受けており、西洋世界への関心の高まりもみられました。政宗の文化的素養は、和歌や連歌、茶の湯、能楽、香といった伝統的な文化にも発揮され、これらは伊達家伝来の学を通して身につけられるとともに、当代一流の文化人との交流のなかで磨かれていきました。
政宗以後の文化の広まり
時代を超えた広がり
東照宮/国重文/仙台市
承応3年(1654年)に2代藩主伊達忠宗が創建したもので、透漆塗、金箔、飾金具で装飾された本殿・唐門・透塀・随身門・鳥居等からなります。本殿の内陣には絢爛たる彫刻や飾金具、彩色が施された厨子が置かれ、徳川家康像を安置しています。鳥居は忠宗夫人振姫の郷里、備前国の犬島の花崗岩でつくられた明神鳥居で、県内最古の石鳥居です。
伊達政宗が築き上げた新しい文化は、その後さまざまな方面への広がりをみせ、より一層熟成されていき、その文化は現在宮城に暮らす人々の生活のなかにも深く根付いています。
政宗の文化に対する姿勢は、2代忠宗、3代綱宗、4代綱村、5代吉村と、次代の藩主たちに受け継がれ、さらに深化、発展を遂げていきました。忠宗の手による東照宮、瑞鳳殿、圓通院霊屋、綱宗による陽徳院霊屋、綱村から吉村の手による鹽竈神社などの建造物には、政宗の志向した豪華絢爛さがうかがえます。
伊達政宗夫人の田村氏(愛姫)の7回忌に当たる万治3年(1660年)に孫の綱宗が建立した霊屋です。小規模ですが黒漆塗、極彩色、飾金具により、政宗の瑞鳳殿に類する豪華さと優美さを誇ります。長い年月を経て腐朽・剥落が進んでいたため、平成18〜21年(2006〜2009年)に保存修理工事が行われ、創建当初の姿を取り戻しました。
※非公開のため見学はできません。
全国への広がり
観瀾亭及び障壁画
都の文化にあこがれた政宗ですが、それとは反対に都人たちは、古来遠いみちのくをあこがれの地として数多くの歌枕を詠んでいることから、領内にある松島や木の下などの歌枕の地に御仮屋を建て、酒宴を楽しみました。政宗の歌枕への深い造詣は、忠宗や綱村による古典の研究や名所旧跡の調査に引き継がれ、藩を挙げて歌枕の地の再発見と整備、保護に取り組みました。
その成果は江戸にも伝わり、松尾芭蕉は歌枕の地を自らの目で確かめようと、松島をはじめ、壺碑、末の松山、興井、籬が島、つゝじが岡、薬師堂などの歌枕の地を訪れ、その様子を『おくのほそ道』で紹介しています。そしてこれがさらに大きな影響をおよぼし、仙台藩内の歌枕はますます全国へ広まっていきました。
つゝじが岡及び天神の御社/国名勝/仙台市(左)
壷碑(つぼの石ぶみ)/国名勝/多賀城市(中)
富山観音堂・梵鐘/
国特別名勝・県指定/松島町(右)
庶民への広がり
仙台七夕/仙台市
政宗が築き上げた文化は、仙台城下の町人や職人など幅広い階層の人々に広がっていきました。仙台藩とのつながりの深い民俗芸能が、仙台城下で上演され、藩の保護・制約のもとで演じられています。大崎八幡宮の社人が例祭に行っていた神楽、八幡宮別当が関わっていた盆の鹿踊・剣舞、正月の城下の賑わいに華を添えた田植踊などの民俗芸能は、旧仙台城下及びその近郊の庶民などがその命脈を伝えました。また仙台城下が最も賑わった東照宮例祭の仙台祭は、伊達政宗をまつる青葉神社の例祭に行われる、仙台青葉まつりに受け継がれています。
大崎八幡宮の能神楽/県無形民俗/仙台市
また仙台藩の御用を務めた御職人たちが担っていた工芸品は、仙台城下の職人に引き継がれ、仙台平や仙台御筆、堤焼、仙台張子、仙台箪笥などへと広がっていき、今日でも伝統工芸品として生き続けています。
仙台張子/県伝統的工芸品/仙台市
仙台張子は、天保年間(1830〜1844年)頃、仙台藩士・松川豊之進によって創始されたものと伝えられています。仙台張子の主流で青いだるまとして名を馳せる「松川だるま」は、顔のまわりが群青色で縁取られ、胴体に宝船や福の神が鎮座する色鮮やかなだるまで、古くから仙台の庶民に縁起物として親しまれています。ほかに黒面や張子玩具等の製品もあります。
仙台箪笥/国伝統的工芸品/仙台市
江戸末期から製造されはじめ,明治大正にかけて現在の仙台箪笥が定着したと言われます。4尺箪笥が原型で、木地は欅を主体とし、木地呂塗りで仕上げ、牡丹や唐獅子などの文様の手打ち金具で装飾した堅牢で重厚な箪笥で、「指物」「漆塗り」「金具」の3つの熟練した職人技によって生み出されます。
平安時代以来、みちのくの歌枕として多くの歌に詠まれています。松尾芭蕉が『おくのほそ道』の旅の中で紹介したことにより全国にその名が広まり、多くの文人が訪れるようになりました。七ヶ浜町字御殿崎の突端から東松島市の鳴瀬川河口右岸までの島々・沿岸部全て(塩竈市・七ヶ浜町の一部を除く)が特別名勝として指定されています。総面積9,717ha、大小様々な260余りの島々を含み、四季それぞれに趣を変える景勝の地です。
『松島や鶴に身をかれほととぎす』 曾良
芭蕉翁「曾良は句を詠んだが、私は句も詠めず、眠れない状態だった」そうです。
それでは『松島や ああ松島や 松島や』の句は誰が・・・
芭蕉翁は、元禄2年(1689)3月27日に、門人の曽良とともに江戸を出発し、東北・北陸地方を巡り、8月21日に大垣で、『奥の細道』の旅を終えました。ときに芭蕉46歳。距離にしておよそ2400キロ、150日あまりにおよぶ生涯で最大の旅でした。
奥の細道むすびの地、我がふるさと水の都「大垣」船町港に建つ芭蕉と木因像
これから暑くなると地下水で冷やした「水まんじゅう」がたまらなく美味い!
奥の細道の最後の句は「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」・・・今から約329年前のことです。
日本三景「松島」にて日本遺産「政宗が育んだ“伊達”な文化」のむすびといたします。
協力(順不同・敬称略)
文部科学省〒100-8959 東京都千代田区霞が関三丁目2番2号電話番号:03-5253-4111(代表)
文化庁 〒100-8959 東京都千代田区霞が関3丁目2番2号 電話番号(代表)03(5253)4111
補足資料
ちなみに平成30年度「日本遺産」認定一覧は
どの地も魅力的なタイトルです。徐々にご紹介していきたいと思います。
鎹八咫烏 記
伊勢「斎王」の明和町観光大使
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