ZIPANG TOKIO 2020「下町からシタマチ へ 上野御徒町プロジェクトー11月4日(土)上野フロンティアタワー開業ー(その壱)」

桜とともに上野の名所となったJR上野駅。「上野ステイーシヨヲ繁栄ノ図」

                                                                                           所蔵:国立国会図書館

上野御徒町プロジェクトー11月4日(土)上野フロンティアタワー開業ー


「下町」から「シタマチ」へ

「上野フロンティアタワー」開業により、これまでの上野御徒町エリアの魅力に加えて、さらに新たな文化やライフスタイルを創造し、このエリアにさらなる活力を呼び込みたいと私達は考えています。

「シタマチ.フロント」と名付けて発信していきます。

また、周辺地域全体の愛称としても親しんでいただくことで、「シタマチ.フロントへ行こう」といっていただける存在になれるよう取り組んでまいります。ゆくゆくは、この「シタマチ.フロント」は上野御徒町周辺地域全体が街を盛り上げる活動をする際のプラットフォームとなり、街作りの合言葉として使用されるようになることを目指したいと考えています。

伝統的な和の要素と現代のテイストを融合させたこのロゴデザインは、シタマチ.フロントの精神そのものを表しています。中心となるのは、日の丸を連想させる丸と、モダンな下という漢字。「一」と「三角」は矢印のように未来を指し示し、そこには日本一のシタマチになっていくという想いが込められています。また、上野御徒町の人々に長年愛されるシンボルになることを目指し、シンプルで親しみを感じるトーンで全体を仕上げています。



歴史から見る「上野」①〜江戸時代から日本のターミナルだった街〜

江戸・東京の玄関として、長きにわたり、人の流れやカルチャーの隆盛を見つめてきた街・上野。ターミナルタウン・上野の歴史は日本の発展の歴史といっても差し支えないでしょう。

今も昔も旅情豊かな上野駅

明治16年(1883)に開業して以来、日本の鉄道の歴史とともに歩んできた上野駅。現在はJR東日本の在来線や新幹線など11路線のほか、東京メトロの銀座線・日比谷線など複数の路線が乗り入れています。成田空港にアクセスする京成上野駅も隣接しており、一帯はまさにメガ・ステーションの様相を呈していますが、これまで長い間、上野駅はとくに東北や北関東方面からの東京の「北の玄関口」として大きな役割を担ってきました。岩手県出身の詩人・石川啄木がふるさとの訛りを聞いて郷愁に浸ったのも上野駅、戦後の高度成長期に多くの“金の卵”たちを迎え入れたのも上野駅です。歌にもうたわれた上野発の夜行列車は平成27年(2015)をもってすべて姿を消しましたが、最新鋭の周遊型臨時寝台列車「TRAINSUITE四季島」は、上野駅を始発に東北・北海道を巡ります。

啄木が訪れたのはこの辺りか「大東京名所繪はがき集上野駅」。所蔵:東京都立図書館

江戸時代から娯楽の拠点として栄えた上野

「火事と喧嘩は江戸の華」ー。火事が絶えなかった江戸ですが、上野には火事を防ぐ大掛かりな防火システムがありました。現在の上野広小路界隈に幅の広い道(下谷広小路)を造って、火事の延焼を防いだのです。そこに家を建てることはできませんでしたが、幕府が簡単な小屋での営業は許可したため、一帯には浄瑠璃小屋や茶屋などが立ち並び、江戸市中でも随一の賑やかな娯楽場になったのです。「江戸風俗図巻」(大英博物館所蔵)という絵巻には、現在の上野広小路あたりから上野恩賜公園にかけて、屋台が並び、賑わう様子が描かれています。観光客はもとより、江戸中から大勢の人が娯楽を求めて上野に集まっていたのです。上野は、楽しいこと、新しいことが好きな江戸っ子の気風を育んだ街と言えるでしょう。

3代歌川豊国と2代国久が描いた「江戸名所百人美女上野山下」。所蔵:国立国会図書館

上野界隈は紀元前からターミナルエリアだった!?

当時、世界最大級の都市として100万人という人口を抱えていた大都市・江戸。上下水道を完備し、ゴミも少ない循環型社会を実現させていた江戸を開発したのは江戸幕府ですが、もちろんそれ以前にも人は住んでいて、東京湾や隅田川を利用して盛んに交易をしていました。その歴史は非常に古く、上野恩賜公園付近の「上野忍岡遺跡群」からは紀元前1万年以上前(旧石器時代)の石器なども発見されています。また上野恩賜公園内には多くの古墳も発掘されていますが、上野駅東西自由連絡路でも平成10年(1998)に竪穴式住居が発見され、土師器や金環などが出土しています。1日20万人以上の人々が利用する上野駅のまさにその場所で、太古の昔から人々が生活していたのです。


歴史から見る「上野」②〜多くの“日本初”と発展した街〜

人々が行き交うターミナルとして発展してきた街・上野。日本で初めて地下鉄が開通したのも上野~浅草間ですが、江戸時代以降、時流の先端を走ってきた上野には、多くの“日本初”があります。

日本初の動物園と公園が隣接

上野と言えばパンダ。1970年代には、恩賜上野動物園のランラン・カンカンが空前の大ブームになりましたが、“日本初の動物園”として明治15年(1882)に開業して以来、開園135周年を迎えた今でも年間300万人以上の入園者を誇る観光スポット。2017年6月には待望の赤ちゃんパンダが誕生して、ますます大きな注目を集めています。また東園と西園を結ぶモノレールも“日本初の常設モノレール”として知られています。昭和32年(1957)の誕生以来、多くの人を乗せてきました。さらに動物園と隣接する上野恩賜公園は“日本初の公園”。動物園より先の明治9年(1876)に開園しています。もともとは軍用地として病院や学校の建設が予定されていましたが、長崎医学学校の教官だったボードワン博士が近代的な公園の建設を提言。そのおかげで、現在は花見の季節には1,200本もの桜が咲き誇り、200万人が訪れる全国屈指の花見スポットになっています。

着物姿の来園者で賑わう恩賜上野動物園「東京名所上野公園内動物園」より。
所蔵:東京都立図書館

大人も子どもも「食」を楽しめる街

グルメの街でもある上野は、「食」に関しても多くの日本初があります。“日本初の喫茶店”として知られているのは、明治21年(1888)にオープンした「可否茶館」という名の喫茶店。それまでは鹿鳴館に出入りするような上流階級の飲み物だったコーヒーの味を、庶民にまで広げた画期的なお店でした。残念ながら現存はしていませんが、跡地に立っている碑文を読むと、コーヒーの味は絶品で、「遠くの人も鉄道馬車に乗って来たまえ」とあるほどの人気店だったそうです。

「可否茶館」跡地に立つ「日本最初の喫茶店発祥の地」の碑。東京メトロ千代田線湯島駅から200m。


また、文明開化を牽引した上野には、明治期から多くの西洋料理店が軒を連ねていました。とんかつやかつサンドといった洋食、スイーツでは小倉アイスなど、ハイカラな食べ物が誕生したのも上野。昭和6年(1931)には、松坂屋上野店の大食堂が“日本初のお子様ランチ”を提供。当時の子どもたちにとっては夢のような場所だったに違いありません。上野は、家族で外食を楽しむコンセプトを最初に打ち出した街でもあるのです。

「東京名所之内上野山内一覧之図」より。中央下の上野大仏脇に、西洋料理の名店「西洋軒(精養軒)」が描かれている。所蔵:国立国会図書館


歴史から見る「上野」③〜重要文化財や世界遺産で彩られた街〜

2016年、国立西洋美術館が世界遺産に登録されましたが、上野の杜には、その他にも重要な建築文化を伝える社寺や名建築物が大切に保存されています。上野は、世界の建築ファン垂涎のエリアとして知られているのです。

世界文化遺産ほか、価値ある近代建築が点在

「ル・コルビュジエの建築作品ー近代建築運動への顕著な貢献ー」の構成資産の一つとして世界文化遺産に登録された「国立西洋美術館(1959年)」は、“無限成長美術館”のコンセプトをもとに、設計されています。近代建築の巨匠ル・コルビュジエ、日本唯一の建築作品です。ル・コルビュジエに師事した前川國男による「東京文化会館(1961年竣工)」は、日本のモダニズム建築を代表する建物。洞窟のようなイメージの小ホールや、独特の反響をもたらす壁面が音楽家から絶賛されています。その他、1906年建築の旧帝国図書館を安藤忠雄建築研究所がリノベーションに参画した「国立国会図書館国際子ども図書館」、洋風建築が美しい国指定重要文化財の「東京国立博物館表慶館(1900年竣工)」など、多くの名建築が立ち並びます

上野恩賜公園そのものが旧境内となる寛永寺

徳川家の菩提寺として知られる寛永寺は、京都の比叡山にならい、江戸城の鬼門となる上野忍岡に、徳川家の安泰と江戸城鎮護のために江戸期の寛永2(1625)年に創建しました。山号は「東叡山(とうえいざん)」。最盛期には敷地面積約30万5,000坪におよび、格式においても当時の日本最大の偉容を誇っていました。しかし、幕末の戊辰戦争で壊滅的な打撃を受け、明治期に再建されたのです。著名な伽藍、国指定重要文化財としては、「旧寛永寺五重塔」「清水観音堂」などがあり、また不忍池の中之島に立つ「不忍池辯天堂」も名所として知られています。

国指定重要文化財「旧寛永寺五重塔」

国指定重要文化財「清水観音堂」

不忍池

不忍池


旧岩崎邸など、魅力的な建築・史跡群

上野恩賜公園の近く、広大な敷地に立つ瀟洒な洋館は、ジョサイア・コンドルの代表作「旧岩崎邸庭園」です。1896年、三菱財閥の3代社長・岩崎久彌邸として建築されました。なおそばには、2013年に安藤忠雄が名誉館長を務める「国立近現代建築資料館」が完成。建築散歩がさらに楽しめます。その他、煌びやかな「上野東照宮」、芭蕉の句にも詠まれ現在も刻を告げる「時の鐘(時鐘堂)」、現在は顔がレリーフとして保存される「上野大仏」などが点在しています。

国立西洋美術館。前庭でもロダンの彫刻を鑑賞できる。(c)国立西洋美術館

ガラスとの調和が美しい、国立国会図書館国際子ども図書館(レンガ棟)。

清水観音堂などが表された「東都名所上野東叡山ノ図」。所蔵:国立国会図書館

往時の約3分の1の面積をもつ旧岩崎邸庭園には、洋館、和館、撞球室の3棟が現存。


歴史から見る「上野」④〜アート・文学と寄り添う街〜

江戸期から芸能・文化が栄えた上野エリアは、数多の文学作品にも登場し、文豪たちもこの地を愛しました。明治10年(1877)には日本初の“美術館”を掲げた建物が完成。その後東京美術学校が開校するなど、芸術を支える文化が育っていきます。

東京藝術大学など、アートが花咲く街

現在では美術館・博物館の集積地として知られますが、そのきっかけとなったのは、明治10年(1877)の第1回内国勧業博覧会の開催です。このとき、日本初の“美術館”を掲げた建物が完成。明治14年(1881)には寛永寺本坊跡にジョサイア・コンドル設計の博物館が開館し、美術館は新博物館の2号館となったのですが、いずれものちに関東大震災(大正11年〔1923〕)で損壊しています。損壊前、明治22年(1889)には「帝国博物館(東京国立博物館の前身)」となり、岡倉天心とアーネスト・フェノロサが携わります。2人は東京美術学校の設立に尽力し、同時期に開校した音楽学校と併せ、昭和24年(1949)に東京藝術大学が誕生したのです。なお、博物館の3代目館長(当時は「帝室博物館総長」)は森鷗外が務めました。

1881年竣工の「東京名所上野公園内国勧業第二博覧会美術館図」、3代歌川広重筆。出典:WikimediaCommons(パブリックドメイン)

鷗外や漱石とも縁が深い土地柄

明治の文豪として名高い森鷗外や夏目漱石は、上野近辺に居を構えた時期があります。鷗外の『雁』では、不忍池や旧岩崎邸、無縁坂が印象的な舞台として登場。鷗外自身は上野(現在の「水月ホテル鷗外荘」内旧居)のほか、千駄木の自宅(現在の「文京区立森鷗外記念館」)で晩年までを過ごし、よく上野まで散歩に出かけていたことが知られています。なかでも上野の精養軒で食事をすることは、家族の楽しみでもあったようです。娘の小堀杏奴が、父を思い出すので長い間近づくことさえ恐れたのが上野恩賜公園でした。森家近くの通称“猫の家”に住んでいたのが、夏目漱石(その家はかつて鴎外が1年ほど住んだ場所でもあります)です。漱石の作品中にも上野界隈が登場します。たとえば、『それから』では上野恩賜公園の桜や博物館、御成街道(現・中央通り)が、『虞美人草』では東京勧業博覧会開催最中の上野が、物語の舞台となるのです。

寄席・映画など大衆娯楽の殿堂

戦前まで、現在の台東区に相当するエリアは、東京でもっとも人口が多い場所でした。遡れば、江戸三大広小路(両国・浅草・上野)の一角を占め、寛永寺の門前町として大いに賑わっていたのです。安政4年(1857)に開業し、日本最古と呼ばれる演芸場が「鈴本演芸場」。切符売場上の太鼓櫓では、開演前の呼び出し太鼓と終演後の追い出し太鼓が叩かれ、歴史ある寄席の風情を醸し出しています。明治以降、交通網の発達で一大商業地となった上野には、買い物はもちろん大衆娯楽を楽しみに訪れる客で賑わいを見せます。映画館も多かったのですが、平成期には衰退し、その復活が望まれていました。


歴史から見る「上野」⑤〜多様性を育む街〜

年末の賑わいが毎年のニュースにもなるアメ横を歩くと、現在ではアジア広域に関わるエスニックタウンの側面も感じられるほど。歴史的に、上野は多様多彩な人々を受け入れ、その技術や暮らしの営みを育んできたのです。

戦後から続く庶民の買い物スポット「アメ横」

JR上野駅から御徒町駅の高架西側と高架下に、数百軒の店が軒を連ねる人気スポット。戦後の闇市をルーツに、食糧難の時代に人工甘味料(サッカリン)を用いた飴菓子が人気となり、「アメヤ横丁」と呼ばれたことや、アメリカ製品の多さに由来する「アメリカ横丁」が始まりだとか。現在では、国内外の菓子はもとより、海産物や果物、皮革製品や貴金属、海外の化粧品やアパレル関係など、衣食住にまつわる多様な商品が並びます。菓子などのたたき売りはアメ横の名物として知られ、下町ならではの魅力があります。もつ焼きなどの気軽な飲食店も人気。近年では、韓国やトルコなど多彩な食文化を楽しめるエリアとしても賑わっています。また、「アメ横センタービル」地下では、ディープなアジア系食材を探しに、多くの外国人も足を運んでいるのです。

新鮮食材から日本の駄菓子、輸入菓子まで、圧倒的な品揃え。アパレル関係も多いアメ横界隈。

江戸文化を下支えした伝統工芸の拠点

御徒町周辺は、貴金属の卸業者や小売店が多く、良い品が安く買えると評判です。この源泉は、刀の鍔(つば)や簪(かんざし)、神仏具に施される伝統工芸の彫金など、江戸文化を支えてきた歴史にも繋がります。他にも、独特の鍛金技法を用いた銀製品や、和装に欠かせない組紐など、400年近い歴史を誇る老舗が存在しています。伝統を守りながらも、新たな挑戦を続ける職人が腕をふるっているのです。

ものづくりの新しい息吹「2k540」

近年、東京の東側エリアが魅力的だと、若い世代の耳目を集めています。それには「感度の高い品がある」「他にないモノが手に入る」といった理由が挙げられるでしょう。この背景には、上野御徒町エリアが“ものづくり”の街であり、官民一体で若い職人やアーティストを応援する気風が根付いているからなのです。その代表的な施設の一つが「2k540AKI-OKAARTISAN」。秋葉原~御徒町間の高架下に、新しい視点の革小物やジュエリー、木工などの工房兼店舗が並びます。“街の延長線上にこの場所がある”というコンセプトのもと、高架下ながら閉塞感のないゾーニングが特長です。カチクラバシ(御徒町・蔵前・浅草橋)エリアは感度の高い団塊ジュニア以下の世代が集まる場所として、カフェや外国人対応のゲストハウスなどが次々とオープン。アーティストや若い職人の交流の場にもなっています

「2k540(ニーケーゴーヨンマル)」は、東京駅起点の場所を示す鉄道用語から。


松坂屋上野店の歴史

伝統を守り、革新を続けた250年

江戸有数の賑わいを誇っていた上野広小路に生まれた「松坂屋上野店」。約250年にもおよぶその歴史は、伝統を守りつつ、常に一歩先を見据えた取り組みとともにありました。都市文化をリードし、流行の発信基地になるなど、今日ある百貨店の形を築くうえでも大きな功績を残し、今もなお、新しいシタマチ文化を創造するために革新を続けています。


大正12年(1923)関東大震災により類焼

大正時代には近代化を目指して新本館を建築。盛況となるも、関東大震災による火災で類焼。付近住民の救済活動に尽力する一方で、いち早い仮店舗での営業再開にもこぎつけます。本格的な再建の後押しとなったのは大正14年(1925)に誕生した御徒町駅で、駅から「僅かに数十歩」と利便性をアピールしました。


昭和4年(1929)新本館が開店し、エレベーターガールも登場

昭和4年(1929)4月1日、地上7階、地下1階、延床面積2万5000㎡の新本館が完成。ルネッサンス様式の荘厳華麗な外観とあいまって東京の名建築の一つに数えられました。開店と同時に導入されたエレベーターガールや店内案内係を1階に設置するなどは日本初の試みで、新聞に取り上げられ話題も集めました。

明和5年(1768)松坂屋上野店開業

明和5年(1768)、松坂屋の前身である「いとう呉服店」は、創業地の名古屋から一大消費市場の江戸への進出を果たすため、上野広小路で呉服店を営む「松坂屋」を買収。これが「松坂屋上野店」の始まりです。以来250年間、同じ場所で営業を続けており、安政3年(1856)に描かれた歌川広重の『江戸名所百景』にも、現在地に建つ上野店が登場しています。

昭和5年(1930)地下鉄と直結した最初の百貨店

新本館完成の翌年、昭和5年(1930)には地下鉄銀座線「上野広小路」駅が開業し、改札口と地下の食料品売場が繋がります。上野広小路駅の設置は当初の計画にはありませんでしたが、交通機関との連結に着目した松坂屋が申請したことで実現。これにより上野店は、地下鉄と直結した最初の百貨店となりました。


昭和6年(1931)「お子様ランチ」誕生

画期的な試みに数多く取り組んだ上野店。6・7階には、家族連れをターゲットとした大食堂もつくっています。同時に子ども向けメニューも工夫し、その一つが「お子様ランチ」。日本に子ども用の洋食メニューが誕生したのはその前年ですが、一般名称として今日に受け継がれているのは、上野店命名によるものです。


平成19年(2007)半世紀ぶりに全館改装。新キャラクターも

消費者ニーズに対応し、一層の顧客満足度の向上を目指して、平成19年(2007)全館を改装。上野店の大規模な改修は約半世紀ぶり。上野地区唯一の百貨店として地元の魅力を伝えるとともに、その象徴である桜とパンダを組み合わせたキャラクター「さくらパンダ」を創設、ライセンス事業にも取り組んでいます。



鎹八咫烏 記



協力(順不同)

J.フロント リテイリング  TEL:03-6895-0816 E-MAIL : kouhou@jfr.co.jp 

大丸松坂屋百貨店 TEL:03-5846-1241 E-MAIL :dmaa243@jfr.co.jp 

パルコ TEL :03-3477-5710 E-MAIL :koho@parco.jp 

シタマチ.フロント PR 事務局 (株式会社サニーサイドアップ内)
TEL: 03-6894-3200 FAX: 03-5413-3050 E‐MAIL:j.front@ssu.co.jp 

文化庁 〒100-8959 東京都千代田区霞が関3丁目2番2号 電話番号(代表)03(5253)4111


ZIPANG TOKIO 2020

2020年、東京でオリンピック・パラリンピックが開催されます。 この機会に、世界の人々にあまり知られていない日本の精神文化と国土の美しさについて再発見へのお手伝いができればと思います。 風土、四季折々の自然、衣食住文化の美、伝統芸能、行事、風習、ものづくりの技の美等、 サイトを通じて、平和な国、不思議な国、ZIPANG 日本への関心がより深かまるならば、私が密かに望むところです

もしもこのサイトに同じ思いをお持ちの皆様から、素敵な情報や画像をお寄せ戴ければこの上ない喜びです。以下のEメールアドレスへご連絡下さい。

E-mail aromajinja@gmail.com ( ZIPANG 2020 編集部 )。

2020, will be held the Olympic Games and Paralympic in Tokyo.

On this occasion, for the little-known beauty of the spiritual culture and national land of Japan to the people of the world I think that if we help to re-discover.

Climate, nature of the four seasons, of food, clothing and shelter cultural beauty, traditional arts, events, customs, beauty, etc. of the work of making things,

Through the site, peaceful country, a strange country, if the interest is more depth or round to ZIPANG Japan, is where I want secretly.


写真ご協力:高山祭(高山市)/ 富士山(富士市)

ZIPANG TOKIO 2020

2020年、東京でオリンピック・パラリンピックが開催されます。 この機会に、世界の人々にあまり知られていない日本の精神文化と国土の美しさについて再発見へのお手伝いができればと思います。 風土、四季折々の自然、衣食住文化の美、伝統芸能、行事、風習、ものづくりの技の美等、 サイトを通じて、平和な国、不思議な国、ZIPANG 日本への関心がより深かまるならば、私が密かに望むところです。

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