2017年8月5日(土)、渋谷駅前のスクランブル交差点西側道路、文化村通り、道玄坂(「SHIBUYA109」周辺エリア)にて、「渋谷盆踊り大会」を初開催します。
渋谷の街は、区の政策や近年の再開発などにより、今よりもっと人々が楽しく生き生きと暮らす・過ごすことのできる街へと大きく変貌しつつあります。
街の姿が変わっても、街の中心にあるのはいつの時代も「人」です。
渋谷に暮らす人”と“渋谷に訪れる人”同士が触れ合うことのできる場として、また、日本らしい、渋谷らしい文化を楽しめる場として、「渋谷盆踊り大会」を開催する運びとなりました。
渋谷109前という渋谷らしい場所から、渋谷区のみならず、広く東京・日本・世界へとこのイベントを発信し、多くの人々に親しまれるお祭りを目指します。
イベント実施時間中、警視庁の交通規制(車両通行禁止)により、本イベントの開催エリアは歩行者用道路になります。
■場所:渋谷駅前のスクランブル交差点西側道路、文化村通り、道玄坂(「SHIBUYA109」周辺エリア)
■時間:8月5日(土)18:00〜21:30
■主催:渋谷道玄坂商店街振興組合 ■企画:渋谷道玄坂青年会 ■後援:渋谷区 ■特別協賛:東京急行電鉄株式会社、■協賛 :KDDI株式会社 他 ■交通規制:渋谷駅前のスクランブル
差点西側道路、文化村通り、道玄坂、渋谷駅周辺の一部道路が歩行者用道路・イベント開催場所になります。
・交通規制実施日時: 8月5日(土)16:30~22:30 ・渋谷盆踊り開催日時:8月5日(土)18:00~21:30
■禁止事項等:交通規制にともない、バイク・自転車の走行および移動も禁止となります。
・花火等の危険行為は固く禁じます。また、 “ごみは持ち帰るか、所定のごみ箱に捨てる”等、マナーの順守にご協力をお願いいたします。
※荒天を含め、中止となる場合はまた、危険・迷惑行為等により安全な開催が続けられないと判断した場合、開催時間内であっても中止とする可能性があります。
〈お問合せ先〉
渋谷道玄坂商店街振興組合事務局(電話)03-3461-0933
※土日祝日を除く平日午前9時~午後5時まで
渋谷盆踊り大会当日は、8月5日(土)午後4時30分~午後10時30分まで
道玄坂の名前の由来
江戸時代から道玄坂という地名は江戸から大山へむかう街道の坂であることは知られていましたが、なぜ道玄坂と言われるようになったのでしょうか。
○この辺りに道玄庵という寺があったので道玄坂と言われようになった。
この説の根拠は徳川家康が江戸に入府し、家臣の屋敷の地割をした時の文書とされる「天正十八年の日記」の中に「七月十四日どうげん坂にて、甚之丞、此者よくわかる、十一日青山原宿場所立候様、甚之丞申出る。9月しぶや所々地わり、どうげん庵ゆいしょ書さし上る。」とあることから云われているものです。
現在、「江戸始図」は名古屋の徳川美術館において特別公開されています
○大和田太郎道玄という和田義盛一族の残党の子孫がこの辺りで山賊となった。
江戸時代に書かれた「江戸名所図会」には「里諺に云う、大和田氏道玄は和田義盛が一族なり。建暦三年五月和田一族滅亡す。其残党此所の窟中に隠れ住みて山賊を業となす。故に道玄坂というなり。」とあることから言われています。
諸説があり、明らかではありません。また、道玄が物見をしたといわれる松を「物見の松」という言い伝えがあり、其の場所についても諸説があります。字体も道源坂、道元坂との説もあります。今となっては知るすべもありませんが、戦国時代といわれる乱れた時代には、追い剥ぎが出るくらい草深いところであったことが窺えます。
江戸時代
江戸時代の道玄坂は大山道の坂道で、付近は江戸の郊外地であり、大名の下屋敷が散在し、生産地としての性格が色濃く、のどかな田園風景が続いていたと想像できます。
写真(白根記念郷土文化館所蔵)は渋谷警察署にある掛け軸を撮影したもので、宮益坂(富士見坂)から道玄坂方向を描いたもので、いつのものか不明です。
絵の上の方に富士山が見え、手前には渋谷川にかかる富士見橋が見えます。
明治時代
明治8年渋谷第一小学校が現在の東急文化会館の場所に開校したり、明治18年に渋谷駅が今の駅より並木橋よりに開業するなど少しづつ街として発展する条件が 整いつつあったものの、世田谷在の農家が宮益坂にあった青物市場に荷を出した 帰りに買い物をする町でした。日清、日露戦争後の明治38年、世田谷に陸軍の兵営ができ、明治42年代々木に練兵場ができるなど、軍人の往来も増え、さらに玉電や市電の開通により都心と郊外を結ぶ交通の要所となり、道玄坂に電燈がともる(明治42年)明治の末には、商業地として栄え始めました。写真(東京百年史写真帖より)、写真は明治42年の道玄坂で賑やかな人通りが窺えます。
大正時代
大正から昭和にかけての道玄坂については藤田佳世氏による「渋谷道玄坂」(弥生書房)、「大正・渋谷道玄坂」(青蛙房刊)、「巷談渋谷道玄坂」(青蛙房刊)に詳しく描かれています。
純粋な少女の目を通して見た当時の人情がこまやかに描かれています。
大正9年に渋谷駅が現在の位置に移った日のことを「その日は道玄坂を上げての大騒ぎで、表通りの旦那方は暑い盛りだというのに羽織袴の礼装で祝賀式に参列した。」(藤田佳代著 「渋谷道玄坂」より)とあります。大正12年の関東大震災は道玄坂に大きな変化をもたらしました。被害の大きかった下町の一流店が百軒店(江戸時代富士講の講元で有名であった吉田家のあったところ)に続々と出店し、「大正13年頃の百軒店の賑わいは今の仲見世(浅草の)よりもっと激しかった。」(同書より)
2,3年して下町が復興すると下町商人は元の場所に引き上げてしまい、百軒店もさびれてしまいました。「しかし、下町商人に活を入れられた道玄坂は震災後の区画整理で道幅を広げ、急な勾配もゆるくして商家の灯も一入明るくなった。」(同書)のでした。また、神泉の弘法湯を祖とする円山花街の発展も道玄坂の発展と機を一にしていたのでした。写真は大正9年明治神宮鎮座祭の道玄坂の風景と大正9年以降の渋谷駅です。
大正9年以降の渋谷駅
昭和時代
昭和8年以降に、東急東横線、京王井の頭線が開通すると、渋谷駅はターミナルとして益々発展し道玄坂も都内有数の盛り場となりました。昭和20年の空襲で焼け野原と帰しましたが、戦災の復興を経て、日本経済の高度成長に伴い副都心として日本有数の繁華街に成長しました。
昭和初期道玄坂上
昭和初期道玄坂通り
昭和28年冬のハチ公前広場
昭和28年頃恋文横丁
昭和30年代の道玄坂(正面の建物は現在の109)
昭和32年頃の道玄坂(右端の建物は現在の109)
昭和27年渋谷駅前広場
平成時代(現代)
現在の渋谷駅前交差点(正面中央109)
今、渋谷の街は、いたる所で工事を行っています。
特に渋谷駅周辺は、今後2020年のオリンピックに向けて、劇的な変貌をとげようとしています。このプロジェクトは、変貌する渋谷の街、主に山の手線外側の今を未来のために残し、アーカイブを制作いたします。
渋谷の街を定期的、定点的に撮影して、変わりゆく渋谷の街の記録を作成いたします。今年以前に撮影した写真も10年分以上ありますので、それも併せて掲載してまいります。
渋谷道玄坂周辺地区まちづくり協議会
渋谷道玄坂2丁目近辺
渋谷駅東口近辺
協力(順不同)
渋谷道玄坂商店街振興組合 〒150-0043 東京都渋谷区道玄坂1丁目19番1号
電話03-3461-0933
渋谷道玄坂青年会 東京都渋谷区道玄坂(私たちの理念:21世紀に最も輝く街になる)
白根記念渋谷区郷土博物館・文学館 〒150-0011 東京都渋谷区東 4-9-1
電話:03-3486-2791
渋谷盆踊り大会 広報事務局(株式会社サニーサイドアップ内)電話:03-6894-3200
徳川美術館 〒461-0023 名古屋市東区徳川町1017 TEL 052-935-6262
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