犬山祭担い手の皆さんの声
犬山祭の歴史
犬山祭は、犬山城の麓に鎮座する針綱神社の祭礼である。
祭りの起源は、1635年まで遡る。
当初は、下本町が馬の塔を、魚屋町が茶摘みの練り物を出していたが、1641年には早くも下本町が車山(犬山では「車山」と書いて「やま」と呼んでいる)に変えて人形からくりを奉納するようになり、江戸中期までには今の犬山祭の原型がほぼできあがっていたものと思われる.。
犬山城築城後、町家中心の城下町であったが、江戸期、成瀬氏入城後は町家を取り囲むように武家屋敷が形成され、現在の町となった。 城主と町衆の関係は良好で、各町内の町代は自治組織の長として領主より若干の扶持を拝領し、祭礼時には帯刀も許された。 各町内は、祭礼の費用を税の名目で徴収した。町衆組織が祭を運営してきた歴史が、現在も町衆の心意気として受け継がれている。 全部で13両の車山とと3つの練り物があり、それぞれが町内単位で管理・運営されている。
針綱神社
御祭神
尾治針名根連命(主祭神、おわりはりなねむらじのみこと)
玉姫命 伊邪那岐命 菊理姫命 大己貴命
建筒草命 建多乎利命 建稲種命 尻調根命(尾綱根命) 大荒田命
御由緒
針綱神社は延喜式神名帳所載の式内社です。太古より犬山の峰(現在の犬山城天守閣付近)に鎮座され、濃尾の総鎮守でありました。
創建年は不明ですが、延喜式に記載されていることから1000年以上この犬山の地に鎮座しています。
先述の通り、古くは現在の犬山城天守閣付近に鎮座していましたが、天文6年(1537年)犬山城築城に際し、白山平(現在地より東方にある山)に遷座、その後の慶長11年(1606年)市内名栗町に遷座されています。そして明治維新の後の明治15年(1882年)、現在の場所に再び遷座されました。過去鎮座された白山平(小島町)と名栗町には犬山祭の際、御神輿が渡御されます。
御神徳
安産、子授け、八方除、厄除、長寿の神として犬山のみならず全国各地から広く崇敬されています。
古くから犬山城城主を始め多くの崇敬を集め、特に織田信長公の叔父"織田信康"公が安産、延命長寿を祈願し手彫りの犬を奉納した事から、安産、子授け、長寿に特にご利益があると言われています。
尾張五社のひとつ
延喜式神明帳所載の式内社で本国貞治本には従一位針綱明神又同元亀本には正一位針綱明神とあり、太古よりこの犬山の峯に鎮座せされ東海鎮護、水産拓殖、五穀 豊饒、厄除、安産、長命の神として古来より神威顕著にして士農工商の崇敬殊に厚く白山大明神と称えられ濃尾の総鎮守でありました。国指定無形民俗文化財の犬山祭は針綱神社の祭礼です。
犬山祭の花形「どんでん」
一般的に「どんでん」というと「どんでん返し」など最後の最後に劇的な逆転、野球でいえば九回裏ツーアウト で3点差で負けている局面をサヨナラ満塁ホームランで逆転するとか、大相撲でいうと俵に足がかかり後がない状況で「うっちゃり」を掛け同体で土俵の外に落ちたように見えるけれども、鼻の差で相手の体が早く落ち(先日の横綱白鵬関の様に、体がない場合は除き)大逆転勝ちをするような時に使われるが、それでは、一体犬山祭の「どんでん」とは、どのようなことなのか? 今日は犬山祭の花形といわれている"どんでん"の所以について、犬山祭保存会の方にご説明いただきす。
「犬山祭の花形といえば"どんでん"。 からくりの奉納を終え、町衆がその団結と力と粋を見せる 最大の見せ場です。 あの数分の間に一体何が行われているか "どんでん"は簡潔にいってしまえば車山(やま)を担いで 方向転換することですが、 一つの町内の全員の気持ちが一つにならないとできないすごいことなのです… 綱割がせわしなく動き回ります… 後見、当番、警固、てこがそれぞれの配置につきます。 全員が一変し、引き締まった真剣な表情…。 綱割が車山を周り、全員の気の緩みがないかを凝視します…。 気の緩みは事故の元です。 お囃子の若い衆と小太鼓が曲を変え皆を奮い立たせます。 合図とともに一気に車山に潜り込むてこ達…。 檄が飛び交い全員に緊張感が走ります…。
相撲の立会いのごとく… 全員の意気があった一瞬を逃すことなく 綱割が声を張り上げる! その刹那… 気合一声と共に、てこは太腿に力を込め一気に膝を伸ばし立ち切ろうと、 舵棒にその持てる力の全てをぶつけます。 と同時に後方のてこらは、前方とは逆に 車山(やま)を地面にねじふせようと胸筋に力を込めます… そのまま抑え込んだ状態で車山(やま)を反転させた後 グイグイと前へと押し込み出します…。 ゆらりと車山(やま)が左右にブレる…。 進む道は決して平坦ではありません。 道路脇に向かってかまぼこのように湾曲していたり、 わだちなどの微妙な段差に流されます。 ほんの少しのことで車山(やま)は左右に揺られ流れて行く…。 また、道のほんの数ミリの小さな段差や、 放置されたゴミなどにてこの足が取られることもあります。 この時、担ぎ上げているてこ達は、 車山がどう回転し、 どちらの方向にどれだけ進んでいるか全くわかりません。 そのため後方と両車輪では、 前方のてこ達の状況や、車山(やま)のほんの微妙なブレを感じながら 舵を取りつつ、押し込む速度を調節します。 まさに阿吽の呼吸と信頼関係の技です。
てこ達のまっすぐ立ち切った腰が徐々に揺れ出し、 苦悶に顔が歪みだす… その異変を逃さず周りの人が折れそうな腰と心を支えます… 一人一人の疲れが徐々に肩にのしかかる… それをみんなでひたすら声を出し合い、支え合います。 綱割は皆を鼓舞し続けながら叫び続けます。 もっと遠くへ… 若い衆の笛を吹く勢いも強くなり顔は真っ赤に… 子供達はさらに声を張り上げます… 綱割はすべての人の気を把握しながら、 その歩みを止める決断をします。 その決断は、 この人がここで止まれと言うのならここが最高の到達点、 と誰もが思える信頼関係がないと出来得ないものです。 そのどんでんがどうであったにしろ、 どんでん後の皆の表情が、 一年のうちのたった数分間しかない どんでんの素晴らしさを物語っています。 "からくり"からのこの一連の"どんでん" そして町衆、観客それら すべての人々の喜怒哀楽が奉納されているもと 私は思っています。 "どんでん"は力技だけではなしえないという魅力を 少しでもお伝えできていましたら幸いです。 」
実際に、犬山祭の輪に入り、携わられた方でないと語れない。誠に真に迫るご説明ありがとうございました。
さて、 今年の"どんでん"はどんな物語があるのでしょうか…。 全国の皆さん、世界文化遺産に登録された「犬山祭」と「国宝・犬山城」ぜひご自身の眼でご覧ください。
犬山市の風土について
犬山城天守閣からの眺め
犬山市は、愛知県の最北端、名古屋市から北へ約 25km の距離の、濃尾平野の北東部 及び愛岐丘陵の北西端に位置し、北は木曽川を隔てて岐阜県各務原市、坂祝町と接する。 また、東は岐阜県可児市、多治見市、南は愛知県小牧市、春日井市、さらに、西は扶桑 町、大口町と接する。 市東部に位置する城東地区の東半分と池野地区は標高 130~200mの丘陵地帯(愛 岐丘陵)となっており、城東地区の西半分と楽田地区・羽黒地区・犬山地区は標高 30 ~50mの扇状地及び河岸段丘上の台地で平坦地となっている。また、丘陵地帯と平坦地 の中間部は里山となっている。 気候は、温暖な太平洋気候区に属し、最近の年平均気温は約 15℃、年間降雨量は約 1,600mm となっている。 犬山は、古くは稲置(いなぎ)荘と称され、尾張と美濃・飛騨との文化・生活の交流 が行われていた地域であり、江戸時代には、木曽街道の楽田追分から犬山城までをつな ぐ稲置街道と呼ばれる新道が完成し、犬山と名古屋が直結されたことにより人々の往来 で賑わった。集落は主に平坦地である市西部を中心に形成されてきた。 市北西部に位置する犬山地区には犬山城下町が位置し、木曽川を北にのぞむ犬山城を 北端として南へ広がる台地の上に展開している。
犬山祭の華・車山(やま)とからくり
華やかな車山が古い町並みを巡行することで有名な犬山祭は、針網神社の例祭として寛永12年(1635)に始まったと伝えられています。祭りに参加する町内は、犬山城下の針綱神社の氏子域からで、現在は13町内から出される車山のほか、3町内から練り物が出され、計16町内が参加しています。
町内別車山とからくり
縁起の良いエビス、大黒様も登場します
犬山の見どころ
木曽川護岸のプロムナードをのんびりと
また、川沿いを人力車でどうぞ
犬山城の城下町の古い街並みをお楽しみ下さい
犬山城下町で昔懐かしいちんどん屋のパフォーマンス
犬山の温泉は愛知県で一番最初に認可された名湯です。ゆったりと温泉に入りくつろいで、犬山祭は是非、昼夜お楽しみください。
犬山祭担い手の皆さんの声
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」の明和町観光大使
協力
犬山祭保存会 【犬山市文化史料館】:愛知県犬山市犬山北古券8 TEL:0568-62-4802
(一社) 犬山市観光協会 〒484-0086 愛知県犬山市松本町4-21TEL:0568-61-2825
犬山城(国宝) 愛知県犬山市犬山北古券65-2 電話番号 0568-61-1711
(一社) 愛知県観光協会
〒450-0002 名古屋市中村区名駅4-4-38 愛知県産業労働センター1階 TEL 052-581-5788
文化庁〒100-8959 東京都千代田区霞が関3丁目2番2号 電話 03(5253)4111
都築 真:撮影
0コメント