続 天下の奇祭『国府宮(こうのみや)の はだか祭』 尾張総社国府宮 のご案内です。
昨日の内容だけではお伝えきれなかった所を「続」という形で紹介いたします。
起源
「はだか祭」は、正式名称を「儺追神事(なおいしんじ)」と言います。今から約1250年前、奈良時代の神護景雲元年
(767年)称徳天皇の勅命によって全国の国分寺で悪疫退散の祈祷が行われた際、尾張国司が総社である尾張大國霊神社においても祈祷をしたことに始まったと伝えられています。
目立つ節分行事が近在に無かったこともあり、尾張地方に春を呼ぶ祭りとして定着したこの神事に、裸の寒参り風習が結びついて、現在のようなはだか祭の形態になったのは江戸時代末期のことです。昔は、その年の恵方に人を求め、男を捕らえ儺負人(なおいにん・神男)に仕立てた「儺負捕り」ということが行われましたが、現在の裸男の揉み合いという形態は、この儺負捕りを受け継ぐものとされています。
祭り
祭りの開催日は毎年旧暦正月13日、42歳と25歳の厄年の男を中心に、尾張一円からサラシの褌に白タビ姿の数千人の裸男が集まります。寒さを吹き飛ばす「ワッショイ」の掛け声と、揉み合いの熱気が国府宮にはちきれます。また、裸になれない老若男女は、氏名や年齢等を書いて願いを込めた「なおい布」を「なおい笹」に結び付けます。その「なおい笹」を裸男たちは担ぎ、群れをなして威勢よく境内へ駆け込み皆の願いと共に奉納するのです。
なおい笹奉納の最後に、小池正明寺地区の手桶隊が登場します。その手桶隊が裸男達めがけて水をかけ始めて暫くすると参道の一角に全身無垢の神男が、警護の者に守られて裸男の群れの中に密かに登場します。その神男に触れて厄を落とそうと、神男に殺到し凄まじい揉み合いになります。浴びせられる手桶の水は、裸男たちの摩擦の熱でたちまち湯煙となりますが、その手桶の水に裸男たちが怯む隙をついて、神男は参道から楼門を通り儺追殿を目指します。 この60分ほどの間がこの奇祭のクライマックスとなります。
大鏡餅
はだか祭には毎年尾張近郊の地区から「大鏡餅」が奉納されます。その大きさはなんと50俵取り(約4トン)という巨大さです。祭り本番前日に奉納地区から神社に奉納されますが、その巨大さのため拝殿に納めるのには大型クレーンも使われます。また、この餅は祭り本番を明けた旧暦正月14日、午前8時から切り分けられて頒布されます。この餅を食べると無病息災の言い伝えがあり、多くの参拝者が買い求めます。
国府宮
御祭神
尾張大國霊神(おわりおおくにたまのかみ) 尾張地方の國霊神(くにたまのかみ)であり、尾張人の祖先がこの地に移住開拓し、その日その日を生きていく糧を生み出す根源である国土の偉大なる霊力を神として敬い、尾張大國霊神としてお祀りしたのであります。
由緒
尾張地方の総鎮守神、農商業守護神、厄除神として広く信仰されております。当社は奈良時代、国衛(こくが)に隣接して御鎮座していたことから尾張国の総社と定められ、国司自らが祭祀を執り行う神社でありました。このことから通称「国府宮」として広く知られております。
尾張大國霊神社(国府宮)境内
御神宝(ごしんぽう)稲沢市指定文化財
大鳴鈴
(おおなるすず)
儺追神事に用いる鉄製の鈴。南北朝から室町時代頃の作
陶製狛犬
(とうせいこまいぬ)
室町時代の作
獅子頭 (ししがしら)
下あごを別に造って固定する獅子頭で漆箔を施す。南北朝から室町時代頃の作
茶室のご案内
三笑亭(さんしょうてい)
昭和29年秋に茶席が開かれた。松尾流第10代御家元不染斎宗匠の設計。
古来より当社に三面大黒の画像が社宝としてあること事から宗匠が「三笑亭」と命名しました。
床柱は神苑の藪椿、床縁は神社の古材を使用しております。
障子腰張の内側は蒲の網代組に、欄間は桂離宮笑意軒の窓に因んだ丸窓を配し、軒は檜皮葺の穏かな円みをおびる屋根となっております。
半床庵(はんしょうあん)
半床庵は、幕末に尾張藩より寄合組200石取りの武士、尾崎藤兵衛氏の屋敷にあったもので、道路拡張により昭和47年当社境内に移築され、保存される事となりました。(稲沢市指定文化財)
鎹八咫烏 記
伊勢(斎宮)の明和町 観光大使
石川県 いしかわ観光特使
協力(敬称略)
尾張大國霊神社(国府宮)
〒492-8137 愛知県稲沢市国府宮1丁目1番1号
TEL 0587-23-2121
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