「万松院」宗家の御霊屋へ続く百雁木(ひゃくがんぎ)。雁木とは石段のことで、石段の数が132段あることから、百雁木と呼ばれています。
伊勢志摩と見間違えそうなリアス式海岸です。対馬の「浅茅湾(あそうわん)」です。名古屋から来たというとタクシーの運転手さんが、「そうでしょう、真珠王の御木本幸吉さんが、真珠の養殖に適しているからと、指導に来られたのですよ」と嬉しそうに教えてくれた。
対馬は、東西を対馬海流が流れ、平地が少なく、島土の約89%が山地であり、各地に原生林が残されています。島の中央にはリアス式海岸・浅茅(あそう)湾が広がり、海岸線の総延長は915キロに及びます。地質は大部分が堆積岩で、表土は薄く、ごつごつとした岩肌が海に沈みこむ荒々しい風景があちこちで見られます。その日も急斜面をカモシカがをわが物顔に闊歩していました。
烏帽子岳展望所から見た浅茅湾。島全体が岩がちであり、耕地が乏しいという地理的条件のため、古代より九州本土と朝鮮半島を結ぶ海上交通に活路を見出してきました。対馬最古の越高(こしたか)遺跡(紀元前6800年頃)からは九州と朝鮮半島の遺物が同時に出土し、当時から九州と朝鮮半島の間で人と物の交流・交易があったことを示しています。
「日本誕生」古代より続く人の流れと、大陸文化を摂取するための使節の派遣などにより、金属器・漢字・仏教・政治制度などさまざまな大陸文化が対馬・壱岐を経由して日本に流れこみました。対馬・壱岐はいわば、日本が誕生する際の「へその緒」としての役割を果たしました。
(写真: 古代の港・西漕手(にしのこいで) 対馬市美津島町小船越)
「国家間の緊張」7世紀の白村江の戦いによりほぼ国境が確定し、日本・新羅・唐という国家が成立したことにより、「国境の島」は常に国家間の緊張関係の最前線にさらされることになりました。その一方で、鎌倉時代から江戸幕末まで宗家(そうけ)が対馬を統治し、また戦国時代から現代まで戦場にならなかったため、全島に豊富な歴史・民俗資料が温存されており、日本や朝鮮半島の歴史を知る巨大なタイムカプセル・データベースとなっています。
(写真: 古代山城・金田城(かなたのき) 対馬市美津島町黒瀬)
信州の山畑でよく見かけたそば畑(原種の対州そば)
原種の対州そば。懐かしい味がします。対馬に行ったら必ず食べてください。
食べ物ついでに、お土産には対馬名物の「かすまき」を、あん巻きともカステラとも違う。やはり本場のかすまきは一味違います。
「自然と食 」対馬は山地が多く、陸上交通が不便であったため、島への伝来物が何百年もそのまま保存されている場合があります。その代表が対州そば。そばは縄文後期に日本に移入されたと考えられ、全国的に品種改良が進みましたが、対馬では縄文後期の原種そばを今でも味わうことができます。また、昔ながらの養蜂法が今も行われており、濃厚で香り高い和蜂のハチミツを楽しむことができます。山が深く、四方を海に囲まれている対馬は、自然が生み出す本物の食材に出逢うことができる島でもあるのです。(二ホンミツバチのハチミツ)
「生き物たち」サル・クマ・キツネ・タヌキ・ウサギ・リスといった本土の普通種が1匹も生息せず、代わりにツシマヤマネコ、ツシマテン、アキマドボタルなどの大陸系生物が分布するなど、独特の生態系が築かれています。その特異な生態系により、白嶽などの山岳、鰐浦ヒトツバタゴ自生地などが国の天然記念物に指定されており、また島の多くの部分が壱岐対馬国定公園に指定されています。
(写真: 国指定天然記念物・ツシマヤマネコ)
高床式、平柱「椎根の石屋根」貴重品を収蔵するための倉庫です。室内は、穀類、家具類、衣料の三つに仕切られている。石屋根は台風対策のための対馬ならではの生活の知恵。
「和多都美(わたつみ)神社」古事記に登場する海神の娘・豊玉姫(とよたまひめ)を祭る海宮で、古くから竜宮伝説が残されています。拝殿正面の5つの鳥居のうち2つは海中にそびえ、潮の干満によりその様相を変え、遠く神話の時代を偲ばせる神秘的な雰囲気を漂わせます。裏参道を少し歩くと古代の祭祀跡・磐座(いわくら)があり、隠れたパワースポットとなっています。
対馬市営渡海船「うみさちひこ」対馬の道路が整備される前から、島民の海上の足として親しまれたのが浅茅湾の渡海船です。対馬市美津島町瀬原(みつしままち せばる)の長板浦(ながいたうら)と豊玉町仁位(とよたままちにい)を結ぶ定期便ですが、チャーターや、5人以上で乗り合いの利用もできます。
実際に乗ってみましたが、地元の方たちとのコミュニケーションが図れ、旅の思わぬ情報も得られ船内はのんびりでき大変なごやかな雰囲気でした。乗客の行き先に合わせ何か所も立ち寄り、得した気分になります。行きはこの船で、帰りは車で2倍に楽しんでください。是非お勧めです。
「朝鮮通信使に関する記憶」のユネスコ「世界記憶遺産」認定おめでとうございます。
現在、対馬は壱岐、五島列島と共に日本遺産に認定されています。
それでは、まずは国境の町「対馬」の歴史からご紹介いたしましょう。
さて、対馬にはいつ頃から人が住んでいたのでしょうか?
対馬で最古の遺跡は上県町の越高(こしたか)遺跡です。紀元前6800年頃の縄文時代の遺跡で、朝鮮半島の隆起文土器と、九州産の黒曜石などが同時に出土しており、その当時から朝鮮半島と九州の間で人・モノの流れがあったことを示しています。
魏志倭人伝 ~史書への登場~
対馬がはじめて歴史書に登場するのは3世紀頃、中国の三国志時代の「魏志倭人伝」(ぎしわじんでん)です。
「始めて一海を渡ること千余里、對馬(対馬)国に至る。 其の大官は卑狗、副は卑奴母離と曰う。居る所絶島、方四百余里可。土地は山険しく深林多く、路は禽鹿の径の如し。千余戸有り。良田無く、海の物を食べ自活、船に乗りて南北に市糴(=交易)す。」
断崖絶壁が多く、山が深く、道は獣道のように細い。また、水田が少なく、海産物を食し、朝鮮半島や大陸と日本本土を小船で行き来して交易を行っていた・・・。
この記述は、当時の対馬の状態を簡潔・的確に描写しています。現在でも対馬の島土の約89%は森に覆われており、農耕地は少なく、戦後に道路網が整備されるまで集落間の移動に船を用いることも多かったようです。
(写真:豊玉町烏帽子岳から浅茅湾を臨む)
白村江の戦い ~金田城と防人~
古代の対馬に緊張状態をもたらしたのが、663年の白村江(はくそんこう、はくすきのえ)の戦い。当時の朝鮮半島には高句麗(こうくり)・新羅(しらぎ)・百済(くだら)の三国が分立していましたが、唐・新羅の連合軍により日本と同盟関係にあった百済が滅ぼされ、百済再興のために大和朝廷が送った援軍も白村江で大敗してしまいます。大和朝廷は朝鮮半島からの撤退を余儀なくされ、防衛のためにのろし台や防人(さきもり)が配置され、城が築かれました。美津島町箕形の金田城(かねだじょう、かねたのき。667年)には日本最古級の朝鮮式山城の遺構がよく残っており、国の特別史跡に指定されています。
現在、金田城には登山道が整備され、山頂からは古代の防人たちも見たであろう朝鮮半島方面の水平線を臨むことができ、歴史のロマンに思いを馳せることができるトレッキングコースとして人気です。
(写真:美津島町金田城一ノ吉戸の城壁)
阿比留氏と宗氏 ~中世対馬の有力者~
現在の対馬でもっとも多い姓は「阿比留」(あびる)です。本土の人は「あひる」と読んでしまうこの姓のルーツは、平安時代まで遡ることができます。阿比留一族は交易などの実権を握って対馬で大きな勢力を持っていたようですが、鎌倉時代になると大宰府との関係が悪化し、惟宗(これむね)氏によって支配権を奪われます。惟宗氏はやがて宗(そう)氏を名乗り、鎌倉時代から江戸幕末まで600年続く対馬島主・対馬藩主の家系となりました。
伝説では、大宰府の命を受けた惟宗重尚(これむねしげひさ)以下200騎が厳原町豆酘(つつ)に上陸し、阿比留氏と死闘を繰り広げ、美津島町鶏知(けち)で阿比留平太郎国時を討ち取り、上対馬町舟志(しゅうし)で阿比留禅佑坊を敗死させ、対馬の支配者となった、とされています。惟宗重尚は伝説上の人物であり、その武勇伝も後の世に生み出されたもののようですが、宗氏による阿比留氏追討の伝説は対馬では長く信じられてきました。
源平合戦「屋島壇ノ浦図」屏風(香川県立ミュージアム所蔵)
宗氏は平氏の血をひくと自称しており、また、源平合戦で壇ノ浦に沈んだ安徳帝の子孫であるとも称し、厳原町久根田舎には安徳天皇の参考陵墓があります。宗姓を名乗ることができたのは島主・藩主だけであったため、現在島内に宗姓の人はいません。ちなみに阿比留氏は、上総国安蒜(あびる)庄の出身であるとか、蘇我氏の末裔であると称しており、対馬で最も多い姓となりました。
元寇 ~国境の島を襲った悲劇~
阿比留氏に代わって対馬を統治することになった宗氏ですが、鎌倉時代から江戸幕末まで続くその治世は決して平坦なものではありませんでした。1274年、宗資国(助国)の時代には、元寇軍3万3000(蒙古2万5000・高麗8000)のうち約千騎が小茂田浜(こもだはま。現在の金田小学校周辺とされている)に上陸、それを迎え撃った資国以下80余騎が全滅しています。宗資国の首と胴体は、お首塚・お胴塚に別々に埋葬されており、戦いの激しさを伝えています。
対馬に上陸した元軍は暴虐の限りを尽くし、島人は未曾有の惨状に巻き込まれました。元軍の撤退後、対馬を中心とする倭寇(海賊集団)の活動が激しくなり、高麗朝を滅ぼす原因のひとつとなりますが、背景には元寇への復讐という意味があったのかもしれません。
68歳であった宗資国はのちに軍神として祀られ、毎年11月に行われる小茂田浜神社大祭には、宗氏と家臣の子孫たちが甲冑に身を固めて参加し、海に向かって弓を鳴らす鳴弦の儀式が行われます。
倭寇 ~海賊たちの時代~
13世紀から16世紀にかけて、東アジア一帯で猛威をふるったのが「倭寇」(わこう)と言われる海賊集団でした。倭=日本人、寇=侵略、であり、北九州(対馬・壱岐など)や瀬戸内海の漁民・豪族により構成されていたと考えられています。古来よりこれらの地域では海外との交易が盛んでしたが、元寇への報復の意味もあり、日本・朝鮮の中央政府が弱体化したり、戦争や対外的な緊張により交易ができなくなると、盛んに海賊行為を行うようになりました。倭寇の侵略行為は熾烈をきわめ、それが高麗王朝の滅亡を早めたと言われています。
倭寇に悩まされた李氏朝鮮は、倭寇の本拠地とされた対馬の武力鎮圧を試みたり(1419年応永の外寇)、食料が自給できないことが海賊行為の原因であると推察し、対馬の有力豪族や対馬島主である宗家に官位を与え、貿易を認める等の懐柔策を取ります。1443年(嘉吉3年)には宗家と李氏朝鮮の間で嘉吉条約(貿易協定)が結ばれ、これより宗家は朝鮮との貿易権をほぼ独占することになり、また、室町幕府と明国の間で勘合貿易が行われるようになったため、倭寇の活動は次第に下火になっていきます。
後期倭寇は、明国の海禁政策(貿易制限)によって生活手段を奪われた中国人・ポルトガル人・イスパニア(スペイン)人・博多の商人などが中心となっており、正確には「倭」寇とは呼べないものだったようです。
対馬市美津島町の西部にある尾崎地域は、倭寇の一大勢力であった早田氏の拠点の一つでした。尾崎の北端にある水崎遺跡の発掘の結果、陶磁器の9割近くは朝鮮製で、その他に東南アジア製の陶器等も見つかっており、早田氏が朝鮮・中国・東南アジアにいたる広い交易圏を持っていたことをうかがわせます。
(写真:美津島町鋸割岩)
朝鮮出兵と和平交渉 ~宗義智の人生~
万松院
宗家宗義智(そう よしとし)は、豊臣秀吉による朝鮮出兵と、徳川家康による和平交渉という最も困難な時代に生きた島主でした。天下統一を果たした秀吉が次に目指したのが大国・明の支配であり、宗義智や小西行長の反対を押し切り、朝鮮半島への出兵(文禄・慶長の役)が計画されます。先導役を命じられた義智は、義父でもある行長の密命を受け、水面下でさまざまな和平交渉を行ったと言われています。日本軍は一時は漢城(ソウル)・平壌(ピョンヤン)を陥れますが、李舜臣率いる朝鮮水軍に補給路を絶たれ、また明国の援軍と朝鮮義勇兵の抵抗に遭い、秀吉の病死によって撤退を余儀なくされます。
日本軍の残虐行為は朝鮮民衆に深い恨みの感情を抱かせ、西日本の諸大名を疲弊させました。朝鮮に兵を送らなかった家康は着実に力を蓄え、関ヶ原の戦いを制して天下人となります。関ヶ原の戦いにおいて、義智は義父の行長とともに西軍(三成方)に味方しますが、小西行長は敗戦後に処刑、義智の妻であった行長の娘マリアは離縁され、長崎で一生を終えたと言われています。義智は、家康によってお咎め無しとされ、断絶していた朝鮮との関係修復を命じられます。李氏朝鮮は強硬に拒絶しますが、北方で勢力を拡大していた女真族への防備の必要もあり、家康から先に国書を通じること等を条件に通信使の派遣を承諾し、1607年に最初の通信使(回答兼刷還使)が派遣されます。
厳原八幡宮神社
秀吉の朝鮮出兵、妻との離縁、戦後の和平交渉など苦難に満ちた人生を送った宗義智は、江戸幕藩体制においてその功績を認められ、初代対馬藩主として元和元年(1615年)、その波乱に満ちた生涯を終えました。
父・義智の苦労を偲んだ宗義成によって菩提寺が建立され、義智の法号から万松院と名付けられました。義智の妻マリアはキリシタンでしたが、厳原町の八幡神社の末社である今宮若宮神社に祀られています。
対馬 交通アクセス
鎹八咫烏 記
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