新庄まつりの起源
ふるさとを飛び出して広がる交流の輪
約260年前に始まった新庄まつりは、 平成3年(1991)には山車・囃子が東京「隅田川まつり」と大阪「御堂筋パレード」に、翌4年(1992)には東京「日本橋・京橋まつり」、さらに平成7年(1995)にはオーストリア・ザルツブルクで開催されたヨーロッパジャパンウィークにも参加するなど、ふるさとを飛び出して、全国各地、海外と人々の交流の輪を広げています。
飢饉で心身ともに疲弊した領民たちを鼓舞し、五穀豊穣を願うために約260年前に始まったまつり。今では山車づくり、囃子、ひき手などと、その全てに市民が関わる地域あげてのまつりになっている。
新庄まつりとは
圧倒的なスケールで、見るものを魅了する新庄まつり。
新庄の夏は、まつりの興奮と熱気でフィナーレを迎えます。 藩政時代の宝暦6年(1756)、時の藩主戸澤正諶が、前年の大凶作で打ちひしがれている領民に活気と希望を持たせ、豊作を祈願するために、戸澤氏の氏神である城内天満宮の「新祭」を領内あげて行つたのが起源とされています。
約260年前に始まったまつりはその長い時の流れの中で、少しずつ変貌を遂げてきました。しかし、いくら歳月を重ねても、変わらなかったものは、人々のまつりにかける情熱です。宵まつり・本まつりに絢爛豪華を競う日本一の山車パレード、古式ゆかしい神輿渡御行列、新庄城址で踊られる風雅な萩野鹿子踊・仁田山鹿子踊…。藩政時代をしのぼせる歴史絵巻が繰り広げられる新庄まつりは、この地に住む人々の心の風景に刻み込まれ、これからも未来に伝えられていきます。
わたしたちのまつり、故郷のまつり、新庄まつり。8月24日から26日まで、勇壮にして華麗な3日間。まつり囃子の響きがまちを包み込みます。
新庄まつりは戸澤神社例大祭から始まる
現在、最上公園の名で親しまれる新庄城址。
新庄城址の正面中央に位置している神社が戸澤神社です。
戸沢家の始祖である戸澤飛彈守衡盛(とざわひだのかみひらもり)、新庄移封当時の藩主である戸澤右京亮政盛(とざわうきょうのすけまさもり)、11代藩主戸澤正實(とざわのまさざね)を祀っています。
また、戊辰戦争に官軍の旗印として与えられた菊花御紋の旗が宝物として保存されていますが、この旗は靖国神社と戸沢神社にしかないと言われています。
明治26年10月に旧領民の有志によって戸澤神社を旧城址に創立すべく書策し、明治27年8月10日に社殿が落成されました。落成の2週間後である8月24日に盛大な祝祭が行われた記録があります。
現在、戸澤神社例大祭は毎年8月24日午前10時より戸澤神社社殿内において行われています。
11代247年にわたり、新庄藩を治めた
戸澤家の系譜
藩政時代をしのばせる歴史と伝統
宝暦6年(1756)、大凶作にうちひしがれている領民に活気と希望を持たせ、 豊作を祈願するために領内をあげて行われた祭礼「天満宮祭り」が新庄まつりの起源。
新庄天満神社は新庄城址本丸跡の南西隅に位置し、新庄藩主戸沢家の氏神として尊崇された神社です。新庄築城の3年後にあたる寛永5年(1628)初代藩主政盛によって建立されたものです。主祭神は学問の神様である菅原道真であり、学業成就のご利益があると言われています。昭和62年8月25日に山形県指定有形文化財(建造物)指定されています。
新庄まつりの起源とされている祭礼「天満宮祭り」が始まったの宝暦6年(1756)。新庄まつりに関する記述が見られる最古の文献「豊年瑞相談」に当時の模様が詳細に記録されています。
豊年瑞相談とは
豊年瑞相談は新庄・清水川町の福井富教が宝暦5(1755)年の大飢饉、翌年の天満宮祭礼の様子についてを記したもので、当時の新庄の様子を知る貴重な史料です。
これによれば、同年の祭りは天満宮の縁日である9月25日に行われました。この日、城内天満宮の神輿は、物頭・町奉行の指揮により、弓・鉄砲・長柄の衆に護られて、城内から市中に繰り出しました。これにお供して、各町内がそれぞれ工夫をこらして作り上げた「花笠鉾、色々の作物、風に和したる幡差物、御城を廻りて(中略)大手囗ち御町へ出る所、貴賎群集雲霞の如く並居て、(中略)、舞歌の拍手、鳴物の音、心を動す斗也」と、市中の賑わいを記しています。
同書は、また、「町々の子供等も装束おもひおもひの思い付を作れり」と記しているから、この祭りには子どもたちも美々しく着飾って祭り行列に参加したものと考えられます。あるいは、この子どもたちの行列は、文化9年(1821)に記された「御城内天満宮御祭礼御行列牒」に見える神輿の後についた「手習子供」の行列に似たものとも、また、他の史料にある「飾り屋台行列の飾子供」の類とも考えられます。いずれにしても、当時は、子どももこのような姿で祭り行列に加わったとみてよいように思われます。
なお、「色々の作物」・「鋳物」が後に発展して豪華な飾り屋台になったと記しましたが、城下の各町内が出す飾り屋台の内容が具体的に知られるのは、安永5年(1776)の記録が初見のようであります。これによれば、この年は、万場町が「神功皇后」の屋台を出し、金沢町は「田原藤太」、馬喰町は「子持山姥」、吉川町は「紅葉狩」、清水川町「西王母三人、漢の武帝へ桃を献ずる」、鍛冶町茶屋町「風流孔明二人」、北本町「花見西行」、ほかに遅沢庄右衛門が個人で「菅原実生梅」等々10台の飾り屋台、また、南本町の「はやし傘鉾」など囃子屋台が4台、計14台の屋台が出たことが知られます。ただし、屋台が「担ぎ屋台」であるか、「車屋台」であるかは明らかではありません。
飾り屋台にせよ、囃子屋台にせよ、それぞれの詳細は明らかとは言えませんが、このことからみると、天満宮祭礼の屋台行列は、囃子屋台を除いて、基本的には既にこの時代、現在とほぼ同じ形をとっていたことが明らかであり、意外に古いことがうかがい知られます。
この年の祭り行列全体の姿は、先頭に町同心が二流の大旗(幟か)をひるがえし、これに大太鼓二つが続き、この後に万場町以下城下の町人町が出した飾り屋台・囃子屋台の行列が続き、次に騎馬の侍や使役に護られた神輿の行列が続いていることが、同じ史料から知られます。神輿行列には、騎乗の侍のほか「手習子供二十四人、奴子、墨筆、槍、挟箱二つ、つゞら馬一通り」とあります。「手習子供」が供奉するのは、祭神が学問の神、菅原道真であることに関係することかと思われます。
当時は毎年の開催ではなく、藩主が参勤交代で江戸勤番の時には行われず、藩主が在城の年、隔年ごとに行われていました。
現在、天満宮例大祭は毎年8月25日に執り行われ、藩政時代をしのばせる古式ゆかしい神輿渡御行列などが催されます。
天満宮のご神体を納め威儀を正しく練り歩く
旧新庄城内にある天満宮を出発する総勢200人余りの神輿渡御行列。 御神体を神輿に移す神事が行われた後、市内を練り歩く神聖な儀式です。
神輿渡御行列は、城内にある天満宮の御神体を、市中の上手から下手へ町々を巡行させ、人々の平安を護ってもらう行列です。多くの侍が神輿を警護します。新庄城址を出発した行列は、御先手がかける「下におろう、下におろう」の声のもと、市内を一巡して城址に戻ります。この古式ゆかしい行列に参加する氏子総代、各小頭などの面々約200人は、この日ばかりは新庄藩の武士になりきります。一対の挾箱を持つ足軽役二人の息のあった足さばきや傘廻しの妙技、熊の積毛を持つ伊達衆の演技をはじめ、天狗、神輿など数多くの見どころがあります。
総勢約二百人で天満宮の御神体を警護
「どん、どん、どんからかっか……」。
町太鼓が、行列が来るのを知らせます。その後から道を払い、清めの神官が進みます。
先頭にいる御先手は「下におろう、下におろう」のかけ声をかけて進みます。
これは、神輿は立つたまま拝んではならぬという戒めの言葉です。
行列を横切ったり、高いところから見下げることは禁止されています。
九つの円で形づくられた戸沢家の家紋
新庄藩主戸沢家の家紋。新庄まつりの神輿渡御行列でもこの家紋を見ることができます。
九曜の紋は平安時代より厄よけの重要な文様とされていましたが、戦国時代以降、多くの藩主の家紋とされ、仙台藩伊達家や肥後(熊本)細川家などでも家紋のひとつとされています。
九曜の紋の9つの星の意味は真ん中が「太陽」。
周りの8つの星は「月・火・水・木・金・土・羅喉(らご)・計都(けいと)」です。
ちなみに、羅喉・計都の二つは空想上の星だそうです。
西洋では「☆」で表す星ですが、東洋では「○」と丸印で表現するのがおもしろいですね。
天満宮御祭礼御行列牒とは
「御城内天満宮御祭礼御行列牒」(大蔵村南山柿崎家文書)は、天満宮の祭礼が始められた56年後の文化9年(1812)柿崎弥左衛門によって記された書物で祭り行列全体を詳細に記録した史料です。
表紙に「文化九年申ノ七月廿五日」とあるので、この年の天満宮祭礼は7月25日(旧暦)に行われたものであったと思われます。
本牒によれば、祭り行列の先頭に町同心が2名、次に町役人2名が立ち、この後に大太鼓が2つ続き、次に南本町の傘鉾屋台、同町の町印囃子屋台(「曲手満里人形」とあります)が続いています。
以下順次、北本町「源三位頼政鵺退治体」の飾り屋台、同町「豊年草取り囃子屋台」、清水川町「朝比奈三郎義秀勇力之体」、同町「囃子屋台座頭之体」等々、大太鼓の屋台を含め屋台17台が記されています。この内訳をみると、大太鼓の屋台1、傘鉾屋台1、囃子屋台8、飾屋台6で、屋台を出した町内は南本町・北本町・清水川町・金沢町・馬喰町・万場町・鍛冶町茶屋町(二町一体)の7町です。
各町内いずれも飾り屋台・囃子屋台各1台ずつ出しています。囃子屋台の次に飾り屋台というように両者交互に列をつくっている様子であるから、「囃子」の仕方は現在と違って屋台の上でだけ囃したものとみられます。
屋台行列に次いで「御行列」と記し、次に手習手供、鞍馬1疋、手習手供押、葛籠馬1疋、町役人・有力町人(2列に並び58人)の名を記してあり、天満神輿やこれに供奉する侍衆の名は記されていません。
従って、本牒の記載のみでは、神輿渡御行列があったものか否か明らかではありませんが、恐らくは、「御行列」がこれを表しているのではないかと思われます。
「神輿渡御行列」と記さなかったのは、記録者柿崎弥左衛門が天満宮の神威を憚って敢えて記さなかったのではないかと思われます。従って、本牒からは「神輿渡御行列」の内容をうかがう術もありませんが、この行列順序は、明治41年刊の『最上郡史』によれば、次のようです。もっとも、「郡史」は明治末期の発行であるので必ずしも藩政時代と同じというわけでではありませんが、およその様子をうかがう参考にはなると思われます。
これによれば、先頭に供奉の侍衆として、鉄砲10挺・玉箱・台弓5台、以上の押さえとして物頭、次に長柄10筋、この押さえとして長柄奉行、次に少し間を置いて猿田彦命、大鉾、法螺貝4口、次に「天満大自在天神」の大職一対、鉾一対、太鼓、榊台、少し離れて伊達道具一対、先挟箱一対、台笠、竪笠、鉄砲2挺、台弓1台、徒士10人、漉水遍照院、勤めの僧2人、金幣2個、次に神輿(これは白丁の者16人で担ぎます。中小姓8人が左右を固めます)、この後に鞍置きの神馬1疋、次に10歳以下の子どもたちが華美な服装で2列に並び、次に4、5歳以下の飾り子ども、さらに10歳前後の上下姿で松と梅の造花を持った御花持と呼ばれる子どもたち(男児の化粧をしているが女児が多い)、次に神輿の押さえとして自性院(これは先箱・長刀・先供駕籠・脇・伴僧など20人を従えます)、少し離れて葛籠馬、これに続いて町年寄以下の町人100人ほどが麻上下・股立・一文字笠の服装で供奉するとあります。以上が、藩政時代後期の天満宮祭礼の祭り行列の全体的姿と考えられます。その後の調査で、安政3年の「御祭礼帳」(新庄市佐藤家文書)が発見され、この年の祭礼の姿が明らかになりましたが、これによれば、この年は神輿渡御行列も屋台行列も賑々しく行われたようであります。ただし、屋台の台数やその内容は明らかではありません。
なお、藩政時代においては、ここには表れていませんが、他史料によれば、この祭りには新庄領全域の各村庄屋・組頭、城下町内の町役人が供奉すべきことが触れ出されていたことが知られます。このようにして、天満宮はひとり藩主戸沢氏の氏神としてのみならず、新庄領の総鎮守として全領民から崇敬され、この祭礼も領内あげての祭りとして盛大に行われてきたことが、各時代の史・資料からうかがい知ることができます。
ただし、祭りの形が宝暦6年以来全く変化がなかったということでは決してありません。例えば、当時、天満宮の別当職にあった円満寺住職宥勝が天保8年に記した「年中行事」には、天満宮祭礼は藩主の在城年に執行し、藩主が参勤交代で江戸勤番の年は行われないとあり、また、天保4年の如き大凶作の年は、藩主在城の年であっても、神輿渡御行列のみ行い、屋台行列は出されませんでした。
新庄まつりの山車とは
歴史をひもとき各町内が趣向を凝らす
各町内が華やかさと卓越した技を競い合う山車は、新庄まつりの主役です。
新庄まつりの山車を、市民は「やたい」と呼んでいます。町衆は若連という組織を作り、毎年町内単位で山車を作ります。題材は能・歌舞伎や歴史物話・伝説などから選び、等身大の人形を中心に、山・館・花・滝などを周りに配します。
山車徹底解剖
山車は神を招くための道標であり、神へのお供え物
神に捧げるものであるからには季節を問わず、春には春の美、秋には秋の美、
最も美しい花々を供えるという考えが山車作りには根付いています。
山車の製作工程
本番二ヶ月前になると各若連は山車小屋を設置し、山車づくりがスタート。
本番一週間前からは朝から晩まで山車小屋に入りっぱなしで作業します。
野川家との関わり
野川家とは
現在、新庄まつりの山車は20台ありますが、その人形の頭、手、足の制作は全て野川家が手がけています。
囃子
夏空にこだまする名調子
町衆が山車作りに精を出している頃、 在方の村々では、若衆が集まり囃子の練習に励んでいます。
7月の涼しい夜、聞こえてくる新庄囃子。それを耳にして新庄人は、はじめてまつりを身近に感じ、その日の到来を指折り数えだす。新庄まつり当日、遠くに聞こえる囃子の音色に引き寄せられ、家人もまつり客も自然に通りまで歩を運び、山車の通過を待ちわびる。
そういわれるほど、新庄囃子は新庄人にとって大きな存在です。
新庄囃子は、花車大八という侠客が京都祇園祭りの囃子を基に作曲したと伝えられています。しかし、それをうかがわせるような古い史料や記録も少なく、ただ一つ、天保五年(一八三四)に編まれた「新荘御国産名物尽し」にある「川口祇苑(園)ばやし」(西前頭三七枚目)の記載があるものの、新庄まつりとの関わりについては不明で、いつごろ現在のような形になったかは分かっていません。
囃子の演奏技術はそれぞれの地域の秘伝であり、他の地域に持ち出すことができなかったことと、楽譜がなく口伝のため、それぞれ少しずつ異なったものになっています。
囃子方の構成は太鼓が4人、笛吹きが約15人、鉦が約15人、三味線が2~4人の30人~40人編成です。
各囃子若連の特長(50音順)
郷愁を帯びた格調高い新庄囃子
新庄囃子は、楽譜がなく口伝えのため、囃子若連ごとにそれぞれ少しずつ異なったものになっています。もともと、新庄囃子は「関屋・山屋流」、「小泉流」、「飛田流」、「福宮・升形流」の4系統(四流)に分類されるといわれています。これは、地理的な面から、あるいは山車と囃子の組み合わせからとされていますが、この系統分けがだれによって、いかなる根拠に基づいてなされたものかはあきらかではありません。
ここでは、各囃子若連の演奏を聴くことが出来ます。以上の点を踏まえて各若連の名演奏と音色の違いをお楽しみください。
鹿子踊
カモシカを模し五穀豊穣を祈願
8月26日には、萩野と仁田山集落に古くから伝わる民俗芸能 萩野鹿子踊・仁田山鹿子踊が、新庄城址戸沢神社と護国神社に奉納されます。
萩野鹿子踊の歴史
起源等についてははっきりしてないが、文禄慶長の頃、既に今の様な姿であった事は、最上義光公が領内の鹿子踊を集めて踊らせた時、長幕の物最も良しと言った記録がある。最上氏の領内で長幕の鹿子は新庄地方の鹿子踊だけなので、凡そ360年程前ということになる。最上氏改易の後には、戸沢氏が入部したのであるが、二代正誠公が領内の鹿子踊を下屋敷に呼び集め、五穀豊穣領内安全を祈願して踊らせた。これを「鹿子の庭入り」と呼び、村々から庄屋が引率して互いに出来栄えを競い、 良く踊った組には殿様から御所望との声が掛り、この組は二度踊らせられた。これは大そう名誉な事としており、萩野領はいつも御所望されたとの事である。
明治2年以降はこの行事はなくなったが、藩制の頃は義務的な稽古のために御夜食米という手当を賜ったものである。旧藩主が東京に住む様になってからは、庭入り行事がなくなり次第に廃れた。明治13年夏、藩主墓参の折「鹿子踊見たし。」とて呼び出したが、萩野と金沢村の2組しか出 場しなかった。踊り終って正実公は「我が家の踊だから末長く無くしないで欲しい。」と付添いの元庄屋広野吉蔵氏に仰せられたとの事である。
荻野では其の後も踊り続けたが、金沢郷では跡を断ち鹿子踊といえば荻野だけになり、戸沢様帰郷の度に呼び出されて御前に披露する習慣となった。
常盤金太郎先生の初版の最上郡史に、歌詞等も挙げて紹介してますので、ご覧の程をお勧め致します。
前記の庭入の行事や御夜食米の制度もなくなった為でもあるまいが、稽古も薄れてきた時(明治28年)早 坂勘蔵氏が中心となり、広野吉蔵氏の熱心な指導と肝入 りで新しい組ができた。広野家文書(大友儀助氏篇)に 当時の方々の名前が出ているが、歌手として広野運吉氏 の名が見える。翁は若い時から歌が上手だったし踊りも 達者だった。天保3年生れなので明治28年には63才位で、私達は与左衛門爺様と親しんだ。96才まで丈夫でおられた。
また早坂勘蔵氏は小治兵衛爺様と呼ばれ、勝れた芸能 者で28年後にも数組の鹿子を育てられ、老躯ながらよ く新庄祭りに先達として行った。翁は歌舞伎・お神楽・ 囃子特に太鼓に秀でていた方である。
ついでにお神楽について記すと、萩野にはお神楽の獅 子頭が二つあり、古い方は渡部平四郎氏、新しい方は早 坂丑蔵氏が夫々保管しており、共に立派なものである。 さてこの爺様は、昭和5年春85才で逝かれましたが 弘化3年生れだった。現在、加藤実氏の組が爺様の育て 最古の組になるが、爺さんが良く。実程の踊手は滅多に 出ないもんだ。とべ夕褒めしていた。実氏の育成になる 連中が二組あり、古き鹿子踊の姿を受け継いでいる。
昭和41年9月、無形文化財として県の指定を受け、 ある時は県文化財を代表して県内は勿論、遠く弘前市で の東北芸能大会、栗駒自然公園の指定記念式典、大阪市 等には東北代表としてその古き姿を披露し、更に伊勢神 宮新穀感謝祭にも地方代表として奉納する等、連中一同 これが保存と練磨に精進している。
言い伝えによれば、ある年七頭の鹿子の群れが一頭の 親鹿子に連れられて、此の地方を踊りながら今の新庄市 稲舟、本合海の方より荘内の方に行ったが、梅ヶ崎・月岡周辺ではどこではぐれたか6頭になっていた。そのため金沢郷では6頭で踊り、萩野村のみ7頭で踊ったものだと、私の祖父が話しておった。祖父は梅ヶ崎久兵衛 (現斎藤久家)の次男で養子に来たのであるが、以前は 中鹿子をやった人である。
踊りの並び方は前後に3人ずつであったが、歌は荻野 と同じ歌であったという。よくお行(さんげさんげ)の 時に歌わされているのを聞いたものである。
鹿子の通った年は大豊作で、刈取った跡に出た稲にも 実が入り、粉煎用にできる小米が取れたという。
そのため、五穀豊穣・商売繁盛を祈って鹿子踊りする ようになったのである。庭入りの行事の時は、萩野郷中 の希望する者誰もが習っており、その中で上手な若者を 選んで出場したもので、黒沢の甚九郎爺様(出生年不明) は歌が上手で毎年出場したとの事である。
稿を改めて、伝統ある鹿子踊りのテーマ・装束等は勿 論、荻野の出土品や伝承などを基に、郷土の姿を遡って みたいと思っているが、私の心は、何時までも伝統ある ものを無くしないで伝えてほしいと念願することでいつも一杯なのである。
荻野 渡部弘見氏(萩野小学校開校百周年記念誌「百寿」より)
仁田山鹿子踊の起因と由来について
仁田山集落に伝承保存されている「鹿子踊り」の起りや、来歴については古文書もなければ資料もなく、その由来など判然としない。ただ、お年寄り・老人達の話しとして今日まで語り伝えられるところによると、むかしのむかし、東の国より土賊討伐のため派遣された多才博学な大将軍が、仁田山の東にある「小倉山」(標高334m)に陣を張り「とりで」を築き、抵抗する悪者どもを討伐し、良民には塩などを与え、食用になる山野草を教え薬用草木・毒草・毒果物、生活する上に必要不可欠なことを伝授、農耕を普及するなど土着民の教化を図られたという。
恐怖におののいていた土着民も大将軍の温情に感泣し、悔悟反省が見え初め、日毎に勤勉な良民が増し、静穏平和な集落に変っていった。
そうしたことから、この地方に駐屯の必要もなくなり、大将軍は「みちのく」に転進することになった。その折り、大将軍は当時の「地頭」を呼び召され、「永いこの地の駐留で兵士達の疲労も烈しい。慰労も兼ね無礼講でIタ、離別の宴を開催するから、土着民の中で舞踊・歌曲のできる者を集めよ。」との命令だったという。
都に遠いこの辺地に、舞楽音曲もなかった「地頭」は、どうしたらよいものか苦慮困惑した。しかし、郷民に伝えねばならない。緊急会議を開いて協議を重ねたが良い知恵も浮かばず、積極的に参加するものもなければ、出演者もいなかった。
その時、日頃から頓智のよい青年「またぎ」助十郎が飛び出し、「恩顧ある大将軍の所望とあらば是非を問わず出場せねばなるまい。もし、これを拒否でもしたら郷民の恥辱。どんな災禍が降りかかるやも知れない、必ずやってお目にかける。俺にまかせよ」と引き受け、屈強な若者9名と語り合い。自宅に「薬用、魔除け」として保管していた熊・鹿などの「がい骨」を冠り、覆面として熊の毛皮・鹿の毛皮に山鳥鷹などの羽根やら草花を結びつけ、縫いぐるみにして着用、「おぼげ」という桶を肩から吊して腹に縛り、二本の「ばち」で打ちながら踊る急造の踊りを
考案。二人の美声を「地方」とし「ささら」という竹製の薬器を摺りながら合いの手を入れ、お盆の15日の吉日に鎮守社(現在仁田山部落の地蔵尊前)に、大将軍以下の将兵を招待、奇妙な装束で勇壮に乱舞奉納した結果は、拍手大喝采であった。大将軍は出場者全員に褒賞として酒肴料を賜り、厚く労をねぎらわれ。この踊りを急造、構成した助十郎に対しては「狩猟御免」の巻き物を下賜された。
“駐”本巻き物は仁田山伊藤有さん宅にある。
この急造の踊りにより「地頭」を初め郷民は共に面目をほどこし会を終り、万々才であった。尚、当年は天候が順調で、10日ごとに雨が降り、5日ごとに風が吹き、農作物は大豊作だったという。そのことから仁田山部落では、これを契機にお盆の15日に鹿子踊りを奉納。五穀豊じょう、悪魔退散、郷家安全を慶祝する習わしとして後世に伝承されている。
鹿子踊りの踊り手が背負う「幟り」に、“小倉山”“仁田山”の文字が染め抜いている。小倉山は大将軍が構築した「とりで」で、いわゆる聖域であった。
更に、その周辺で遊び戯れる鹿や獣の、烈しい角つき合いの状態から踊りの「ヒント」を得たといわれ、これを表徴するために書かれたものであろう。
「十日の雨」、「五日の風」は、農作物の成育に欠かせない天の恵み。順調な天候とは、やはり十雨、五風がなければならない。
そうしたことから、これを祈念する農民の心情を含めて書かれたものといわれる。
小倉山頂には、文字は読みとることが不可能であるが、約二十センチ位の角柱が、仁田山部落を眼下に見下ろす如く、現在苔むして鎮座している。部落の人々はこれを、「小倉の唐塔」と称し時折り参詣もしている。
「鹿子踊り」を開張する場合には、鎮守社地蔵尊を筆頭に奉納し、第二番目には、「踊り」を考案された助十郎さん。三番目は「地頭」宅と、今でもその順序を固く、「則て」として護り続けている。
他部落、式典等に出演依頼、遠方に出張公演をする場合など、昔は「巻物戴き」といって、必ず、助十郎さんのお庭で踊ってから他出したものと古老は語り聞かせる。
「鹿子踊り」の唄についても、戸沢藩邸で唄うもの、家老役宅、市内神社仏閣で唄うものなど、二十余種類もある。
郷土芸能として各機関より招聘され、出演したものは列挙にいとまないほどである。
仁田山 星川定雄(萩野小学校開校百周年記念誌「百寿」より)
演目解説
鹿子踊の構成
鹿子踊で演じられる曲目は、鹿子たちが踊りの庭に入る「入羽」、牡鹿子が雌鹿子をめぐって争う「狂い」、纏頭を鹿子仲間に披露する「投げ草」、庭を引き上げる「引き庭」の4曲で構成されます。
以降、中断されることなく続けられている新庄まつり、途中、題材を映画やテレビ番組から引用したこともあったようですが、現在では伝統的なまつりへの回帰が顕著になっています。
昭和58年(1983)に開館した「ふるさと歴史センター」には2台の山車が、また平成11年(1999)に開館した最上広域交流センター「ゆめりあ」に一台、常時展示されています。
平成3年(1991)には山車・囃子が東京「隅田川まつり」と大阪「御堂筋パレード」に、翌4年(1992)には東京「日本橋・京橋まつり」に参加、現地の人々に強い印象を与えました。さらに平成7年(1995)にはオーストリア・ザルツブルクで開催されたヨーロッパジャパンウィークにも参加。歌舞伎などを題材にした山車は、エキゾチシズムに溢れ、現地の人々に深い印象を残したものと思われます。
また平成14年(2002)には、金山町で開かれた全国植樹祭に参加し、ご臨席された天皇・皇后両陛下がご覧になられました。翌日には「ふるさと歴史センター」にお立ち寄りになり、展示中の2台の山車もご覧になられています。平成17年(2005)、250年祭として、史上初めて4日間のまつりを開催しています。
そして、平成21年(2009)3月11日、東北地方の日本海側に伝承されるわが国の山・鉾・屋台の祭りの変遷を知る上でも重要であることから、「新庄まつりの山車行事」が国重要無形民俗文化財に指定されました。
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
協力(順不同・敬称略)
新庄まつり実行委員会 〒996-0022 山形県新庄市住吉町3番8号
新庄商工会議所内 TEL. 0233-22-6855
文化庁 〒100-8959 東京都千代田区霞が関3丁目2番2号 電話番号(代表)03(5253)4111
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