万葉の時代より潮待ちの港として栄えた瀬戸内海の港町
福山市鞆町(ともちょう)伝統的建造物群保存地区
福山市鞆町(港町 広島)
福山市は、広島県の東南端に位置し、保存地区のある鞆は福山市中心部から約15キロメートルの距離にある港町である。中世の骨格を引き継ぎながら江戸中期までに整えられた地割に、江戸時代からの伝統的な町家や寺社、石垣等の石造物、港湾施設などが一体となって良好に残り、瀬戸内の港町としての歴史的風致を良く伝えている。
福山市鞆町(ともちょう)伝統的建造物群保存地区
所在地 福山市鞆町鞆字西町の全域並びに鞆字石井町 ,字関町 ,字江之浦 ,字道越町(みちごえちょう) ,字古城跡 ,後地(うしろじ)字古城跡及び字草谷の各一部
面積約8.6ヘクタール
広島県福山市鞆町は,瀬戸内海に突き出た沼隈(ぬまくま)半島南東部の港町で,その中心の鞆は,江戸時代の町人地を引き継ぐ。潮待ちの港としての好条件を備え,古来より海上交通の要衝として栄えた。周辺の島々と共に成す景勝は,「鞆の浦」として万葉集にも歌われている。
室町時代後期には,すでに相当の町場が形成されており,慶 長5年(1600)に安芸・備後両国を領した福島正則が,海を見渡す小丘の鞆城を中心に城下町としての整備を行い、鞆城北麓は武家地,南麓から東麓にかけては町人地とされた。元和(げんな)5年(1619)から元禄11年(1698)までの水野氏の時代には,福山に城下町が整備されて,鞆には奉行所や船番所などが置かれ,港町としての性格を強めていった。この頃までに町人地は7町に区分され,18世紀初頭には現在の市街地の基礎が整った。
江戸中期の7町の人口は,5,800人規模である。
保存地区は,江戸時代の町人地のうち,廻船業の中核を成し,近代以降の地割の変化が少なく,江戸時代の町家主屋が良く残る8.6ヘクタールの区域である。2間を標準とする狭い間口の敷地が集積する一方,隣接地を買い取りながら敷地を拡大した商家も見られ,その代表例として重要文化財太田家住宅及び太田家住宅朝宗亭がある。町家主屋は,切妻造 ,平入,2階建を基本とする。正面に「オダレ」と呼ぶ下屋(げ や)を設け,本瓦葺とするのが江戸時代から明治時代に続く古い形式で,庇が連なる景観を特徴の一つとする。
寺社の境内には建物と共に石垣や燈籠 ,石碑等の石造物が残り,福禅寺本堂及び客殿対潮楼は史跡「朝鮮通信使遺跡」として知られる。港には,江戸後期から明治前期までに整備された,雁木や船繋石(ふなつなぎいし),常夜燈,浜蔵が残る。
福山市鞆町伝統的建造物群保存地区には,中世の骨格を引き継ぎながら江戸中期まで 整えられた地割に,江戸時代からの伝統的な町家や寺社,石垣等の石造物、港湾施設などが一体となって良好に残る。瀬戸内の港町としての歴史的風致を良く伝え、我が国にとって価値が高い。
谷が分かつ南北の台地に築かれた,坂が特徴的な武家町
杵築市(きつきし)北台南台伝統的建造物群保存地区
杵築市北台南台(武家町 大分)
南の八坂川と北の高山川に挟まれ、東にある守江湾に向かって長く延びる岬と背後の台地上にあり、その台地は西から東に流れる谷川によって南北に分断され、北部は北台、南部は南台と呼ばれている。近世ではその両台地上は杵築藩の家老以下の主立った武士の居住区であり、近代以降は近世の旧屋敷地割りを良く残しつつ近現在の住宅が建てられているが、武家住宅も残されている。
杵築市(きつきし)南台伝統的建造物群保存地区
所在地 大分県杵築市大字南杵築字本丁及び字カブト石の全域並びに大字杵築字下町,字谷町 ,字北台,大字南杵築字梅ヶ小路,字台茶屋及び字裏丁の各一部
面積約16.1ヘクタール
国東半島南部に位置する大分県杵築市の中心市街地は,杵築藩の城下町を引き継ぐ。杵築は大友氏配下の木付氏の本拠であったが,文禄2年(1593)に豊臣秀吉の蔵入地となり,慶長5年(1600)には細川忠興の支配下に入った。正 保2年(1645)に松平英親が入封した後は,幕末まで松平氏が藩を治めた。小藩ながらも17世紀後期より七島藺(しちとうい )の生産で経済基盤を築き,教育が盛んで,多くの文人を輩出している。
城下町は,細川忠興家臣で城代の松井康之が慶長期に縄張りをし,17世紀半ば,松平英親の時代に地割が概ね整った。守江湾に突き出す丘陵北麓に藩主の居館が置かれ,その西方の海蝕崖(かいしょくがい)で囲まれた台地は武家地,台地を囲む低地は町人地とされた。台地は谷で南北に分けられ,北部は北台,南部は南台と呼ばれる。南台の西端には寺地が配された。
町人地は戦後に道路拡幅がなされたものの,北台と南台の武家地は住宅地として今日に至り,正保以来の藩政期の地割を良好に留めている。
保存地区は,北台及び南台の旧武家地から成る約16.1ヘクタールの範囲である。両台とも江戸時代に数度の大火があったが,その都度再建され,江戸末期の武家屋敷を良く残す。
北台と南台の周縁には要所に坂が切り通され,台地上には家老丁,本丁,裏丁等の区画
がなされて,主に高禄の家臣の屋敷地が配された。敷地は石垣で造成して土塀などで囲い,通りに面して長屋門や薬医門で門口を開く。武家住宅の主屋は茅葺や瓦葺で,式台を構えて格式を示し,主屋と門の間には前庭を配してソテツやマツを植える。
杵築市北台南台伝統的建造物群保存地区は,南北台地上に区画された杵築城下の武家地
で,藩政期の地割を踏襲し,近世武家住宅の主屋と門及び,その形式を受け継いだ近代の住宅主屋を伝統的建造物として良く残す。高低差のある地形を生かして天然の要害を成し,坂を巧みに配して武家地を結節する縄張りは,石垣や石段,土塀などによって雄大な景観
として表われ,その独特な歴史的風致は我が国にとって価値が高い。
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鎹八咫烏 記
伊勢「斉宮」の明和町観光大使
早朝、メールをチェックしたところ、読者の『瀬戸の花嫁』さんからこんな嬉しいお便りが届いていましたのでご披露いたします。
「鞆の浦の町並、拝見!私の小学校時代の修学旅行先でした。広島が未だ瓦礫が沢山残る状況の中で訪ねたから、あの時は小泉八雲になったような気持ちで、すっかり異邦人の眼になり、こんな素敵な景色ってあるものかと、まるで雲の上を歩いてる心地でした。初めて見る日本文化の美を身体の芯に焼き付けました。」 また、この度はこの鞆の浦も曾て朝鮮通信使の寄港地として、ユネスコ世界記憶遺産に登録されたそうで、誠にお目出度うございます!小学生だった私が、衝撃を受ける程だった美しさが、幾十年も経て改めてクローズアップするなんて、まるで自分の事の様に嬉しくなりました! 特に朝鮮通信使の記録では、 対潮楼からの風光明媚な眺めを『日東第一形勝』と讃えたとか。バンザイ!鞆の浦。
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