平成30年(2018年)は、明治元年(1868年)から満150年の年に当たります。
「異国の見える丘展望台」千俵蒔山を周回するように農道湊~井口浜線が走り、その峠付近に展望台、トイレ、駐車場があります。この地から海上に広がるパノラマは壮大で、気象条件がよければ釜山市の街並やビルを見ることができます。
上県町佐護から異国が見える丘展望台に向かう道の両側にあじさいが咲きます。また、上県町佐護にある千俵蒔山からはパラグライダーの大会が行われます。
「韓国展望所とヒトツバタゴ」 韓国まで49.5キロの至近距離にある上対馬町は、天気の良い日には韓国釜山市の街並が望める、まさに「国境の町」です。その地理的にも歴史的にも深い関係にある韓国の古代建築様式を取り入れて建造されたこの展望所は、日韓双方の観光客が訪れる観光スポットとして人気を博しています。
「姫神山砲台跡」明治33(1900)年、モルタルと赤煉瓦をつかったイギリス風の要塞が姫神山に築造されました。うっそうとした樹木に覆われ、訪れる人も少ない状況でしたが、平成22年度に道路整備と周辺樹木の伐採を行いました。
姫神山砲台跡
「上見坂公園(上見坂堡塁)」標高385mに位置する上見坂展望台からは、日本の代表的溺れ谷・浅茅湾が箱庭のように眼下に広がります。遊歩道を奥まで歩くと、明治後期に築かれた砲座跡が姿を現します。口径15センチの火砲が4基据え付けられていましたが、実戦では一度も発射されることはありませんでした。
「茂木浜のナヒモフの大砲」明治38年(1905)、日本の興廃をかけた日本海海戦が対馬沖で繰り広げられました。上対馬町茂木浜には、アドミラル・ナヒモフ号の敗残兵が上陸し、手厚い看護を受けています。祖国を応援しつつも、哀れな敗残兵を助けたのは、島人の素朴な心性の発露だったのでしょうか。1980年にはナヒモフの大砲が海中より引き上げられ、記念碑とともに設置されています。
「深浦水雷艇基地跡」2011年11月18日(金)、対馬市美津島町竹敷の「深浦水雷艇隊基地跡」が、公益社団法人「土木学会」の「土木学会選奨土木遺産」に認定されました。
もともと土木学会の「日本の近代土木遺産」でAランク(建築物として国指定重要文化財レベル)に指定されていましたが、今回その価値があらためて認められたことになります。
長崎県下では、対馬市の「深浦~」に加え、長崎市の「出島橋」「本河内高部堰堤」「小ヶ倉(水道)堰堤」、佐世保市の「山の田浄水場群」の計5ヶ所が認定されています。
「城山砲台」 城山・城山付属の両砲台は、日露戦争にそなえて明治30年代に築かれた第2期の陸軍要塞です。
西暦667年に天智天皇が築いた古代山城・金田城(かなたのき)を明治の陸軍が再整備し、1200年の時を超えて復活したことになります。
ちなみに、「砲台」の目的は主に海岸に接近する軍艦への攻撃ですが、「堡塁」の目的は上陸してきた敵兵の侵攻を阻むことです。
対馬の要塞化 ~道路と橋と要塞~
「豊砲台」~昭和の巨砲~
昭和4年起工、昭和9年に竣工した豊砲台は鉄筋コンクリート製。長さ18.5メートルの40センチ加農砲が2門装備され、爆撃に耐えられるようコンクリート壁の厚みは2メートル以上。名実ともに世界最大の巨砲でしたが、実戦では一度も砲弾を発射することはなく、昭和20年10月、米軍の爆破班により解体されました。
「豊砲台」世界軍縮会議の結果、廃艦となった軍艦「赤城」の主砲(「長門」「土佐」という説もある)をこの砲台に据えたもので当時は世界最大の巨砲でした。
豊砲台は、実践では一度も発射することがなく、「撃たずの砲台」と言われたりもしますが、第2次大戦時に日本海側の都市に艦砲射撃による被害がなかったのは、対馬要塞の強力な火砲による威圧の効果が大きかったためです。砲台入口まで車で行くことができ、入口の照明スイッチを押すと照明が30分間点灯するため、砲座・砲具庫・巻揚機室などの内部構造を安心して観察することが出来ます。
対馬海峡の防備や朝鮮半島の戦略防衛基地として重要視されていた対馬では、1887年(明治20年)ころから要塞の整備が始まりました。美津島町の竹敷に海軍要港部が置かれ、日露戦争間近の明治34年(1901年)、竹敷から対馬海峡東水道に水雷艇隊などを出撃させるため、万関瀬戸が開削されました。1905年には、日本の太平洋艦隊が、対馬沖を北上するロシアのバルチック艦隊を壊滅させ、日露戦争の帰趨を決することとなります。日本では日本海海戦と呼ばれるこの戦いは、世界では対馬海戦(Battle of Tsushima)と呼ばれています。
日清・日露戦争時から第2次大戦中にかけて、対馬は全島が要塞化されましたが、これらの要塞はほとんど活躍することなく終戦を迎え、戦後の武装解除による破壊を免れた要塞も、今では静かに草木に埋もれつつあります。
「万関橋」明治後期、南下政策をとるロシアとの戦争の機運が高まり、日本海軍は水雷艇を対馬海峡東水道に出撃させるため、明治34年(1901年)、久須保水道(万関瀬戸)を開削しました。明治38年の日露戦争(日本海海戦)では、水雷艇隊が万関瀬戸を通って出撃し、日本の勝利に貢献しました。
ちなみに、万関浦の開削工事は、大成建設の前身・大倉土木組によるものと言われていますが、軍事施設でもあり、図面などはほとんど残されていないようです。この時代を感じさせてくれる遺物としては、万関瀬戸や要塞遺跡以外にも、対馬の道路があげられます。対馬の道路は集落を経由しない場合が多く、これは要塞間を最短距離で結ぶためのようです。
また、上対馬町殿崎・茂木・琴等の住民は、日本海海戦で傷ついて海岸へと漂着した多くのロシア兵を救助し、宿と食料を与えました。日本とロシアの海上での攻防に一喜一憂し、日本の勝利に喝采する一方で、戦争に敗れた敵国の兵隊の命を助けたのは、島人の素朴な人間性の発露だったのでしょうか。
第2次世界大戦 ~プサンの対馬人~
「日本海海戦記念碑・日露友好の碑」殿崎には、撃沈されたヴラジーミル・モノマフ号の水兵143名が上陸しています。農婦たちはこの敗残兵を水の湧き出す泉へ案内し、民家へ分宿させるなど手厚くもてなしました。石碑の題字「恩海義キョウ」(キョウは山+喬)は、連合艦隊司令官・東郷平八郎の揮毫。
19世紀末の李氏朝鮮は、国内の権力抗争が激化し、それに李朝の宗主国である清、南下政策をとるロシア、朝鮮半島を国防の拠点の一つと考える日本の勢力が絡み合う複雑な政治情勢でした。やがて、日清戦争・日露戦争に勝利した日本が朝鮮半島の保護国化を押し進め、1909年、当初日韓併合に反対していた元老・伊藤博文が朝鮮人青年・安重根によって暗殺されると、初代首相である伊藤が暗殺されたことで国内世論も韓国併合に大きく傾き、翌年には朝鮮半島の併合が行われました。1945年の終戦まで、朝鮮半島は日本の統治下に置かれることになります。
日韓併合時、プサンには多くの対馬人が滞在していました。対馬北部の佐須奈湾から手漕ぎ船でプサンの歯医者に行った、髪を切りに行った、映画を見に行った、という話も聞きます。対馬縦貫道が全線開通するのは1968年(昭和43年)のことであり、大戦中は対馬北部から対馬南部へ行くよりも、対馬北部からプサンに渡るほうが時間がかからなかったのです。
珠丸の悲劇
「住吉神社の浮遊機雷 」 日露戦争後、海軍から戦勝記念に贈呈されたという鉄製の機雷。ロシア艦の侵入を防ぐため敷設されました。
第二次大戦が終結した1945年の10月14日、対馬海峡でひとつの悲劇が起きました。大戦中の銃爆撃や機雷の難を奇跡的に逃れ続けていた九州郵船の旅客船・珠丸(たままる。800トン。釜山~対馬~博多経路)が触雷・沈没し、545名を超える尊い人命が失われたのです。10月14日は連合軍による渡航差し止めが初めて解かれた日であり、珠丸には朝鮮半島・大陸からの引揚者・復員軍人等がひしめいていました。名簿には730名の乗船者が記録されていますが、帰国を急ぐあまり切符を持たない割り込み乗船者も多く、現在でも正確な人数はわかっていません。当時の日本海峡には、旧日本軍によって数千個の機雷が敷設されており、船室内にいた女性や子どもの多くが犠牲となりました。
平成3年、航海の安全と恒久平和への祈りを込め、対馬歴史民俗資料館横に珠丸犠牲者の慰霊塔が建立されました。
宮本常一 ~忘れられた日本人~
「赤米」豆酘(つつ)は対馬の南の端に位置しています。ここには稲の原生種といわれる赤米の穀霊を神として祀(まつ)る行事が一年を通じて行われています。中でも最も重要な神事が「頭受け神事」です。すべての神事を取り仕切る頭仲間と呼ばれている集団があり、御神体の赤米が前年の頭主(とうしゅ)の家から次の頭主の家へと「神渡り」するのです。本座の中央に吊られた神の俵を降ろし、「お守り申す」役の背中に乗せられ、深夜、神様がお渡りして行きます。その為、毎年旧暦1月10日の深夜に多久頭魂神社(たくづだまじんじゃ)にて行われています。御神体は再び天井から吊るされ、豊作を祈願する「受取り渡し」の儀式が行われます。
赤米の頭受け神事(厳原町)
「矢立山古墳」長崎県対馬市厳原(いずはら)町にある古墳群で対馬の西海岸、小茂田(こもだ)の集落に注ぐ佐須川の右岸にあります。1号墳は東西5.2m、南北4.5m、高さ2.4mの墳丘に貼り石をほどこした3段築成の方墳。埋葬施設は長さ4.8mの横穴式石室で、金銅装大刀、木棺に使用された鉄釘、須恵器(すえき)片などが出土されており、2号墳は東西8.8m、南北10.5m、高さは2.5mを超える墳丘に貼り石をもつ3段築成の長方形墳で、T字形を呈する横穴式石室が特徴的です。出土遺物は金銅装大刀、銅椀、須惠器の長頸壺などです。2001年(平成13)に発見された3号墳は積み石塚で、段築は確認されていません。埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、鉄刀、鉄鏃(てつぞく)、土器類などが出土されています。この古墳群は7世紀前半から終末にかけて営まれ、新たに発見された3号墳は1・2号墳よりも後の築造で、規模や構造などにおいて様相を異にしていることが明らかになりました。1976年(昭和51)に1号・2号墳が矢立山古墳として国の史跡に指定されたが、3号墳が発見され、2005年(平成17)に追加指定されて、古墳群と名称変更されました。
「和多都美神社」平安時代(10世紀)に編纂された「延喜式」神名帳は、当時「官社」とされていた神社の一覧です。神名帳に記載された神社を「式内社」(延喜式内社)と呼び、古くから朝廷に認められた神社として、一種の社格になっています。 西海道(九州)全体で107の式内社が名を連ねていますが、そのうち対馬は九州最多の29社を誇り、2位の壱岐の24社を加えると、2島で約半分を占めています。対馬・壱岐は、神道の源流のひとつといえる島々なのです。 対馬には多くの神々が鎮座していますが、特に重要視されてきたのが、海神の娘・豊玉(とよたま)姫と、神功(じんぐう)皇后です。豊玉姫は「古事記」の海幸山幸伝承に登場する女神で、初代天皇である神武天皇の祖母にあたります。航海守護・安産・豊漁などの庶民にも身近な神徳があり、島民に親しまれてきました。 一方、神功皇后は懐妊したまま三韓(朝鮮)征伐を行ったとされる勇ましい女神で、子の応神天皇とともに「八幡神」として全国の八幡神社に祭られています。神功皇后は九州北部に縁の深い女神であり、対馬にもたくさんの伝承地があります。 豊玉姫は外国への航海(交流)の守護神、神功皇后は外国から国土を守る女神であり、これはそのまま対馬の二面性(交流と国防の最前線)を表しています。
「和多都美神社古式大祭」 女性が舞う最古の神楽といわれる「命婦の舞」が奉納され、手漕ぎの和船による「舟ぐろう競争」、演芸、奉納相撲、餅まきなど。
対馬の民俗に興味をお持ちの方は、民俗学の巨人・宮本常一の「私の日本地図15 壱岐・対馬紀行」がおすすめ。
戦後間もない昭和25年、26年、縦貫道整備が進んでいった37~38年、そして川端の柳が切られ、川で洗濯する女性や子どもたちの姿が見られなくなっていった昭和49年ころの貴重な写真と記録が満載です。
終戦まで長年にわたり要塞化され、開発が抑制されていた対馬は、古い民俗や文化の宝庫でした。朝鮮戦争が始まった1950年、民俗学者・宮本常一らの八学会連合(翌年から九学会連合)による対馬総合調査が行われ、宮本は対馬全島を歩き、古老の話を聞き、古文書を書き写し、写真を撮影しました。
代表作「失われた日本人」に収録されている「梶田富五郎翁」の舞台である厳原町・浅藻(あざも)は、明治初年までほとんど人の住まない土地(天童法師信仰の聖地・八丁郭がある)でしたが、明治10年ごろに大島郡久賀浦(現・山口県周防大島町)の漁民が住み着き、続いて沖家室島(現・山口県周防大島町)の漁民が住み着きます。久賀の漁民達は、干潮時に海に潜って海底の岩に縄を結びつけ、満潮時に船の浮力を利用して岩を海底から持ち上げて沖に捨てるという方法で港を整備していきます。1回の干潮・満潮で1つの石を運ぶことしかできず、大波によって捨てた岩が岸に押し寄せたこともあり、それは気の遠くなるような作業でした。その後、浅藻は鯛や鰤の漁港として大きな賑わいを見せることになります。
それから約100年。現在の浅藻は過疎が進み、小学校も廃校となり、静かな漁村に姿を変えています。また、本土と離島の格差に胸を痛めた宮本常一の奔走によって離島振興法が策定され、対馬島内のハード整備は進みましたが(宮本の思いとは裏腹に)、それによって失われた自然環境や歴史的風景も多かったのも事実です。
昭和20~30年代 ~サバ漁・イカ漁・パルプ景気~
「白岳」白嶽は、石英斑岩の双耳峰が特徴的な対馬のシンボル的な山です。大陸系植物と日本系植物が混生する独自の生態系により国の天然記念物に指定されており、山頂からは360度のパノラマを楽しむことができます。
山頂までの往復は3~4時間ですが、山頂付近は岩盤がむき出しの急傾斜であり、登り・下りどちらもかなり個人差が生じます。
「城山(金田城跡)」7世紀に築かれた石塁(城壁)や日露戦争時代の砲台跡がよい状態で残されています。また、ゲンカイツツジやヤマボウシ、カギカズラ、ダンギクなどの植物観察も楽しめ、山頂からは防人も見たであろう水平線が一望でき、気象条件がよければ朝鮮半島の影も見えるなど、国境の島・対馬の自然・歴史・景観の魅力が凝縮されたイチオシのスポットです。 登山道は、明治時代に造成された軍道を利用しており、山頂近くまでなだらかで歩きやすいです。古代山城を海から見るという貴重な体験ができるシーカヤックツアーもある。
「 有明山」有明山は古くは「対馬の峰」と呼ばれ、万葉集にも謡われた名山です。
~対馬の峰は下雲あらなう 上の峰にたなびく雲を 見つつ偲はも~
「清水山からの眺め」 清水山城は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、唐津の名護屋城から釜山へ侵攻するための兵站線のひとつとして築かれた山城。三の丸からは厳原市街・厳原港が一望できます。
昭和20年~30年代は、戦後の対馬がもっとも賑わった時代でもありました。対馬近海は西日本屈指の漁場であり、瀬戸内海などからも大量の漁船がやってきました。厳原には銭湯がいくつも営業し、飲み屋が軒を連ね、博多税関が持て余していた高価な舶来タバコが数時間で売り切れたといいます。
また、対馬の山に手付かずで残されていた木材も大きな富を生みました。大手の製紙会社が対馬の木材をパルプ用に買い上げ、その利益はサバ漁の利益を凌ぐほどでした。
やがて、対馬の森のほとんどが刈られ、現在は伐採後の二次林と桧(ひのき)の植林が多く、原生林が残っているのは竜良山や白岳、御岳などの聖地や社寺林のみとなりました。
そして現在 ~自然・歴史・国際交流・観光の島として~
シーカヤック体験
シーカヤック
「美津島海水浴場」透明度抜群です。是非対馬へ!
「三宇田浜」日本の渚百選。近くに温泉「渚の湯」あり。風光明媚。
「対馬 厳原港まつり」江戸時代に対馬藩が大きな役割を果たしていた国家的イベント「朝鮮通信使」の行列を再現したパレード、舟グロー(和船による競争)、納涼花火大会、子供みこし、歌謡ショー、よさこいなどが開催されます。
「厳原港まつり対馬アリラン祭」対馬で最も規模の大きい日韓交流イベントです。 江戸時代に朝鮮国から派遣されていた外交使節団・朝鮮通信使行列の再現をメインに、歴史探訪ツアー、舟グロー大会、韓国舞踊、歌謡ショー、納涼花火大会などが開催されます。
河内酒造の地酒
どんこ椎茸(対馬産の椎茸はかさの肉が分厚いのが特徴)
対馬産椎茸の原木
基幹産業である漁業の不振と公共事業の削減という厳しい情勢のなか、ようやく対馬でも「開発か自然・歴史保護か」という二者択一ではなく、対馬の自然・歴史を活かした地域振興が模索されるようになりました。江戸時代の朝鮮通信使行列の再現パレードや、国境マラソンやパラグライディング大会などのスポーツイベント、対馬の中央に広がる浅茅湾でのシーカヤック体験ツアーなどが人気を集めています。
観光情報館ふれあい処つしま(一般社団法人 対馬観光物産協会)
対馬市厳原町の中心部にある対馬の観光物産情報の発信拠点で、一般社団法人 対馬観光物産協会が運営しています。
対馬の自然や地形、観光地や歴史の解説展示、観光パンフレット(地図)や、下記「対馬トレッキングガイドブック」などの配布、観光情報の提供などを行っています。
まずはお気軽にお問い合わせください。
鎹八咫烏 記
協力(順不同・敬称略)
(一社)対馬観光物産協会 〒817-0021 長崎県対馬市厳原町今屋敷672番地1
観光情報館ふれあい処つしま
TEL 0920-52-1566 / FAX 0920-52-1585
営業時間 8:45-17:30 休業日12/29~1/3
(一社)長崎県観光連盟 長崎県文化観光国際部観光振興課
〒850-0035 長崎市元船町14-10 橋本商会ビル8階 TEL.095-822-9690
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