元伊勢 籠神社
天照大神・伊射奈岐大神・伊射奈美大神「磐座」
元伊勢とは
伊勢神宮は大小のお社を併せて125社から構成されていますが、 その中心となるのは天照大神をお祀りする皇大神宮(内宮)と豊受大神をお祀りする豊受大神宮です。両大神は初めから伊勢の地でお祀りされていた神ではなく、他の場所から伊勢へお遷しされました。その起源を繙くと、天照大神は第十代崇神天皇六年の八月まで宮中でお祀りされていましたが、同年九月に皇女豊鋤入姫命によって初めて宮中の外でお祀りされることになりました。その後豊鋤入姫命は天照大神の御心に叶う御鎮座地を求め各地を御巡幸されましたが、途中で第十一代垂仁天皇の皇女倭姫命にその任務をお引き継ぎになり、最終的には倭姫命が伊勢の地に皇大神宮を創祀されました。 「元伊勢」とは、天照大神が宮中を出られてから伊勢の五十鈴川の河上に御鎮座されるまで皇女が天照大神の籠もられた御神鏡をお持ちになって各地を御巡幸になり、一時的に天照大神をお祀りした二十数カ所の宮々のことを云います。 また、それとは別に雄略天皇の御代に天照大神のお告げによって丹波国(現在の丹後)の与佐(よさ)の小見(おみ)の比沼(ひぬ)の魚井原(まないはら)にいる丹波道主(たにわのみちぬし)の娘・八乎止女(やおとめ)のお祀りする豊受大神が天照大神の食事を司る神として伊勢に迎えられました。この丹波の魚井原で豊受大神をお祀りしていたお宮のことも「元伊勢」と云います。「海部家は豊受大神を祀った彦火明命の血脈であり、丹波道主の子孫にも当たり、また海部家の直系の女性が「八乎止女」を襲名し、豊受大神をお祀りしていたことが伝えられています。」つまり、雄略天皇の御代、「丹波国の丹波道主の娘の八乎止女が祀っていた豊受大神」とは、奥宮真名井神社(古称 吉佐宮)の豊受大神であり、「元伊勢」としての由緒が明らかとなっています。 他にも「元伊勢」伝承を有する神社はありますが、天照大神・豊受大神をその血脈の子孫が宮司家となって一緒にお祀りしたのは籠神社だけで、特別の「元伊勢」として崇敬され続けています。
神話と伝説
1.丹後の真名井神社(籠神社奥宮)から伊勢神宮への御鎮座神話
吉佐宮(眞名井神社 元伊勢籠神社)
天照大神御鎮座神話
祈る皇女「斎王」
第十代崇神天皇六年まで、宮中でお祀りされていた天照大神は、皇女豊鍬入姫命に託され宮中の外にお祀りされることになりました。最初にお祀りされた場所は倭国の笠縫邑です。その次、崇神天皇三十九年に天照大神と豊受大神をご一緒にお祀りしたのが当社奥宮真名井神社(古称 吉佐宮)です。その後豊鍬入姫命は各地を巡られましたが垂仁天皇の皇女である倭姫命に引き継がれ、垂仁天皇二十六年九月に倭姫命が伊勢の地に神宮(内宮)をご創祀になりました。倭姫命の母神は比婆須比売命(ひばすひめのみこと)と申し、当社海部家の直系子孫であり、垂仁天皇の皇后に上がられました。そのため倭姫命は海部家の外孫に当たられます。丹後(『古事記』の時代は丹波国)と大和の血を引く倭姫命が天照大神を伊勢までお遷しになったという伝承は大変意味深いことと云えます。
斎宮
竹の都 斎宮(さいくう)。それは、天皇に代わり、伊勢神宮の天照大神に仕える斎王の住まう所であった。そこは碁盤の目状に道路が走り、木々が植えられ、伊勢神宮の社殿と同じく清楚な建物が100棟以上も建ち並ぶ整然とした都市で、そこには斎宮寮を運営する官人や斎王に仕える女官、雑用係などあわせて500人以上もの人々が起居し、当時の地方都市としては『遠の朝廷(とおのみかど)』と呼ばれた九州の太宰府に次ぐ規模を持っていたのである。また、斎王を中心とした都市であることから、斎宮では貝合や和歌など都ぶりな遊びが催された。また、都との往来もあり、近隣の国からさまざまな物資が集まるこの地方の文化の拠点でもあったと考えられる。
豊受大神御鎮座神話
斎王の群行
天照大神を祀るため、伊勢神宮の手前15㌔位の所(明和町)に造られた斎王の「斎宮」
天照大神が伊勢に御鎮座になってからおよそ四百八十年後の雄略天皇の御代に、倭姫命の夢に天照大神が現れになり、「皇大神、吾、天之少宮に坐しし如く、天の下にしても一所に坐さずは御饌も安く聞こし食さず、丹波国の與佐の小見の比沼の魚井原(まないはら)に坐す道主(丹波道主)の子、八乎止女の斎奉る御饌津神止由居太神を我が坐す国へ坐さしめむと欲す」と告げられました。それにより、明年の七月七日、大佐々命や興魂命、丹波道主の子孫など多くの神々が丹波国与謝郡(現・宮津市)までお迎えに見え、雄略天皇二十二年(四七八)に伊勢にお遷りになりました。その際、倭姫命も伊勢からお見えになり、真名井原の藤岡山(当宮奥宮真名井神社が鎮座する山)にある磐座の傍らに湧き出る天の真名井の水を伊勢の藤岡山の麓にある伊勢神宮外宮の上御井神社の井戸に遷されたと伝えられています。
2.伊勢神宮の酒殿明神となった与謝宮の天女伝説
神代の昔、八人の天女が真名井神社の神域に舞い降り、粉河(こかわ)と呼ばれる川(当社奥宮の横の真名井川)でお酒を造っていました。その時、塩土翁(しおつちのおきな)が天女に欲を出し、一人の天女の羽衣を隠してしまい、天女は天に帰れなくなりました。そのため、しばらく翁と夫婦となり、この地で酒造りに精を出しました。天女はいつも光を放ちながら空を飛び、その光景はまるで鳥籠から光を放っているようでした。与謝郡に豊受大神を祀る与謝宮(よさのみや)が造られ、この天女が豊受大神をお祀りしました。籠から光を放つことから与謝宮は籠宮(このみや)とも呼ばれました。この天女は食べ物を天からたくさん降らせました。そしてこの天女は丹波の与謝宮から伊勢神宮の所管社である御酒殿(みさかどの)の守護神・醸造神として勧請されました。これが日本酒の始まりとなりました。
3.天橋立起源神話
神代の昔、国生みをなさった男神伊射奈岐命(いざなぎのみこと)が、地上の真名井原(奥宮真名井神社の鎮座地)の磐座(いわくら)に祀られていた女神伊射奈美命(いざなみのみこと)のもとに通うため、天から大きな梯子(はしご)を地上に立て懸け通われました。ところが、伊射奈岐命が寝ていらっしゃる間に、一夜にして梯子が倒れてしまい、それが天橋立となったと伝えられています。
4.狛犬伝説
社頭の狛犬二基は鎌倉時代の名作として重要文化財に指定されています。その昔、作者の魂が狛犬にこもり、石の狛犬が天橋立に暴れ出て通行人を驚かしたので、たまたま仇討ちに来ていた豪傑岩見重太郎が一夜待ち伏せ、剛刀で狛犬の脚に一太刀浴びせたところ、それ以来社頭に還り事無きを得て、爾来魔除けの狛犬と云われて霊験があらたかになったと伝えられています。
籠神社周辺の遺跡
産土山古墳の長持形石棺(京丹後)
丹後国の面積はさほど広くありませんが、大小の墳墓や古墳を数えると五千基ほどあります。これは墳墓・古墳の密集度という視点から云えば、丹後は密集度日本一に属します。奥宮真名井神社や本宮籠神社の周りには沢山の遺跡があり、貴重な考古資料が発掘されています。真名井神社では縄文時代の磨製石斧や磨石、弥生時代の祭祀土器や勾玉、日常用の土器、鎌倉時代の経筒などが発掘されています。また、籠神社では古墳時代の土師器や須恵器、平安時代の 祭祀土器、鎌倉時代の経筒、経石が発掘されています。 真名井神社のある藤岡山の麓では、弥生時代中期の王墓である丹後特有の方形貼石墓が発見されました。紀元前一世紀頃、若狭湾の航海権を掌握し、真名井神社の磐座で祭祀を執り行っていた海人族の王の墓かもしれません。また、その近くで古墳時代の水辺の祭祀遺構(難波野遺跡)が発見されました。土器が「コ」の字状に配列され、ミニチュア土器の散乱状況から北東の日本海に向けての祭祀が考えられます。その延長線上には籠神社主祭神とその后神が降臨された当神社の海の奥宮である冠島があります。冠島は真名井神社・籠神社・難波野遺跡から見ると、艮(うしとら)の方位にあたり、 一方、真名井神社・籠神社・難波野遺跡は冠島から見ると、坤(ひつじさる)の方角になります。表鬼門と裏鬼門の関係になります。 周辺の遺跡や発掘された考古資料から、天橋立北浜の一帯は古代から祭祀が行われた特別な聖地であったと考えられています。
海部直・丹波国造・海部家始祖
籠神社の宮司家は古来「海部直(あまべのあたえ)」と呼ばれ、古代より世襲制で「丹波国造」の伝統を持ち、現当主は八十二代目に当たり、神社の始まり(創祀)から連綿として御祭神の血脈一系で奉仕しています。「海部(あまべ)」とは、応神天皇の五年に定められた部民の一つで、漁労を行う「部」と云う意味ではなく、大和朝廷の臣下となり、朝廷に海産物の貢納と航海技術を以て奉仕した「部」を云います。また、「直(あたえ)」とは、大王より地方豪族に与えられた政治的地位の姓(かばね)のことを云いますので、「海部直」を賜ったことは大和朝廷と密接な関係にあったことを意味します。
「海部直」の姓は応神天皇から賜ったものです。また「海部直」は「丹波直」と「但馬直」とを兼ねていました。
「丹波国造」の「国造」とは、大和朝廷の区分した、ある領域(国)を統治するために大和朝廷から任命された地方の有力首長のことを云います。大化改新前の国造はその統治する領域の、政治と祭祀の両方を司る権力を与えられましたので、その国の統治者(王)であり、祭祀王でもあったのです。
「丹波」とは、国名で丹波国造が統治していた国の名称です。籠神社のある丹後国は713年に旧丹波国から五郡を割き建国されましたので、ここで云う「丹波」とは、旧丹波国を指し、現在で云うと京都府の中部・北部そして兵庫県の一部を指します。
海部家の始祖は天照大神の孫神である邇邇芸命(ににぎのみこと)の兄神に当たられる彦火明命(ひこほあかりのみこと)という神様です。彦火明命は籠神社の主祭神でもあり、天祖から御神鏡を賜り豊受大神を創祀した神様でもあります。
皇室の祖先神である邇邇芸命は天照大神から、天照大神の籠もられた御神鏡を賜り九州に天降られましたが、彦火明命は天祖から、豊受大神の籠もられた御神鏡を賜り丹後に天降られたと伝えられています。皇室の祖先神である邇邇芸命は天照大神をお祀りになり、一方籠神社海部家の祖先神である彦火明命は豊受大神をお祀りになったと伝えられています。彦火明命には二方(ふたかた)の后があり、一方(ひとかた)は大己貴神の女(むすめ)である天道日女命(あめのみちひめのみこと)です。もう一方(ひとかた)は俗に「宗像三女神」と呼ばれている神の一方(ひとかた)で市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)です。
海部家と海人族(あまぞく)
籠神社海部家は弥生時代においては若狭湾の航海権を統率する海人族の首長であったと云われています。真名井神社と天橋立の付け根の間にある平地には丹後最大級の弥生墳墓(紀元前一世紀頃)が営まれ、海人族の王墓であったと考えられています。若狭湾沿岸の鳥浜貝塚では、今から六千年前の長さ六メートルある日本最古の丸木舟が出土しています。同じく若狭湾沿岸にある舞鶴市(宮津市の隣)の浦入遺跡でも同時代の丸木船が出土しています。こちらの丸木船は長さ八メートルあり、同時代の丸木舟と比べると特別に大きいため外洋航海用と考えられています。つまり、若狭湾一帯は縄文時代から航海技術をもった海人族の拠点であり、漁労のみならず広域的な海上交易の要衝港であったと考えられます。漁労・航海・交易には危険が伴います。天橋立北側の真名井原に住んでいた海人族は食物獲得・航海安全などを祈り、磐座や水辺で太陽神・月神・火の神・水の神・雷神・海神・風神などの御魂を鎮める祭祀を行い、更に近海遠海の航海交渉や防衛を担いながら、大陸からの文化や技術を導入していたのかもしれません。
天村雲令
天村雲命(あめのむらくものみこと)は、海部家三代目の祖先です。この神の父神は、始祖である彦火明命と大己貴神の女(むすめ)である天道日女命との間に生まれた「天香語山命(あめのかごやまのみこと)」です。また母神は、始祖である彦火明命と市杵嶋姫命との間に生まれた「穂屋姫命」です。天村雲命は日向国にいた時に阿俾良依姫命(あひらよりひめのみこと)を后とし、丹波にいる時は伊加里姫命(いかりひめのみこと)を后とされました。 鎌倉時代に伊勢の外宮の神主によって書かれた書物によると、天村雲命は邇邇芸命が天照大神の籠もられた御神鏡を持って天降られた時、その前に立ってお仕え申し上げた神様です。天村雲命は邇邇芸命の命令によって天御中主神のもとに行くと、天忍石(あめのおしいわ)の長井の水(神々が高天原で使われている水)を汲んで琥珀の鉢に八盛りにし、天照大神の御饌(みけ)としてお供えするように、また残った水は人間界の水に注ぎ軟らかくして朝夕の御饌としてお供えするよう」命じられました。天村雲命はこの水を日向の高千穂の御井にお遷しになり、その後丹波の魚井(まない)の石井(当社奥宮の「天の真名井」の泉)にお遷しなった後、雄略天皇の御代、当社奥宮の「天の真名井」から伊勢外宮の豊受大神宮の御井にお遷しになったと伝えられています。 それ以来この御霊水は皇大神宮と豊受大神宮二所の朝の大御饌夕の大御饌として千五百年以上絶えること無くお供えされています。
倭宿禰命
倭宿禰命(やまとすくねのみこと)は海部家四代目の祖先です。もとは「珍彦(うづひこ)」・「椎根津彦(しいねづひこ)」・「神知津彦(かんしりつひこ)」・「槁根津日子(さおねづひこ)」と呼ばれていましたが、神武天皇東遷の途次、明石海峡(速吸門)に亀に乗って現れ、神武天皇を先導して浪速、河内、大和へと進み、幾多の献策により天皇を無事に大和へと導いた大和建国第一の功労者として、神武天皇から「倭宿禰」の称号を賜りました。倭宿禰命(やまとすくねのみこと)は倭国造であり、大倭国造の祖・大倭直の祖でもあります。
倭宿禰命は大和の国で「倭大国魂神(纆向遺跡の近くにある現在の大和神社)」をお祀り申し上げました。また倭宿禰命の子孫は播磨国で「明石国造」を累代名乗りました。
倭姫命
倭姫命は垂仁天皇と比婆須比売命(ひばすひめのみこと)との間にお生まれになった皇女です。伊勢神宮内宮と外宮を創祀され、三節祭を始めとする年中行事や神地・神戸・物忌(神職)等さまざまな決まり事を定められました。
倭姫命の母である比婆須比売命は丹波国(現・丹後国)出身で、丹波道主命(たにわのみちぬしのみこと)と河上摩須郎女(かわかみのますいらつめ)との間にお生まれになった四姉妹(『古事記・日本書紀』の中に二姉妹・三姉妹・五姉妹等の異説がある)です。比婆須比売命の姉妹は全て垂仁天皇の后に上がられ、皇后となったのは比婆須比売命です。比婆須比売命は籠神社海部家の直系子孫と伝えられているので、倭姫命は海部家の外孫に当たられます。
倭と丹波(旧丹後)の血を引く倭姫命が皇室の祭祀する天照大神と籠神社海部家の祭祀する豊受大神を伊勢にお鎮めになったことは大変意味深いことです。
倭姫命は幾つかの教訓を遺されました。
空海と真井御前
空海(弘法大師)は籠神社世襲宮司家の三十一代当主海部直雄豊の娘である厳子姫との間に神秘的な物語が伝えられています。厳子姫は十歳の時に京都頂法寺の六角堂に入り、如意輪の教えに帰依し修行を積み、二十歳の時、まだ皇太子であられた大伴皇子(後の淳和天皇)に天性の美しさを見初められ、二年後即位された後第四妃として迎えられ、名前を故郷に因んで真井御前(まないごぜん)の名のりを戴き、淳和天皇の寵愛を一身に集めました。そのため女官たちの嫉妬に遭い、宮中を出て西宮の如意輪摩尼峰に神呪寺(甲山大師)を建立しました。この年、真井御前は空海を甲山に迎え如意輪の秘法を修し、二年後の二十八歳の時に如意輪像を造ろうとされた空海が大きな桜の樹を選び、その生き姿を彫刻されました。真井御前は三十三歳の時に師空海の坐す高野山に向かって如意輪観音の真言を誦しながら遷化しました。その翌日空海は真井御前の後を追うように六十二歳で入定されたのです。
画僧雪舟
国宝「天橋立図」(室町時代)京都国立博物館蔵
神仏習合時代の当社境内には四十八の坊(僧侶の居所・小寺院)があったと伝えられています。室町時代の画僧雪舟が現在国宝となっている『天橋立図』を画くため、当地を訪れたときにはこの四十八坊の一つか或いは籠神社海部家に泊まり、作品を制作していたと考えられています。
詳しくは籠神社図録『元伊勢の秘宝と海部氏系図 -改訂増補版-』に収載されています。
続く・・・
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
協力(順不同)
丹後一宮 元伊勢 籠神社
〒629-2242 京都府宮津市字大垣430 TEL 0772-27-0006 FAX 0772-27-1582
文化庁 〒100-8959 東京都千代田区霞が関3丁目2番2号 電話番号(代表) 03(5253)4111
天橋立観光協会
〒626-0001 京都府宮津市字文珠314番地の2
天橋立ターミナルセンター丹後観光情報センター内
[TEL] 0772-22-8030
三重県 明和町役場 〒515-0332 三重県多気郡明和町大字馬之上945
電話番号:0596-52-7111
補足資料
【大淀】倭姫命が天照大神の鎮座場所を探し求めこの地にたどり着いたとされる。
古代の多くの歌に「枕詞」としても使われた景勝地。
斎王とは?
斎王(さいおう)…それは、天皇に代わって伊勢神宮の天照大神に仕えるために選ばれた、未婚の皇族女性のことである。歴史に見られる斎王制度は、天武二年(674)、壬申(じんしん)の乱に勝利した天武天皇が、勝利を祈願した天照大神に感謝し、大来皇女(おおくのひめみこ)を神に仕える御杖代(みつえしろ)として伊勢に遣わしたことに始まる。
以来、斎王制度は660年以上にわたって続き、60人以上の斎王が存在した。伝説は、伊勢に天照大神を祀った倭姫命(やまとひめのみこと)など、さらに多くの斎王の物語を伝える。
制度が確立して以降の斎王は、卜定(ぼくじょう)という占いで選ばれ、斎王群行と呼ばれる五泊六日の旅を経て伊勢へと赴いた。その任が解かれるのは、主に天皇が代わったときのみ。年に三度、伊勢神宮に赴く以外は、一年のほとんどを斎宮で過ごし、神々を祀る日々を送っていた。また、神に仕える身ゆえに恋をすることも許されず、伝説に語られる斎王の中には己の命を絶って身の潔白を証明した哀しい斎王や、恋ゆえに斎王を解任されたり、恋人と引き裂かれたりした斎王もいたのである…。
斎王の群行と退下
天皇は未婚の内親王、あるいは女王の中から占いで斎王を決めます。斎王に任命されると宮中の初斎院と都の郊外にある野宮で精進潔斎したのち、3年目の秋、伊勢の斎宮へ5泊6日をかけて群行しました。
斎王の解任(退下)は天皇の譲位、死去、近親者の喪などによるとされ、帰路は、天皇の譲位の時は群行路をたどり、その他凶事の時は図のように同じ路をたどることはできないとされています。
歴代斎王一覧
伝説の時代の斎王
伝説と歴史が伝える斎王の数は74名。 このコーナーでは、各斎王の名前、概略、卜定された年、年齢などを一覧表でご紹介します。 それぞれの斎王のデータの向こうに、絡み合う歴史の流れが見えてくるでしょうか…。
斎王と女官
伝説の時代の斎王
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