~ 春の宴 ~
屋敷集落と鳥甲山、奥信越の山々。待ちに待った「春の宴」
手前の集落は、屋敷集落です。真っ白い雪に覆われた山は、秋山郷の象徴・鳥甲山です。そして、その右に続く山容は、笠法師山や岩菅山など奥信越の山々です。
源義経が石柱を建て北野神を祀った地
平安時代の学者で政治家であった菅原道真は「学問の神様」としても知られる。その死後菅原道真を祭り、できたのが京都にある北野天満宮。この流れをくむ神社。開基は994年といわれ、菅原道真を祭った天満宮は全国各地にあるが、栄村の北野天満宮はこの地方唯一のもので、合格祈願の神社として人気があります。8月24日・北野天満宮祭礼 夜店が並ぶなど賑わいます。
菅原道真公 束帯天神像
菅原道真(すがわらのみちざね・845~903)は、宇多(うだ)天皇の庇護の下に出世を重ねた結果、昌泰2年(899)に右大臣に昇り詰めます。しかし、左大臣・藤原時平との政争や、道真の出世を妬んだ貴族の反発から、同2年に道真は讒言(ざんげん)により失脚し、大宰府へ左遷され、そのまま延喜3年に歿しました。道真の死後、京には異変が相次ぎ、延長8年(930)に清凉殿が落雷に遭うと、朝廷はじめ人々はこれらを道真の祟りであると恐れました。これ以降、道真は雷神と結びつけられ、天神として信仰されるようになました。(徳川美術館 蔵)
勇ましい甲胄姿は、若き英雄・義経公の在りし日のお姿を彷彿とさせます
(平泉 毛越寺 高館義経堂 蔵)
源義経も眺めたであろう、栄村秋山郷の大自然
古文書によると、この地の北野天満宮の創立は正暦4年(993)にさかのぼり、この年、北野に勧請されたのが始まりとされています。
二百余年後の文治3年(1190)には、源義経が当地を通過する際に、山上の地がすばらしい景色であるとしてそこに石柱を建て、北野神を祀って去ったと伝えられています。その後、文明8年(1467)に社殿を建立し、元禄8年(1694)には御本社と拝殿を再建、文化5年(1808)には御本殿向拝を取り付けたと伝えられています。現在は、3月25日に御戸開き、8月24日に前夜祭、8月25日に大祭、10月25日に御戸閉めが行われています。
源義経・弁慶主従も眺めたであろう、栄村秋山郷の大自然
長野県の最北端に位置する栄村は、人口約2500人。山々に囲まれたこの地域は積雪量が日本一(7m85cm)を記録したこともある日本有数の豪雪地です。村の北部を流れる千曲川沿いの野々海高原や温泉施設には、グリーンシーズンになるとアウトドアを楽しむ人たちの姿が見られます。また、村の南部にそびえる苗場山、鳥甲山には大勢の登山愛好家が訪れます。この両山に挟まれた細長い山峡「秋山郷」は江戸時代の文人鈴木牧之の著した「秋山紀行」で初めて世に紹介されました。いまでも先人の知恵と技を受け継いだ独特の文化が根強く残っており、村の随所で歴史の重みが感じられます。
鳥甲山
村人は冬徒歩はかんじき、しかし観光客にとってはウィンタースポーツに最適の雪質と喜ばれている
鈴木牧之と秋山郷
鈴木牧之は、今から約240年程前の明和7年(1770)、越後の国、魚沼郡塩沢村(現・南魚沼市)に生まれました。
家業は質屋でしたが、縮(ちぢみ)織物や米の仲買も商っていました。
子どもの頃から俳詣・書道・絵画・漢詩などをたしなみ、その才能には非凡なものがあり、たいへん几帳面で堅実な性格でした。
73年の生涯の中で牧之は江戸をはじめ、しばしば各地に旅をしています。その先々で多くの友人を得ており、作家の滝沢馬琴、十返舎一九らと親交があり牧之の生涯に大きな影響を与えました。これらの作家たちの勧めにより、牧之を全国的に有名にした「北越雪譜」や「秋山記行」を著すことができました。
所在地:長野県下水内郡栄村堺小赤沢
小赤沢にある福原家の総本家を1975年に修復し、保存展示。今から230年ほど前に作られた茅葺き、中門造の民家。秋山郷を襲った飢餓の歴史の紹介や、江戸時代後期の住まいの様子が伺えます。
※見学は自由(見学後の電気の消し忘れにご注意ください)
平家落人伝説
秋山は、平家の落人伝説で有名です。文治年間(1185~89)に、平勝秀が源頼朝に敗れ、その一族が草津より逃れて、屋敷村に住みついたと伝えられています。牧之は、上結東の太右衛門老人から平家の落人にまつわる話を聞いています。
小松原の大屋敷跡は、昔、平家の落人がここへ住みついたが、雪がたくさん降るため、大秋山へ移ったという。また、上の原の山の大穴には、大女の妖怪がいて、平家一族の末裔の村長が、退治に行ったところ、名刀の蜥蜴麿(とかげまろ)が鞘から抜け出て、妖怪を真二つに斬り、元の鞘に収まった、と伝えています。また、牧之は、「よくよく考えてみると、平家は、こんな山の中を知ってはいなかっただろうから、秋山の平家は越後にいた城氏であろう」とも述べています。
※参考:同じ刀工によるものなのか?古来より蜥蜴(とかげ)丸と称し、清和源氏の始祖、六孫王源経基により宝珠山 立石寺に奉納。
名称は無名伝舞草
舞草鍛冶は奥州東盤井郡舞草(現一関市)周辺に居住した刀工郡で、文献的には平安期からであるが現存する有名の物は殆ど他に類がない。僅かに鎌倉末期と鑑せられる物で「舞草」とのみ銘する物が現存する。舞草極めの物は、板目が大いに肌立って流れ、注直刃が総体に小沸がついて、匂い口が沈みがちで、一見、再刃物を見る趣の物がある。
(参考) 刀剣要覧 第22版 飯村嘉章 : 著
小赤沢の保存民家
牧之は文政11年(1828) 59歳の時、初めて秋山を訪ねました。
「秋山記行」はこの地の珍しい風俗や習慣などを絵と文章で克明に綴った大変貴重な記録です。書き上がったのは3年後の天保2年(1831)でした。その後、出版依頼した十返舎一九が亡くなり、出版は宙に浮いてしまい、牧之も天保13年(1842)5月、死去(墓は郷里の塩沢町長恩寺に現存)、完成版といわれる「秋山記行」は出版されることがありませんでした。
現在、「秋山記行」と呼ばれるものは、自筆草稿本として現存する資料を指します。復刻本、現代語訳本もそれを元としています。
そして1冊で全てを網羅した「秋山記行」が出版されたのは、昭和37年のことでした。
平家の落人伝説が残る大秋山村跡は、毎年8月15日に屋敷地区の人々が供養しています
平家の落人伝説が残る大秋山村跡は、秋山で最初に人が住みついた場所ともいわれています。天明3年(1783)から始まったいわゆる「天明の大飢饉」によって8軒あった秋山村、八櫃(やびつ)村とともに全滅したといわれています。現在はその8軒の墓石が並び、毎年8月15日に屋敷地区の人々が供養しています。中津渓谷各集落を総称する秋山の名称もこの秋山村に由来しています。
赤沢周辺 屋敷地域から小赤沢集落を眺める
苗場山と小赤沢集落
小赤沢集落と鳥甲山遠望
前倉集落と苗場山遠望(津南町)
屋敷集落遠望
屋敷集落と布岩
屋敷集落と鳥甲山、奥信越の山々
切明温泉周辺
小赤沢周辺
栄村を遠望できる場所
日本ジオパークへの認定を目指していた、新潟県津南町と長野県栄村にまたがる地域で推進している苗場山麓地域は、12月22日に行われた日本ジオパーク委員会の審査を経て、正式に36地域目の日本ジオパークとして認定されました。
秋山郷のシンボル苗場山(標高2145.3m:日本100名山)は長野県と新潟県の県境にまたがるどっしりとした量感の雄大な山。600ヘクタールにおよぶ大 湿原には、大小無数の池塘が水をたたえ、コバケイソウ・チングルマ・ワタスゲ・ドウダンツツジ・ヒメシャクナゲなどの可憐な高山植物が迎えてくれる。
栄村秋山郷の人々
栄村秋山郷の匠
栄村秋山郷の人々~わたしの好きなもの~
栄村秋山郷「物産・特産品」のご紹介
注目
水の沢大水 県道奥志賀公園栄線の途中(道路脇)にあります。残雪が沢沿いに残り、8月下旬まで見ることができます。付近には冷気が漂い、天然のクーラー状態となっています。
火焔型土器は、新潟県内の信濃川沿岸に分布する縄文土器で、その分布の南端が津南町と言われてきた。栄村・長瀬新田遺跡出土の発見は、その分布が志久見川を越えることを示した。
「秋山郷民族資料館」古い民家を一般開放し、最近までつかわれていた生活民具などを展示している。囲炉裏や「つぼら」と呼ばれるゆりかご、雪国独特の生活民具など、一昔前の秋山郷の暮らしぶりがわかります。
※休館日が不定休なため、事前に問い合わせることをおすすめします。
長野県下水内郡栄村大字堺17753 電話 025-767-2192
栄村秋山郷観光協会推薦の「秋山郷を徹底的に満喫コース」
【秋山郷について】
秋山郷(あきやまごう)は、苗場山と鳥甲山に挟まれた細長い道筋、国道405号沿いに点在する12の集落の総称です。秋山郷を訪れるには、無雪期(6月から11月上旬)では、津南町方面から入るルートと志賀高原(野沢温泉)方面から入るルートがあります。有雪期(11月中旬から5月末)には、山岳地帯は雪で交通が遮断されるため、津南方面からのみのルートに限定されます。また、志賀高原ルートは公共交通機関がないため、自家用車などの車(大型バスは不可)での移動に限定されます。津南町~ルートは津南・和山に路線バスがあるため、これらの利用が可能です。ただし、本数が少ないため、秋山郷内での観光は限定的になります。なお、秋山郷の見どころを一通り堪能するためには、最低でも1泊2日の滞在を想定頂けると幸いです。
1日目 (移動所要時間 約3時間 ※見学等に要する時間は含まれていません)
見玉不動尊「見玉山正宝院」天台宗のお寺で、本山は比叡山延暦寺。本尊・不動明王は眼病に特に霊験があり、昔から多くの眼病治癒の逸話が残っている。本堂に続く石段の脇には清流が流れ、夏でも涼しく、爽やかな空気が漂う避暑スポット。
玉不動尊「見玉山正宝院」延命水
猿飛橋 国道405号と逆巻集落を結ぶ橋。中津川渓谷でも最も狭い所でしかも断崖の上に架かっている。
結東(見倉橋)結東集落と見倉集落を結ぶ生活道路。現在は遊歩道となり、中津川渓谷の美しさを堪能できるトレッキングコースとなっている。
西川美和監督作品「ゆれる」の舞台としてオダギリジョー、香川照之、真木よう子が渡った橋でもある。
駐車場→(下り徒歩5分)→見倉橋→(上り徒歩35分)→見倉集落→(徒歩30分)→栃林→(徒歩20分)→風穴⇒(戻り徒歩60分)
国道405号に架かる赤いアーチが印象的。この付近の渓谷は紅葉時、秋山郷位置の絶景とも言われている。
新潟県と長野県の県境に流れる硫黄川が中津川に合流する地点にある蛇淵の滝。(行き 下り徒歩10分、帰り 上り15分)
【蛇淵の滝の伝説】昔、一人の熊取り名人が獲物を追ってこの滝までやってきました。夢中になって川の向こう岸に渡り、ふと振り返ると丸木橋だと思って渡ってきたものは大蛇でした。驚いた熊取り名人はそのときの恐怖を子や孫に語り伝え、滝には近寄らせなかったそうです。
甘酒村跡 天保の飢饉(1833~1836年)により全滅した村の跡。わずか2戸だけの村。
秋山郷の観光案内所。民俗資料室が併設されている。
焼畑農業・マタギの民具などが展示されており、秋山郷の昔の暮らしぶりなどを窺い知ることができる。
立ち寄り温泉。
苗場山登山口に湧く療養温泉。湧出口は無色透明ですが、浴槽内では酸化して赤褐色になっています。効能高い泉質を利用しての健康づくりには最適ですし、登山後の入浴は疲れを癒してくれます。食堂では、郷土料理のお食事や二階での休憩もできます。
秋山郷保存民家
小赤沢にある福原家の総本家を1975年に修復し、保存展示。
今から230年ほど前に作られた茅葺き、中門造の民家。秋山郷を襲った飢餓の歴史の紹介や、江戸時代後期の住まいの様子が伺えます。
※見学は自由(見学後の電気の消し忘れにご注意ください)
※参考 黒駒太子像 部分(山梨県立博物館 蔵)
黒駒太子堂には聖徳太子を描いた二幅の掛け軸が納められています。この掛け軸は秘蔵の品で一般に公開されたのは、最近になってです。それまでは盆と正月にお堂の中に下げられるだけで、村外の者には、なかなか見ることの出来なかった掛け軸です。現在でも、開帳されるのは、盆と正月です。鈴木牧之も小赤沢に宿泊した際、ぜひ拝観したいと願い出ましたが、かなえられませんでした。
昔は、冬期間など死者を寺送りすることが困難であったため、黒駒太子の画像を借りて死者の上を2,3回かざすと、これが引導をわたしたことになり、葬儀を終えることが出来た、と言い伝えられています。
天候によって色が変わると言われている屋敷温泉。
足湯は無料。
宿泊
和山温泉 → 車 15分
栃川温泉 → 車 12分
上野原温泉 → 車 10分
小赤沢 → 車 5分
切明温泉 → 車 20分(和山経由)
2日目(移動所要時間 約2時間 ※見学等に要する時間は含まれていません)
大瀬の滝 苗場山登山道1合目にある滝。
苗場山からの雪解け水が流れてきます。荒々しい岩の間から落下する滝は実に男性的で雄大なスケールです。
天池 白樺などに囲まれた自然にできた池。晴れた日には鳥甲山や白樺などの樹々が写りこみ、絶好の写真ポイント。
上野原温泉 雄大な鳥甲を眺めながら入ることが出来る絶景露天風呂あり。
栃川温泉 白樺林に囲まれた高原地。
和山温泉 苗場山、鳥甲山に抱かれた山峡の秘湯。古くから切傷ややけどによく効く温泉として知られている。
切明温泉 中津川を上流に行ったところに、川原から温泉がこんこんと湧き出ている場所がある。 温泉宿泊施設「雄川閣」からスコップを借りて川を目指そう。 スコップで川を掘り、川の水で湯加減を調節すれば、清流の音を聞きながら自分たちだけの手作りの露天風呂の完成。
大滝 高さ25メートル、幅10メートルの雑魚川の滝の中では最大と言われる大滝。
広い滝口から豪快に落下する姿は、見応えたっぷり。
(行き 下り徒歩20分、帰り上り徒歩30分)
※歩道はぬかるみは足場の悪い所もあります、トレッキングシューズなど汚れてもよい靴が必要。
最後にご紹介するのは、栄村秋山郷の「ミステリー」
春のミステリー(魔法の白い絨毯)
雪国の季節感は春夏秋冬ではなく冬春夏秋の流れ、厳しい冬の始まりから温かい雪解けに移行する時期に生命感を感じる。そのころに起きる、晴天の朝の放射冷却。
雪原は普段かんじき(スノーシュウ)でないと歩行が困難、目的の地まで汗かきで道をつけながら歩く。今でも雪が積もると道路まで出られないので、自分でかんじきで雪を踏みつけ道をつけなければならないところが多々ある。高齢者の家屋などは行政が支援員を用いて道付けをする道ふみ支援員がいるほど。
そこで冷えた春先の朝に起きる温度魔法です。普段のふわふわした雪とは大違い、雪の表面はかたい白いベールに変わっている。そしてかたい雪の表面は人が乗っても一向に破けない。雪に潜ることなく軽快に思いのまま歩けてしまう。まるで魔法にかけられた白い絨毯。招かざるも大人も無限に広がる白い世界に自然に誘われていく。夏でも行けないところに思いのまま飛んでいける喜びは子供たちがよーく知っている。雪国の春の魔法はミステリー、子供と一緒に楽しんでみませんか!
ミステリー(消えた銅山)
むかし、秋山郷では地下資源として秋山銅山の操業時期があった。正徳2年(1712)飯山藩から京都の商人奈里清兵衛が委託される形で開発行為が始まった。2年後の正徳4年には精錬が行われたようだ。しかしながら、豪雪地帯ではその操業も限られた期間であり、箕作村、志久見村、秋山の村々から名主のもとに人足が提供されていた。期間は不明ながら銅山御用人足として425人、他に積雪期に備えて小屋の萱の撤去に25人が働いたという史料がある。銅山の責任者は箕作の島田三左衛門に書状を送って銅山の様子を報告し、又、島田三左衛門は自らの視察も行っていたようだ。鉱山経営は多くの人間が集まることになる。京都の商人、飯山藩の役人、鉱業技術者の他に「越後衆」と呼ばれる出稼ぎ労働者も働いていたようだが、出入りについては飯山藩の役人が押印した手形が必要であり厳重な管理のもとであったらしい。秋山の人々は商人が商品を持ってやって来ても、自宅に泊めることをしない誓約をしてるということは情報の管理も厳重であったようだ。享保3年質の良い銅石が産出されて順調だった鉱山も享保期以降まとまった関係史料は存在せず、ほどなく秋山銅山は密閉されたまま廃絶の道(1718)をたどったようだ。
その後、安永3年(1774)代官臼井吉之丞の時代に、間堀(試掘)が行われた記録があるという。なかば伝説的に幕末の佐久間象山による銅山開発があって、和山集落付近に銅の精錬が行われて痕跡があり、「佐久間屋敷」と呼ばれている場所には多くの鉱滓(スラッグ)あったが、鉱石をどこから運んだかが謎であり、屋敷集落では言い伝えとして、首を切り開け方面に向け言葉は発しなかったという。
佐久間象山は信濃の国松代藩から命じられ、資源調査のために秋山に入った沓野日記が存在する。合わせて切明温泉開発の出来事はあったが、封印された痕跡は秋山郷に今もなお消えた銅山の夢のあととして漂うばかりである。
二回にわたり信州「栄村秋山郷」をご紹介いたしましたが、見どころはまだまだ沢山あります、是非、現地に赴きご自身の眼でご覧になられることをお勧めいたします。
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」の明和町観光大使
協力(順不同・敬称略)
栄村秋山郷観光協会 〒389-2702 長野県下水内郡栄村大字北信3586-4TEL:0269-87-3333
栄村役場 〒389-2792 長野県下水内郡栄村大字北信3433番地 TEL 0269-87-3111
毛越寺 〒029-4102 岩手県西磐井郡平泉町平泉字大沢58 TEL:0191-46-2331
山梨県立博物館 〒406-0801 山梨県笛吹市御坂町成田1501-1
電話:055-261-2631
徳川美術館 〒461-0023 愛知県名古屋市東区徳川町1017電話: 052-935-6262
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