厳原八幡宮神社(いづはらはちまんぐうじんじゃ)
【祭神】 神功皇后 應神天皇 仲哀天皇 姫大神 武内宿禰
対馬(つしま)は、九州本土と朝鮮半島の間に浮かぶ面積約710平方km(属島含む)の大きな島ですが、面積の89%は山地であり、全島が岩がちで、農耕地は1%ほどしかありません。朝鮮半島までの距離は49.5kmしかなく、国境の島と称されています。
魏志倭人伝に「南北に市糴(してき。米を買う=交易を行う)す」と描写された対馬の海洋民は、島の中央に広がる浅茅湾を利用しつつ、航海術を駆使し、大陸と日本列島の間を移動していました。
その活動が日本列島に金属器・文字・仏教などの大陸文化を伝えましたが、対馬海峡は危険に満ちており、対馬に海神信仰が定着したのもごく自然な成り行きだったのでしょう。また、政祭一致の時代、中央の政治にも大きな影響を与えた古代の占いの技術・亀卜(きぼく)も早くから伝わっていました。
古代米「赤米」
平安時代に編纂された『延喜式(えんぎしき)』に記載された神社(官社、いわゆる式内社)が九州全体で98社ありますが、うち約3分の1にあたる29社が対馬に集中し、九州最多となっています。(壱岐の24社を加えると、両島で九州の半数を超えます)
式内社の多さは、対馬がかつて中央の政治にも大きな影響を与える占いの知識・技術の中心地であり、大陸航路の拠点であると同時に国防の最前線として、当時の朝廷から非常に重要視されていたためと考えられています。
時代が下って江戸時代の対馬藩三代藩主・宗義真(そうよしざね)の調査による島内の神社数は455社(祠がない聖地崇拝などは除く)で、平成29年3月現在、神社庁に登録されている島内の神社は130社(境内にある小さな神社をふくめると約200社)です。
神社合祀などでかなり減少したとはいえ、登録外の神社や小さな祠などを含めると今でも相当な数・密度になり、古代から現代に至るまで、対馬はまさに神々の島だったのです。
ただ、島内のいたるところで神社・鳥居が目に付くにもかかわらず、由緒書きなどの説明板がほとんどなく、訪問者が情報を得るのが困難であるため、対馬の神社を写真を交え何方にもわかりやすくご紹介することを企画しました。構成としては、「古事記・日本書紀
(記紀神話)のあらすじ」「対馬の伝承」「神社と鎮座地の紹介」「コラム」
となっています。
対馬神社シリーズを最後までお読みいただき、これまでまだ一度も対馬に来られたことのない方は是非、日本の原風景「国境の町対馬」とはどのようなところかを体感してみてください。
武神・神功(じんぐう)皇后
【日本神話】 神功皇后
古事記に登場する最強の女性といえば「神功皇后」の名が挙がります。
シャーマン(巫女)の能力があり、「西にある金銀財宝が満ちる国を与える」との住吉三神(前号)の神託を受け、朝鮮半島の新羅(しらぎ)征服を、夫である14代仲哀(ちゅうあい)天皇に進言しますが、仲哀天皇は神託を疑い、神の怒りにより死を迎えます。
皇后は「皇后の胎内の男子が今後国を治める」との神託を受け、軍船を整えて海を渡ると、魚たちが船を持ちあげ、追い風が吹き、船と波が新羅の国土の半ばまで押し寄せました。新羅王は恐れ、戦うことなく服従を誓い、朝鮮を支配することになった、と伝えられています。
神功皇后は北部九州との縁が深く、鎮懐石で出産を遅らせ、帰国後に子を産んだ場所を「宇美」(福岡県春日郡宇美町)」と名づけたなど、一帯に皇后に由来する地名伝承が残され、神功皇后と子の応神天皇は、宇佐神宮(大分県)を総社とする全国の八幡神社に祭られています。
厳原八幡宮神社(いづはらはちまんぐうじんじゃ)
【対馬の伝承】
神功皇后が対馬に残したものは、八幡宮神社(番号1)をはじめ各地に点在する神蹟・神社、「鶏知」「琴」「砥石渕」「綱掛崎」など地名伝承、カンカンまつりや放生会などの神事があります。その数は非常に多く、常に軍事的緊張にさらされる「国境の島」で、いかに武神・神功皇后が島民の心の支えになっていたかを感じさせます。7世紀に築かれたとされる古代山城・金田城(かなたのき)も、神功皇后の出城だと信じられていました。
7世紀に築かれたとされる古代山城・金田城(かなたのき)
また、神功皇后が豊玉姫の神託を受けた、スサノオを祭ったなど、他の神々を祭った起源説話として語られることも多く、その影響力・存在感の強さを感じさせます。
【神功皇后の航路】
(壱岐勝本)→厳原町豆酘:腰掛石、神住居神社(23)、カンカンまつり(神事)→内院:奈伊島神社(島・35)、奈伊良神社(28)→久和:乙和多都美神社(31)→久田道:與良祖神社(6)→厳原:与良石・白石、濱殿神社(3)、笠渕、截裳渕、砥石渕→阿須→美津島町根緒:和多都美神社(37)→大船越:綱掛崎→緒方:乙宮神社(39)→鴨居瀬:八点島、住吉神社(45)、雷浦→豊玉町千尋藻:伊和津畄幾神社(79)、入彦神社→峰町櫛:住吉神社(87)→上対馬町芦見:能理刀神社(126)→琴:胡禄神社(124)、胡禄御子神社(125)、郷ノ浦→西泊:能理刀神社(114)、古津麻神社→鰐浦:本宮神社(109)→(新羅)→峰町佐賀:和多都美神社(88)→木坂:海神神社(86)、伊豆山→美津島町竹敷:八幡神社(49)→黒瀬:大吉戸神社(52)→鶏知:和多都美神社(36内)→厳原町中村:
八幡宮神社(1)、清水山→久田道:與良祖神社(6)
「( )内の番号は下記の『神社庁に登録されている対馬の神社130社』を参照」
和多都美神社
海神神社
與良祖神社(よらそじんじゃ)
八幡宮神社
1 式内社(名神大社)
境内社 平神社、宇努刀神社、天神神社(今宮若宮神社)他
厳原八幡宮神社(いづはらはちまんぐうじんじゃ)
【祭神】 神功皇后 應神天皇 仲哀天皇 姫大神 武内宿禰
【所在地】 長崎県対馬市厳原町中村645-1
(※現在は八幡宮ですが、かつては下県郡の名神・和多都美神社だったと考えられています)
厳原八幡宮神社(いづはらはちまんぐうじんじゃ)
アクセス
厳原町の中心部にあり、厳原港から国道382号線を北に900m進むと鳥居が見えてきます。
周辺の雰囲気・環境など
対馬の海の玄関口・厳原港にも近く、周辺はホテル、商業施設などが立ち並ぶ繁華街です。社叢(神社の森)にクスノキなどの巨木が目立ち、新緑の季節には生命力にあふれる若葉が見事です。
神社のプロフィール
古くから知られた有力な神社で、歴代藩主の崇敬も篤く、宝物庫には太刀・高蒔絵などが奉納されています。
神功皇后が三韓征伐の帰途、自ら神々を祭り、外国の侵略から守り給えと祈ったと伝わります。もともとは海神を祭る名神大社・和多都美神社だったようですが、国防意識の高まりとともに、武神である神功皇后が祭神となったと考えられています。
コラム 清水山の謎
清水山からの眺め
八幡宮神社は、厳原港の北北西にそびえる清水山のふもとに鎮座しています。清水山は、全体が照葉樹(冬でも落葉しないシイ・カシなどの常緑樹の仲間)に覆われ、山頂部の岩盤が露出しているなど、白嶽や龍良山に共通する特徴があり、対馬の信仰の原型を感じることができます。
清水山城(しみずやまじょう)文禄慶長の役に際して築かれた戦国末期の山城。良好な石積み遺構が見られ、国の史跡に指定。
戦国末期の文禄慶長の役に際し、豊臣秀吉の命令で清水山城が築かれ、当時の貴重な山城遺構として、国の史跡に指定されています。石垣が尾根に沿って500mにわたって残されており、市街地にもっとも近い三の丸からでも、城下町の町並みや厳原港、対馬海峡を一望できます。 山頂・三の丸からは隣の島・壱岐が見えることもあり、古い時代から海上交通上および軍事上、重要な山であったことがうかがえます。対馬の中央に広がる浅茅湾南岸に、古代山城・金田城(かなたのき)が築かれた「城山(じょうやま)」がありますが、そちらが対朝鮮半島の山城だとすれば、清水山は九州からやってくる船を監視するための山城だったのかも知れません。
【寄稿文】西 護
一般社団法人 対馬観光物産協会 事務局長
補足資料
八幡総本宮 宇佐神宮
宇佐神宮
宇佐神宮西大門
宇佐神宮御本殿
本殿は南面して第一殿より第三殿に至る三社殿が東西に並び、今の本殿は三社殿とも安政二年より文久元年に亘り造営されたものです。その形は切妻造の建物を前後に二つ並べて中央の谷に大きな樋を設けています。この形式は古い形式を残すもので、いわゆる八幡造の典型的なものとして貴重。
宇佐神宮境内(うさじんぐうけいだい)
宇佐神宮本来の祭神は、八幡神と比売神の二座であり、通説によれば、古い地方豪族たる宇佐[[公]きみ]の比売神信仰に、新来の帰化人秦氏の配下にあった[[辛嶋勝]からしまのすぐり]や[[大神朝臣]おおみわのあそん]の奉ずる八幡信仰が加わり、両者の習合によって成立した。したがって、三柱の比売神の降臨説話で知られる[[御許山]おもとさん]は、神殿をもたず、山頂に三種の巨石体をもつ[[磐座]いわくら]であるが、それに対する八幡神は、[[鷹居]たかい]社・小山田社などの中間の社地を経て、神亀・天平年間に、現在の菱形池を中心とする亀山の地に勧請され、社殿が造営された。前者は宇佐氏、後者は大神氏により奉ぜられたものといわれる。一方、宇佐氏も、仏教信仰をとり入れ、虚空蔵寺、法鏡寺等の中間の寺院を経て、天平年間、法蓮が八幡神宮寺である弥勒寺を建立した。またその後、比売神宮寺をも建立。
このようにして、天平年間、宇佐宮と弥勒寺は、現在の地に完成し、その後急速に勢力をのばし、国家の重大事件に登場し、手向山(奈良)、石清水(京都)、鶴ヶ岡(鎌倉)にも勧請され、中世には、八幡信仰は全国的なものとなった。
宇佐宮の社殿は、応永古図や江戸時代絵図の配置と一致し、弥勒寺も、塔・金堂・東門等の礎石が現存する。大尾山の社殿は神護景雲年間に営まれたところである。御許山には、延喜年間にいたり、正覚寺が建立されたが、権現信仰の発生とともに、国東半島の修験の聖地六郷満山の奥の院として発展し、金山6坊が成立した。現在、坊中跡の石垣・社僧の墓地等が多く残されている。
協力(順不同・敬称略)
一般社団法人 対馬観光物産協会
〒817-0021 長崎県対馬市厳原町今屋敷672番地1観光情報館ふれあい処つしま
TEL 0920-52-1566 / FAX 0920-52-1585
宇佐神宮 〒872-0102 大分県宇佐市南宇佐2859電話: 0978-37-0001
文化庁 〒100-8959 東京都千代田区霞が関3丁目2番2号 電話(代表) 03(5253)4111
鎹八咫烏
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