宝立七夕キリコまつり
能登半島では、7月初旬から10月中旬までの間に、百数十を超える地区でお祭りが行われます。中でも独自の文化を育んできたキリコ祭りは、奥能登で発祥し、その後中能登の方へ伝搬していきました。
キリコとは、切子灯籠(きりことうろう)を縮めた略称で、ところによっては奉燈(ほうとう)、御明かし(おあかし)とも呼ばれています。
笹に御神灯をつけた笹キリコからさらに4本柱の笹が木製となり、漆・金箔や彫刻が施されるようになって、高さや豪華さを競ったことから、各地域毎に特色のあるキリコが出現したものと思われます。キリコは神輿のお供役として担ぎだされ、無事お旅所にお着きになるか入り宮になるまでの夜道の灯りとしての役目があります。
珠洲「宝立七夕キリコまつり」
珠洲「飯田町燈籠山祭り」
珠洲市内の各地域で行われる秋祭り
「珠洲」という名前について
珠洲について、最初に表記されているのは、平城京出土木簡(713年)であり、その後出雲風土記(733年)の国造り神話に、高志(こし)の都都(つつ)の三埼を余ありやと見れば、国来国来と引き寄せて三穂の埼ができたとあり、能登の「スス」の岬を出雲で「ツツ」と発音したのであろうと考えられています。都都・須須・鈴など色々な字がこの頃は、充てられていますが、「須須」は「鈴」の読みであり、「珠洲」は特に地名に選ばれたのではないかと考えられています。
能登半島の最先端で、ちょうど外浦と内浦との接点にあたるところ。ここは「海から昇る朝日と、海に沈む夕陽」が同じ場所でみれることで有名です。明治時代にイギリス人の設計で造られた白亜の禄剛埼灯台です。
無人のため灯台内は見学不可ですが、年に数回一般公開があります。
明治時代にイギリス人の設計で造られた白亜の禄剛埼灯台。路線バス木の浦線「狼煙」から徒歩10分
すずの由来については、いくつかの説がありますが、ススは本来「稲」のことで、収穫祭に12個の小さな鈴を結った神楽鈴を振って報謝の舞を舞うが、シャンシャンと鳴らす鈴の音に由来するという説と養老2年(718年)越前国を割いて、羽咋、能登、鳳至、珠洲4郡からなる能登の国が立国し、天平20年(748年)大伴家持が能登を旅した折、都に残った妻を想って長歌を詠んでいるが、「珠洲の海士が潜って採っているという真珠を500個ばかり手に入れることができないものだろうか、都で私のことを想っている貴女に贈ってあげたいのに・・・」というもので、真珠のように美しい輝きを持つ美しい洲(くに)が家持の郡名に抱いた思いだったという説があります。
宝立七夕キリコまつり
珠洲一円では、8月7日月遅れの七夕に盛大にキリコが担ぎ出されるが、中でも見付海岸を舞台に繰り広げられるでこの祭りは最大級のもの、能登のキリコ祭りを代表する勇壮な祭りです。鉦や太鼓が打ち鳴らされる中、約100人の若者で巨大キリコを担ぐだけでも圧巻だが、若者たちに担がれた14mもの巨大キリコが沖の松明を目指し、海中乱舞する様子はここでしか見られない。
七夕は七日盆の日でもあり、祖霊迎えの意味もあったと伝えられる。
本祭りに対して七夕をキリコ祭りそのものと考え、盛大に執り行ってきた。
8月7日午後6時頃、鵜飼川河口の広場に集まった大キリコ6基と高さ約6mの子どもキリコ1基が川沿いを巡行。午後10時過ぎには、見附海岸に勢揃する。すると、すべてのキリコが明かりを消し、あたりは静寂の闇に包まれる。その後、キリコには1基ずつ明かりがつけられ、描かれた絵や字が順番に紹介される。打ち上げ花火を合図に、沖合20~30mに設置された柱松明をめざし、キリコがいっせいに海に入り、1基約100人、数百人もの担ぎ手が水しぶきをあげ、松明の周りを何度もぐるぐると巡り乱舞する。
海中乱舞が始まると同時に、海上から花火が上へ、横へと縦横無尽に打ち上げられ、華麗な光の絵巻が繰り広げられると、海岸を埋めつくした観客からその日一番の大きなどよめきが起こる。
※キリコの運行が可能なら花火は打ち上げます
他のキリコ祭りの多くが、キリコは神輿渡御のお供と いう位置づけですが、宝立七夕まつりは神社と関係がな いので神輿や入宮がなく、キリコが主役である点に特色 があります。またヨバレ(供応)も行われません。
祖霊送り(灯籠流し)を思わせる海中乱舞は、祭り最大 の見所となっています。
珠洲市の文化【行事食】
空海が参拝「白山神社本殿」
御祭神
伊邪那岐命 伊邪那美命 菊理媛神
鎮座地
珠洲市宝立町春日野82-20
氏子区域
珠洲市
宝立町春日野
TEL.
0768-82-0858 (柳田神社)
由緒
創立年代明記を欠くも、弘仁年間に僧空海が参拝せり、天正年間前田利家詣でて戦勝を祈り、本殿等を奉納。この本殿は昭和37年市文化財となり、昭和48年重要文化財となる。当社は以来、妙厳寺法住寺住職が別当たりしが、明治初年より櫻井氏が社掌となる。
※社伝によれば、法住寺の鎮守として9世紀後半の承和年中に創建されたといわれている。中世珠洲郡の大部分は、九条家領の若山荘であり、実質的支配権を持った日野家の祈祷所として法住寺とこの白山神社が指定されていた。弘安7年(1284)の地頭の寄進状などにより、鎌倉時代には白山社の存在が確認できる。
現存の本殿は、建築様式、技法などから見て、室町末期を降らないとみられる。再三の修理で、部材のほとんどが取り替えられているが、古式な部分はよく残されている。昭和47年(1973)に、解体修理を行い、瓦葺きから銅版葺きとなった。
交通アクセス
協力(順不同)
珠洲市役所 観光交流課
〒927-1295 石川県珠洲市上戸町北方1の6の2 TEL(0768)82-7776
石川県観光連盟 〒920-8580 金沢市鞍月1丁目1番地 電話番号:076-201-8110
一般社団法人 能登半島広域観光協会 事務局 石川県七尾市三島町70-1
七尾産業福祉センター1階 TEL.0767-53-7767
文化庁 〒100-8959 東京都千代田区霞が関3丁目2番2号 電話番号(代表)03(5253)4111
石川県神社庁 〒920-0811 金沢市小坂西44番地 TEL 076-252-7771
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