高句麗は紀元前37年朱蒙(東明聖王)により朝鮮半島北部に建国。朱蒙とは故郷扶余の言葉で、弓の達人の意味。その後、百済、新羅ができ三国となり更に三韓統一される。
高麗人の「高麗(こま)」は前37年頃~668年まで主に朝鮮半島北部から中国東北部にかけて繁栄した「高句麗(こうくり)」のことを指します。日本では高句麗を「高麗」と記し「こま」と称しました。高句麗滅亡前後、多くの高句麗人が海を渡り日本へ渡来しました。日本では高句麗からわたってきた人々を「高麗人=こまひと」と呼んでいたのです。
高麗郡建郡以来、およそ1300年にわたり先人が築いてきた歴史や文化に感謝するとともに、それを未来へつなぐ礎とし、旧高麗郡とその隣接する市町(8市3町)、及び関連地域の広域観光、文化交流、国際交流を中心に地域の振興と活性化に取り組んでいくことを目的として一般社団法人
高麗1300は設立されました。
約1万年前、氷河期が終わり温暖化すると海面が上昇し、日本列島は 大陸から分離しました。この時以来、日本列島に渡来する者がいて稲作 を伝えたりしましたが、大和朝廷による統一国家形成の段階に入ると、 渡来して大小の氏族集団を形成した人びとが先住の氏族集団と区別して 意識されるようになりました。このため、4世紀から7世紀頃に中国大 陸及び朝鮮半島から日本に移住した人たちを渡来人と呼びます。
高麗人の「高麗(こま)」は前37年頃~668年まで主に朝鮮半島北部から中国東北部にかけて繁栄した「高句麗(こうくり)」のことを指します。日本では高句麗を「高麗」と記し「こま」と称しました。高句麗滅亡前後、多くの高句麗人が海を渡り日本へ渡来しました。日本では高句麗からわたってきた人々を「高麗人=こまひと」と呼んでいたのです。
高麗郡は、霊亀2年(716年)5月16日に現在の埼玉県日高市と飯能市を中心に設置された郡です。
その後、郡域が拡大し、鶴ヶ島市全域、川越市、入間市、狭山市の一部まで含まれるようになりました。
高麗郡には高麗人(こまひと)1799人が移住しました。初代郡司は『高麗王若光』でした。
高麗郡に移住した高麗人たちは、以前は東国7ヶ国(駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野)に住んでいました。現在の県名でいえば、静岡、山梨、神奈川、千葉、茨城、栃木となります。大和朝廷は入間郡の一部に広がっていた空閑地を高麗郡とし、高麗人1799人が移住しました。彼らは生活の基盤を整えつつ、郡役所の建設、道路の敷設など郡として必要な整備をしたと思われます。
高麗郡初代郡司の高麗王若光が没した後、高麗郡の住民が若光の御霊を祀るために建立した高麗神社、僧勝楽が若光の菩提を弔うために建立を発願した高麗山聖天院勝楽寺が日高市新堀に存在しています。その他にも、日高市と飯能市を中心に高麗郡建郡当初のものと思われる遺跡や遺物が発掘されています。
高麗郡関係略年表
紀元前2世紀 高句麗建国
4世紀末 倭国が百済・新羅を「臣民」とする 広開土王碑文
396年 高句麗、百済の都城(漢城)を陥落させる
414年 高句麗広開土王碑が建てられる 広開土王碑文
427年 高句麗、平壌に都を遷す
595年(推古3) 高句麗僧の慧慈が倭国に来る 日本書紀
605年(推古13) 高句麗王、倭国に黄金300両を贈る 日本書紀
610年(推古18) 高句麗僧の曇徴が倭国に紙・墨の製造技術を伝える 日本書紀
631年(舒明3) 百済王子豊璋、倭国の人質になる 日本書紀
660年(斉明6) 百済滅亡
663年(天智2) 白村江の戦い 日本書紀
666年(天智5) 玄武若光、高句麗使節の副使として倭国に来る 日本書紀
668年(天智7) 高句麗滅亡
この頃 高句麗遺民の肖奈福徳(福信の祖父)が渡来する 続日本紀
687年(持統元) 渡来した高句麗遺民(56人)を常陸国に住まわせる 日本書紀
703年(大宝3) 高麗若光、高麗王の姓を賜る 続日本紀
【716年(霊亀2)】 武蔵国に高麗郡が建郡される 続日本紀
717年(養老元) 高句麗・百済よりの渡来人の課役を終身免除とする 続日本紀
この頃 高麗若光没し、霊廟が建てられる(高麗神社の創建) 高麗氏系図
748年(天平20) 若光の長子家重が没すと伝わる 高麗氏系図
750年(天平勝宝2) 肖奈王福信、高麗朝臣の姓を賜る 続日本紀
751年(天平勝宝3) 高麗氏の侍念僧勝楽が没する 高麗氏系図
756年(天平勝宝8) 高麗朝臣福信、武蔵守となる(紫微少弼の兼官) 法隆寺献物帳
758年(天平宝字2) 武蔵国に新羅郡が建郡される 続日本紀
770年(宝亀元) 高麗朝臣福信、武蔵守に再任(造宮卿の兼官) 続日本紀
779年(宝亀10) 高麗朝臣を高倉朝臣と改姓 続日本紀
783年(延暦2) 高倉朝臣福信、武蔵守に再々任(弾正尹の兼官) 続日本紀
785年(延暦4) 高倉朝臣福信、武蔵守を辞任 続日本紀
789年(延暦8) 高倉朝臣福信、没す 続日本紀
1259年(正元元) 高麗神社火災により高麗氏系図焼失。再編される 高麗氏系図
1896年(明治29) 高麗郡がなくなる(入間郡と合併)
2016年(平成28) 高麗郡が建てられてから1300年。記念事業
高麗神社の由来と歴史 ご本殿
高麗神社の獅子舞
高麗神社の獅子舞は、毎年例大祭(10月19日)の当日、氏子の人たちによって奉納されています。起源は明らかではありませんが、神社に残る資料によりますと、徳川時代初期から奉納されてきた事が知られます。また、雌獅子一頭、雄獅子二頭による三頭一人立ちの風流獅子舞に分類され、「ししっくるい」と称される程、勇壮な舞と哀調をおびた篠笛の響きが特徴的です。
鳴物は、「笛」・「ササラ」・「ホラ貝」、所役は、「棒使い」・「貝吹き」・「天狗」・「おかめ」・「ササラ」
「導き」・「獅子」・「笛方」・「唄方」と総勢50名程です。場面は、「宮参り」・「獅子がくし」・「竿がかり」「願獅子(がんじし)」に分かれ、場面毎に獅子の役者がかわります。
高麗神社 初詣の様子
高麗神社の由来と歴史
■ 高句麗
高麗神社の主祭神は、かつて朝鮮半島北部に栄えた高句麗からの渡来人高麗王若光(こまのこきしじゃっこう・「王」は 他に「こしき」「こにしき」「こにきし」などとも読む)です。
最盛期は5世紀の「広開土王(こうかいどおう)」、「長寿王(ちょうじゅおう)」治世の100年間で、中華人民共和国吉林省集安県にある「広開土王碑」から、そのころの高句麗の強勢ぶりをうかがうことができます。
若光が渡来した年代についての社伝はありませんが『日本書紀』天智天皇称制5年(666年)10月高句麗から派遣された使節の中に「若光」の名があります。
『続日本紀』文武天皇大宝3年(703年)に「従五位下高麗若光に王の姓を賜う」と記されており、高句麗が668年に唐と新羅によって滅ぼされてしまったことを考えると、『日本書紀』にある「若光」と当社の御祭神である「高麗王若光」は同一人物と思われます。
■ 高麗郡建郡と高麗神社
若光は元正天皇霊亀2年(716年)武蔵国に新設された高麗郡の首長として当地に赴任してきました。当時の高麗郡は未開の原野であったといわれ、若光は、駿河(静岡)甲斐(山梨)相模(神奈川)上総・下総(千葉)常陸(茨城)下野(栃木)の各地から移り住んだ高麗人(高句麗人)1799人とともに当地の開拓に当たりました。若光が当地で没した後、高麗郡民はその徳を偲び、御霊を「高麗明神」として祀りました。これが当社創建の経緯です。
高麗神社は、若光の子孫が代々宮司を務め、現宮司は60代目になります。
高麗郡は明治29年(1896年)入間郡に合併されましたが、当社はその後も広く崇敬を受けてまいりました。特に浜口雄幸、若槻禮次郎、斉藤実、小磯国昭、平沼騏一郎、鳩山一郎らが当社参拝後相次いで総理大臣となったことから「出世明神」と広く知られるようにもなりました。現在は年間約40万人の参拝があります。
第1駐車場内の将軍標(しょうぐんひょう・チャンスン)チャンスンは朝鮮半島の古い風習で、村の入り口に魔除けのために建てられました。将軍標は平成4年に大韓民国民団埼玉県地方本部によって奉納されたものです。
国指定文化財 高麗家住宅
高麗家は高麗神社の神職を代々務めてきた旧家で、住宅は境内の隣接地にあります。
建築年代は、慶長年間(1596~1615)と伝えられています。
建築様式は古く、17世紀のものであることは確実であると指摘されています。
■国指定重要文化財
東日本の民家の中では古い形を遺している極めて重要な例とされ、昭和46年(1971)6月に重要文化財に指定されました。
永年の風雪に耐えて伝えられてきたものの、傷みがひどくなっていたため、昭和51年(1976)10月から昭和52年9月にかけて、建物の全解体による根本的大修理が行われました。現在の姿は、その修理工事の際に建設当時の姿を復元したものです。
■高麗家住宅の構造
建物は茅葺きの入母屋造りの平入りで、その大きさは桁行七間半、梁間五間で長方形の平面をなしています。
間取りは、土間と5つの部屋で構成されています。
大黒柱(棟持柱)がなく、細い柱で梁を支えているのが特徴で、桁と柱には杉、梁にはケヤキ・松が用いられています。
手斧(ちょうな)や槍鉋(やりがんな)が使用され、全面的に丸みを帯びた仕上げになっています。
発掘遺物の一部(写真提供:日高市教育委員会)
高岡廃寺出土遺物
高岡廃寺は外秩父山地の東端に位置しています。寺院跡は東の延びるきゅうりょうからさらに小さく南に突き出す標高160メートルから170メートルの小丘陵の南斜面に立地しています。
昭和51年にゴルフ場造成工事に伴う発掘調査により建物跡4棟などの遺構が検出され、全容が明らかになりました。8世紀中頃に寺院の造営が始まり、11世紀初めには廃寺になったことを確認しました。遺物は建物の屋根に葺かれていた平瓦、丸瓦、軒平瓦、軒丸瓦、生活に用いていた須恵器の多嘴壺(たしこ)、坏、小形壺、円形の硯(すずり)、高級焼き物の灰釉・緑釉陶器(かいゆ・りょくゆようき)、塑像(そぞう)と呼ばれる粘土で造る仏像、瓦塔(がとう)・瓦堂(がどう)は赤褐色に焼かれた塔、堂のミニチュア、建物物の隅に吊り下げられる風鐸(ふうたく)、釘などの金属製品が出土しています。
県内では数少ない古代寺院の資料です。また、古代高麗郡や地方寺院の姿を理解する考古資料として、学術的にも大変貴重な資料といえます。
高麗王若光の菩提、聖天院勝楽寺(勝楽創建)
聖天院勝楽寺の概要
真言宗智山派寺院の聖天院は、高麗山勝楽寺と号します。当地を開拓して亡くなった高麗王若光の菩提を弔うため、その侍念僧勝楽が751年(天平勝宝3年)創建、高麗王若光の守護仏聖天像(歓喜天)を本尊としたと伝えられます。その後僧秀海が法相宗から真言宗に改めて中興、江戸時代には54ヶ寺の末寺を擁し、15石の朱印状を拝領していました。文応2年(1261)銘の銅鐘や鰐口など数多くの文化財を所蔵しています。
聖天院の由来
続日本紀によれば、今から1,300年前高句麗滅亡によってわが国に渡来した高句麗人のうち甲斐、駿河、相模、上総、下総、常陸、下野7ヶ国の高句麗人1,799人を716年(霊亀2年)に武蔵国に移し、高麗郡を置きました。現在の日高市は、高麗郡の中心をなした地域と考えられ、1,889年(明治29年)まで高麗郡でした。
高麗王若光は高麗郡の長として、広野を開き産業を興し民生を安定し大いに治績を治めました。
勝楽寺は若光が亡くなったあと、侍念僧勝楽が若光の菩提を祈る為に751年(天平勝宝3年)に建立しました。若光の三男聖雲と孫の弘仁が勝楽の遺志を継ぎ、若光の守護仏聖天像(歓喜天)を本尊としました。
その後開山以来の法相宗を真言宗に改め、1,580年(天正8年)には本尊を不動明王にしました。当代までに実に1,250年間絶えることなく継承されています。
2000年(平成12年)には、山腹に新本堂を建立し、同時期に在日韓民族無縁の慰霊塔を建立されました。(日高市掲示より)
『高麗浪漫学会』(民間研究団体)について
◆ 高麗郡の多角的な研究を通して、埋もれている魅力や浪漫を再発見 ◆
設立趣旨
霊亀2年(716)、武蔵国に高麗郡が建郡されてから、3年後の2016年で1300年の佳節を迎えます。高麗郡は、668年に滅んだ高句麗からの渡来人1799人が移住し置かれた郡で、初代郡司である高麗王若光は日高市内に鎮座する高麗神社に祀られています。その後、高麗郡は明治29年(1896)に廃止されましたが、建郡以来の来歴は、歴史と文化をはじめ様々な分野の研究対象となり得る興味深い素材を提供してくれます。 平成23年5月に高麗郡建郡1300年記念事業委員会が発足し、様々な事業を展開しておりますが、活動の根拠となる学術的な研究をさらに深め、その成果が長期にわたる地域づくりに資するため、歴史・文化をはじめとした多角的な研究を行うための学会として平成25年9月に発足いたしました。この学会の活動成果が、今後、高麗郡建郡1300年記念事業の理念および目的にある広域にわたる地域連携と地域づくりに活用されることになれば幸いです。 「高麗浪漫学会」の設立総会は9月8日(日)、日高市内にて会員約50名により開催いたしましたが、会の活動をさらに活発にさせるため、ぜひ会員としてご参加いただき、私たちと共に高麗郡建郡1300年事業を学術研究活動から盛り上げていきましょう!!
発起人代表 高橋 一夫
須田 勉
大野 松茂
新井 孝重
高麗 文康
中野 高行
高麗郷案内地図
協力・お問い合わせ
一般社団法人高麗1300
住所:〒350-1231 埼玉県日高市鹿山283-5-201
電話:042-978-7432 FAX:042-978-7452
埼玉県日高市役所
〒350-1292 埼玉県日高市大字南平沢1020番地
電話:042-989-2111(代表) FAX:042-989-2316(代表FAX番号)
0コメント